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第52話 神饌:ウェルディの系譜①

 ――うららかな午後。  穏やかな春の陽気で満たされた白桂宮のホールを、不意のつむじ風が搔き乱した。  風で浮いた紙を飛ばされまいと、白い手が伸ばされる。反対側から伸ばしたラナダーンの手がその手に触れた拍子に、書きかけの書類は宙高く舞い上がった。 「あ……」  舞い上がって飛び去る紙を青い瞳が追った。だがラナダーンの視線は仰のいた伯父の首筋と美貌に釘付けになっていた。  宮廷のどの貴婦人よりも端麗なその顔は、磁器のような白い肌と澄み渡った青い目で飾られている。柔らかく肩に降り掛かるのは白金の長い髪。王族だけに許される宝冠がその髪が乱れるのを抑えている。  六百年続くウェルディリアの歴史の中で、ラナダーンの伯父シェイド・ハル・ウェルディスは、唯一黒い髪と黒い目を持たぬ『王』だ。かつては蔑みの対象であった北方風の容貌を持ちながら、この国を治める二人の王の片割れである。  ラナダーンは庭の方を見る青い双眸を振り向かせたいと、触れた手を握りしめた。 「……!」  伯父の青い目がラナダーンの存在を思い出したかのように振り返り、一瞬だけ視線を合わせて伏せられた。  伯父は他人と視線を合わすのを好まない。だが久しぶりに、青い瞳の中で金泥のような虹彩が煌めくさまを見ることができた。ラナダーンはそれを間近で見られたことに満足して、やっと手を放した。 「春は風が強くて困りますね」  何気ない風を装ってラナダーンが言うと、伯父は首肯するように少し微笑って、ラナダーンが触れた手を長い袖の中に隠してしまった。ラナダーンも笑みを浮かべて浮かしていた腰を椅子に戻したが、心臓はまだ早鐘を打っている。  それを誤魔化すために、春風に飛ばされた書類を拾い戻ってくる侍従に視線を向けた。  ラナダーンの父である現国王ジハードは、建国の男神ウェルディの現身だと称えられる偉大な王だ。  父王は即位と同時に、衰退する一方であった王国の再建に乗り出した。兵を鍛えて周辺諸国との戦いに勝利しただけでなく、幾つもの改革を実行して国全体を豊かにした。  その改革の最たるものは、北方の血を引く妾腹の兄を直系王族と認め、国王と並び立つ『上王』の称号を与えたことだろう。  白く透き通る肌に輝く金の髪、鮮やかに澄み渡った青い両目。北方人そのものとしか思えぬ上王は、父王即位前には庶子とさえ認められていなかった。だが麗しき王兄がウェルディスの名を得たとき、古く頑なな貴族たちは膝を突いて頭を垂れ、虐げられてきた奴隷たちは晴れてウェルディリアの国民となった。  父王の勅令一つが国を変えたのではないと、書き物を続ける上王を見つめながらラナダーンは想う。男性ながら咲き始めの花のような美貌が、人々の心を捕らえて無条件に従えさせずにはいないのだ。  不思議なことに、幼い頃から慣れ親しんだ上王の美しさは今も衰えを知らない。父であるジハード王は四十路も半ばを超えており、伯父の上王はさらに幾つか年長だと聞くのだが、その姿を間近で見て信じる者はいないだろう。それほど伯父は若く美しい。  生まれた時に母を亡くしたラナダーンは、元服して宮を出るまでは父王と上王に育てられたのだが、その頃から今に至るまで伯父の姿は瑞々しい青年――いや、嫋やかな乙女以外に見えたためしがない。  そしてその艶やかさは年を追うごとに増すようにさえ思えて、滾る血潮を持て余すラナダーンの心を激しく擽るのだ。 「これを――」  墨が乾いたばかりの書類を、上王がラナダーンに差し出した。  二十歳のラナダーンは、この秋に立太子して上王が持つ第一王位継承権を譲られることになっている。今日はその儀式の準備に先立って、形式的なことを確認する名目でここを訪れた。  無論、それは上王に会うための口実に過ぎない。 「……上王陛下は、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか」  書類を受け取りながらも、まだ宮を辞すつもりはないことを示して、ラナダーンは話を続けた。上王は微笑って小さく首肯した。  この美しい人は、言葉が少ない。  御前会議の場でも、滅多なことではその声を聞くことはできないため、会議の場で『今日は御言葉を聞けるだろうか』と固唾を呑んで見守るのは、きっとラナダーン一人ではないだろう。  少年のように澄んで穏やかな声は、緊迫した会議の場に吹き込む涼風のように耳に心地いい。それを少しでも引き出したくて、ラナダーンはホールの柱から垣間見える庭に視線を投げた。 「こちらの宮に参るのも久しぶりです。今が見頃の花はなんでしょう」  中庭を共に散策しようと誘えば、応じてくれるだろうか。胸を高まらせながら、ラナダーンは敢えて上王から視線を外して返事を待った。  幼い頃には屈託なく甘えたものだが、十五で元服して王子の宮へ移ってからは、御前会議以外で顔を合わせる機会がほとんどなくなってしまった。そのうち背丈が上王を追い越すと、上王の方ももうラナダーンを小さな王子とは別人であるかのように、すっかり他人行儀な様子になってしまった。  