49 / 64

第49話 弔いの鐘

 ――重々しい弔いの鐘が鳴っている。  あれは貴人の死を悼む大神殿の鐘の音だ。ハルハーン中に広がる重苦しい鐘の響き。葬儀が行われているのだろうと、シェイドは思った。  シェイドの身体は白桂宮のホールに安置されていた。棺の中には無数の花が敷き詰められ、その下には匂い消しのための香草の葉が敷かれていた。額には第一王位継承者を示す額環が、胸元で組んだ指には指輪が嵌まっている。  今はいったい何日だろうか。  往路と同じだけかかったとすれば、誕生祭までいくらも日がない。そのような時期に葬儀を執り行うなど、誕生祭に支障がありはしないだろうか。そこまで考えて、シェイドは自嘲した。  死んだ身で今さら何を案じても遅いというものだ。なるようにしかならない。  人の気配を感じて、シェイドはそちらに意識を向けた。少し離れたところに椅子が置かれ、そこにジハードが座っていた。  肩を落とし、顔は伏せて足元を見つめているようだ。……いや、その目は何も見ていないのかもしれない。痛々しいまでの悲哀が、静かに座るその姿から感じ取れた。  悲しまないでください――。シェイドは胸の内で語り掛けた。  異母兄であるシェイドの死によって、ジハードの王位が脅かされる怖れはなくなった。サラトリアが右腕として政を支え、ヴァルダンから迎えた姫が妾妃となって世継ぎの王子を産んでくれる。ウェルディリアは繁栄の時を迎え、ジハードは賢王として歴史に名を遺すだろう。輝かしい未来の、今日がその始まりの日なのだから。  だが、シェイドの声なき声はジハードには伝わらない。彼は打ちひしがれたように椅子に腰かけ、彫像のように微動だにしなかった。  葬送の儀が始まる前の最後の別れなのか、ジハードは一人きりで、ホールには他に誰もいなかった。  ――と、中庭の奥から人影が現れたことにシェイドは気づいた。  小山のように大きな影は、人目を避けるように柱の間を隠れながらやってくる。ホールに座るジハードの元へと近づいてくる人影は――あれは、旧エスタート砦で国王軍に倒されたはずのニコではないか。  どうして彼が……、そう思う間にもニコは足音も立てずに中庭を横切り、ついにジハードのいるホールに入ってきた。 「……ッ……!」  ジハード、と声を上げたつもりだった。だが死人に声など発せられるはずがない。ジハードは床を見つめたまま、逆賊の生き残りが密かに白桂宮の中まで入り込んでいることに気付きもしない。この宮に勤める他の誰も、この侵入者に気付かなかったのか。  肉体を離れて誰かを呼びに行かねば。そう考えた瞬間、ニコが獣のようにジハードに飛び掛かった。 「……!」  ジハードは床に引き倒され、ニコの巨体がその上に圧し掛かる。床の上でジハードの両足がもがき、両手が襲撃者を引き剥がそうと掴んだ。ニコの広い背が邪魔になって見えないが、首を絞められているらしく声を出せない様子だ。 「……ハ……ッ!」  助けなければ……!  動け! 動け! 動け! せめて片手だけでも動いたなら、ニコの背に物を投げつけて止められる。だが肉体との繋がりはすでに断たれて、動かし方がわからない。手足は鉛のように重く、棺の中に沈みそうに思える。  焦るシェイドの目の前で、ジハードの四肢の動きが徐々に鈍くなっていく。長い足が床の上で震え、服を掴んでいた手から力が抜けた。――駄目だ。ジハードを殺させてはならない。ニコを止めなければ!  強く念じれば指が動いたような気がした。胸元で組んでいた指が剥がれ、両手が離れる。もう少しでニコを止められる。  ……だが、シェイドがそう思った時にはすでに、ニコはジハードを放して立ち上がっていた。 「……ニ……コ……」  呼びかけるシェイドに気付くはずもない。  