光り輝く髪を目立たぬように緩く纏め、青く輝く宝石のような瞳も伏せた長い睫毛の影に潜めてしまう。幼い頃には毎日のように手を繋いで庭を散歩したというのに、今その手は長い袖の中だ。ラナダーンは紙を捕らえるふりをして触れた手の感触を、じわりと反芻した。  剣を握って鍛錬する自分や父王とは違う、骨の細い華奢な手。  幼い頃はもう少し大きいように思っていたが、手の中で握りつぶせそうなほど繊細な感触だった。 「そうですね、今は……」  本当は、答えなど聞くまでもなかった。  春のこの時期に白桂宮の庭を埋め尽くすのは、青みを帯びた大輪の白い花――『シェイド』だ。  叔父と同じ名を持つこの花は、何十年か前までは禁種だったと聞くが、今では王宮のそこかしこで愛でることができる。  しかし一番美しいのは、この白桂宮で咲き誇る『シェイド』で間違いない。あの花を伯父と愛でるのは、子どもの頃のラナダーンの一番のお気に入りだった。  どう言葉を選べば、花のような伯父と二人きりで庭を散策できるだろう。  視線を庭に向けながら、誘いの言葉を思案するラナダーンの目に、息せき切って駆け込んでくる貴族の姿が入った。 「……!」  考える間もなくラナダーンは立ち上がった。  走ってくるのは国王の右腕と目されるヴァルダン公爵だった。激情家の国王と違って常に冷静な公爵が、供さえ連れずに一直線に走ってくる。――宮廷で何かあったのだ。 「陛下、急ぎ表宮殿へ」  公爵は膝を突いて礼を取る間も惜しんで上王に告げた後、ラナダーンに視線を向けて、厳しい顔で小さく頷いた。  後をも見ずに駆け出した伯父について、ラナダーンも走った。  表宮殿では父王ジハードが城下の商人たちに謁見を許しているはずの時刻だ。公爵の足はその謁見の間へと向かっている。  衛兵が立ち並ぶはずの長い廊下を曲がった途端、声もなく立ち尽くす人々の姿を認めて、ラナダーンはただならぬ事態であることを確信した。 「道を開けよ! 上王陛下である!」  戦場で放たれるような大音声が、公爵の口から発せられた。  弾かれたように左右に分かれた人波の奥に現れたのは、床の上に横たわる父王の姿だった。  ――頭の側に膝を突いた御典医が、上王とラナダーンに向けて沈痛な面持ちで首を横に振った。  貴族と衛兵に紛れて、辺りには多くの医官も立ち尽くしている。仰臥する父王の手足は床に投げ出され、衣服は掻き毟ったように乱れていた。  シンと静まり返った謁見の間に、御典医の苦々しい嗄れ声が響いた。 「ご公務の最中、突然お倒れになられ……懸命にお手当いたしましたが……」  後は、言葉にならなかった。  傍らに歩み寄るまでもなく、床に横たわる父王がすでに息絶えていることは、ラナダーンには感じ取れた。  ジハード王という人は、ラナダーンにとっては父というより偉大なる王という意識の方が強い。まるで地上に具現した神を見るように、視線一つ、息遣い一つさえ、常人とは全く違うものに思われる。黙っていても発せられる覇気のようなものが、床の上の肉体からは消え失せていた。――逝ってしまったのだ。  ラナダーンは、目の前で立ち尽くす上王の背を見つめた。  伯父は今、どんな顔をしているのだろう。走ってくる途中で髪が解けて、長い白金の髪が柔らかな光を帯びて背を覆っている。  父王ジハードは即位と同時に、異国風の容貌を持つ異母兄を第一王位継承者へと定めた。  その継承権は秋にはラナダーンへと移譲されるはずであったが、父王はそれを待たずに去ってしまった。身分を表す星青玉が嵌まった宝冠は、いまだ白い額で輝いている。  ――人々が、固唾を呑んで上王を注視していた。  国王ジハードが崩御した今、玉座に就くのは上王以外にない。  王太子となるはずだったラナダーンはどうなるのか。まだ若い上王が妃を娶って子を為せば、ラナダーンの立太子は消えてなくなる。宮廷の形は大幅に変わるだろう。  突き刺さるような視線の中、上王がゆっくりと足を進めた。  床に膝を突き、投げ出された国王の右手を取る。もうその手は冷たくなっていたのか、触れた上王の指が強張った。  上王は国王の手を握り、物言わぬ顔を暫し見つめていた。  重臣も医官も、誰も声一つ上げなかった。息さえ潜めて見守る中、上王は異母弟の頬に触れた後、その両手を胸の上で組ませた。 「……大神殿に、第三十二代国王ジハード・ハル・ウェルディスの崩御を伝えなさい」  感情のない、静かな声が謁見の間に流れた。  国王ジハードの長年の盟友ともいうべき公爵が、無言のまま首肯する。 「そして、宮内府へ――」  白い掌に鮮やかな紅玉の指輪が載せられていた。国王ジハードの右手に嵌められていた、王の指輪だ。  上王は床に膝を突いたまま、その掌を背後へと掲げた。  立ち尽くすラナダーンに向けて。 「第三十三代ウェルディリア国王、ラナダーン・ハル・ウェルディスの即位を執り行うよう――上王の名において命じます」

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