ニコは床の上に倒れたジハードを暫く見つめた後、ホールを後にして中庭の奥へと消えていった。後に残されたのはピクリともしない床の上の国王だけだった。 「……ジ、ハ……ド……」  国王が襲撃されたというのに、白桂宮の中は静まり返っていた。誰一人駆け付ける者もない。  重々しい鐘の音がまた一つ響いた。まるで死の世界へと旅立つ国王を送るかのように。 「ジ……」  棺の花を蹴散らしてシェイドは床に転がり出た。どうやって手足を動かしたのかもわからないが、無我夢中でジハードの元へ這いずって行く。冷たい床の上に四肢を投げ出した国王は、息をしていなかった。  絶望のあまり世界がぐにゃりと歪んだような気がした。 「…………ッ……」  胸の上に突っ伏して、シェイドは声にならない慟哭を上げた。  どうしてこんなことになってしまったのか。  ただジハードの御代の安寧を祈っていただけなのに。そのためになら命を投げ出すことなど、少しも惜しくはなかったのに――。  ……いや、違う。  泣きながら、シェイドは自分の愚かしさをやっと直視した。やり方を誤ったのだ。  力のないものは何一つ守ることが出来ないのだと、捕らえられた砦の中で痛感したのではなかったか。死ねばまさに何の力もなくなり、運命に干渉することはできなくなる。  ジハードを守りたいのなら、どれほどの苦悩と恥辱に満ちた生でも生きねばならなかった。しぶとく生き続けて、力を手にしなくてはならなかったのに。  ジハードのため、ウェルディリアのために命を捨てたなどとは、綺麗ごとの言い訳だ。本当は、自分が辛くて耐えられなかっただけではないか。ジハードが自分を疎んじて見放し、他の誰かを腕に抱くのを知りたくなかった。世継ぎの王子が生まれるためには、ジハードがその母となる女と交わらなくてはならない。それを目の前に突き付けられるのが怖ろしくて、死という安寧に逃げただけだ。  ――その代償が、ジハードの死に繋がると知っていたなら、どうして命を捨てたりなどしただろう。 「ジ……ハ……ッ、ッ……あ、いして……いま、す……ッ」  もう遅い。今更どれほど言葉を尽くしてもジハードは還ってこない。  体はまだ温かいというのに。胸はまだ、脈打っているようにすら思えるのに……。  ジハードの胸に顔を埋め、しゃくりあげて泣いていたシェイドは、ふと目を瞬いた。本当に、胸がまだ鼓動を打っているように聞こえたのだ。  胸に耳をつけて確かめようとした瞬間――、覆い被さっていた身体が大きく動いた。 「――やっと言ったな、この強情者め!」  詰めていた息を吐き出して低く唸りながら、ジハードが上半身を起こした。床に投げ出されそうになった体を、伸びてきた力強い腕が支える。膝の上に抱き上げられて、シェイドはこちらを見つめるジハードを呆然と見上げた。  目の下に隈を作り、頬が少し窶れていたが、どう見てもジハードは生きていた。そしてシェイド自身もまた、体が自由にならないだけで命を失ってはいないらしい。  状況が全く理解できないでいるシェイドに、ジハードはからくりの種を明かした。 「お前が飲んだのは馬を手当てするときに使う鎮静剤だ。あと半日ほどは痺れが残って満足に動けやしないぞ」  だらりと脱力したままの身体を抱えて、ジハードは言った。  ――鎮静剤……。  勿体ぶった様子で薬を出したサラトリアの顔を、シェイドは思い返した。  確かに彼は毒薬だとは言わなかった。苦しまず、安らかに眠れる薬だと言ったのだ。サラトリアがそういう人間だと知っていたはずなのに、また騙されたのだ。  シェイドが薬を残らず飲んだ時の慌てようも、あれもすべて芝居だったに違いない。誰のために死ぬのかと問われ――。ジハードの名を口走った記憶が、微かにある。 「俺が死んだと思って肝が冷えたか」  ファルディアでのやり取りを振り返るシェイドを、黒々とした瞳が見据えていた。苦悩と狂おしいほどの情熱、そして怒りを湛えて。 「……同じ思いを、また俺にさせるつもりか。それで俺が幸せだと、まだ思うのか」 「…………」  数瞬前に味わった絶望と後悔がシェイドの胸に蘇った。あんな苦しい思いを、ジハードに味合わせてしまったのか。  シェイドは瞬きもせずにジハードを見上げた。力の入らない手を伸ばしジハードに触れようとする。それに気づいたジハードは、手を取って自分の首筋に触れさせた。  ジハード……。  声にならない声で、シェイドはその名を呼んだ。  温かい首筋に、確かに力強い命の脈動を感じる。――ジハードが生きている。生きて、ここにいる。これ以上に嬉しいことも望むこともない。命は何にも代えがたいのだから。  微かに首を横に振ったシェイドを見て、ジハードの視線が和らいだ。安堵したような溜息が漏れ、少し痩せた顔に笑みが浮かんだ。 「……謀るような真似をして、申し訳ございません」  傍らから届いた声に視線を向けると、ニコが大きな体を叶う限り小さく縮めて床に平伏していた。砦の坑道で命を失ったとばかり思っていたが、生き延びて国王の麾下に入っていたらしい。  宮の奥からサラトリアとフラウが出てくるのも見えた。 「私は謝罪は致しませんよ。貴方様には真実しか申しておりませんから」  落ち着き払った声とともに、サラトリアが傍らにふわりと膝を突いた。ファルディアへの長旅の疲れなど微塵も感じさせない、目が覚めるような貴公子ぶりだ。  端正に整った口元に悪戯めいた笑みが浮かんだ。 「息絶えたかと思うほど、安らかにお眠りになれたでしょう。私が貴方様を背に負って、馬で一昼夜かけて神山を踏破する間も良くお休みでした。実に可愛らしい寝顔でしたよ」  平然と言い放つサラトリアに、シェイドは果たして怒っていいのか礼を言うべきなのか分からなくなった。  あの時、誰のために死ぬのかという問いにシェイドは答えてしまった。この青年はそれを聞き、意識を無くした自分を背負って神山の厳しい峰を越えたのだ。  もしもあの問いに答えなければ、王都に戻ってくることはなかったのだろうか。――いや、サラトリアは初めからこうするつもりで、山岳に強い騎馬部隊を揃えてきたはずだ。そうでなければ、あの険しい山を越えることなどできないからだ。策士と評するより他ない。  言葉を詰まらせるシェイドに、サラトリアは蕩けるような甘い微笑みを浮かべて見せた。 「私が貴方様をお慕いしているという話も真実ですよ。私を選んでくださるのなら、いつでも喜んでヴァルダンにお迎えいたします。私の伴侶の席は貴方様のために空けてありますし、世継ぎを作る必要もございませんから」 「やめておけ」  ジハードが腕の中のシェイドを慌ててサラトリアから遠ざけた。 「あいつはとんでもない大悪党だぞ。言っておくが、グスタフの砦に戻って以降の計画はすべてあいつが立てたのだからな。悪知恵が働きすぎて油断も隙もない。あんな奴の側に居ると気が休まる時がないから、俺にしておけ」  言いざま、ジハードはシェイドを抱いたまま立ち上がった。 「――亡くなられたファルディア公は、先王の長子を産んだ栄誉を称えて王家の墓所に埋葬することにした。この鐘はそのための弔いの鐘だ。明日の正午に大神殿で葬送の儀を執り行う。……だからそれまでの間、お前には自分の役割を果たしてもらうぞ」  脱力してしがみつくこともできないシェイドを壊れ物のように抱き、ジハードは白桂宮の内へと足を向けた。  フラウが扉を開き、恭しく頭を下げている。その前を通り過ぎて廊下を歩きながら、ジハードはシェイドの耳朶に唇をつけて囁いた。 「……まずは俺の生涯の伴侶であることを思い出してもらおうか」

ともだちにシェアしよう!