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第54話 建国秘譚
風が清々しい匂いを運んできたのに気づいて、木陰で午睡していた黒豹は金色の目を開いた。黒々とした鼻をスンと鳴らす。
いつものやつが来たらしい。
牙を剥いて大きな欠伸を一つ。鬣のような飾り毛を揺らして、ぶるる、と首を振る。もうひと眠りするつもりだったが、あれが来るのなら相手をしてやらねばなるまい。
前足を伸ばして、黒い豹はゆっくりと伸びをした。黒い毛皮に覆われた筋肉質な肉体が、ぐっと背筋を伸ばした途端ざわりと揺らめき、見る見るうちに色と形を変えていく。並外れて巨大な黒豹の姿から、浅黒い肌と波打つ黒髪の丈高い男神の姿へと。
起き上がって木の根元に胡坐をかいた男神は、金の虹彩が煌めく黒瞳で頭上の枝を見上げた。
「今日も来たのか」
男神が声をあげると、ちょうど真上を飛んでいた青い鳥が、嘴に咥えていた蕾を空から落とした。
幾重もの花弁に守られた綻びかけの蕾が、枝の上にぽとりと落ちる。
次の瞬間――それはすらりとした手足と背を覆う白い髪、鮮やかな青い瞳を持つ蕾の精へと変化した。
「ウェルディ!」
弾むような声につられて、豹の男神の口元にも笑みが浮かんだ。
「獣たちのお話を聞かせてください。今日は人の子の話を!」
細い枝の上に軽やかに腰かけて豹の神に話を強請るのは、まだ若い花の眷属――北の大陸に立つという神々の王、白い巨木ファラスに遣わされた花の神だ。
少し前にファラスの使いとして剣と盾を下賜しにきたのだが、種から芽吹いたばかりだというこの蔓花は好奇心旺盛で、それ以来鳥に自らを運ばせて毎日のように遊びに来る。少々面倒ではあるものの、獣神たちとは一味違う可憐な姿はウェルディの目を楽しませた。
細身の体に花びらのような薄物を纏った蕾は、今日もあどけない様子で伸びた手足を枝に絡めている。白い髪は陽の光を浴びて淡く輝き、小さな顔は咲き初めの花そのもので初々しい。肌からはいつも清々しい若木の匂いがして、それもまた好ましいところなのだが、今日はそこに仄かな甘い香りが混ざっていた。
「人の子か。小競り合いばかり繰り返す愚かな生き物の話など、どうして聞きたがる」
蕾にせがまれて、ウェルディは今まで様々な話をしてやった。
この大陸の木々や花々の話、黒い豹の眷属の話、水の中に棲む魚たちの話、――そしてちっぽけな争いに明け暮れる愚かな人間の話も。
神の姿を模して生まれておきながら、この生き物は言葉さえまともに操れない。年中争ってばかりで、増えては減り、消えたかと思えばいつの間にかまた増えている。とるに足らぬ存在のくせに、時折ウェルディが住まう神域にまでうかうかと入り込んでくるため、怒った供の豹たちは不届き者を腹に収めようと山を見回る始末だ。
どうしてそんな愚にもつかない生き物の話を聞きたがるのか。
「次の朝陽が昇ったら、別の大陸へ赴かねばならないのです……あちらにはまだ人がいませんから」
少しだけ寂しそうに蕾は微笑った。ウェルディは虚を突かれて思わず黙り込んだ。
剣と盾を持ってこの大陸を訪れて以来、花の神は毎朝鳥に運ばれてやってきて、夕暮れ前に北の大陸へと帰っていった。
それはこの先もずっと続くのだと思っていたのに、終わりの日が来たことを前触れもなく告げられたのだ。
「私は春の花なので、季節が変わればもうこの大陸に来てはならぬそうです。ウェルディ……貴方とお話しするのはとても楽しかった」
姿を消すのは本意ではないのだと、蕾は告げてくる。その言葉と寂しげな表情に、ウェルディはいつの間にかこの無邪気な花の訪れを心待ちにしていた己に気付いた。
「そう……か。残念なことだな。次に春が巡るまで、しばしの別れか」
平静を装ったウェルディの言葉を裏切るように、花の神は目を伏せた。
「次の年には、私は北の大陸に根を張ることになります。成熟して、種子を育むべき齢になりますから。ですから、貴方のお話を聞けるのはこれが最後です」
――これが最後。
そう認識した瞬間、黒豹の男神の内腑にぞわりと黒い炎が舞い上がった。
この芳しい匂いを嗅ぐのも最後なら、風に揺れる白い花弁のような姿を目にするのも、これが最後。北の大地に根を張って、二度とこの大陸を訪れることはない。
地を走る獣の神であるウェルディに、海を隔てた北の大陸はあまりに遠い。
――これが、最後か……。
季節はこれからも何万回も巡るだろうに、この蕾と会うことはもう二度とない。このまま帰してしまったなら、どんな花弁を開かせるのかも見ぬまま、二度と匂いを嗅ぐこともできないのだ。
「花の君」
ウェルディは立ち上がって両手を伸ばした。
花の神は毎日やってきたが、木の枝から降りたことはなく、夜を越したこともない。
この大陸で根付いてしまわぬよう、大地に降り立ってはならぬと言いつけられているのだろう。今日はその禁を破らせたかった。
「ここへ降りてこい。今日が最後ならお前の匂いを覚えておきたい」
両手を広げて降りて来るように促す。ウェルディをはじめ、豹の眷属たちは草木や花々を狩ることはないので、怖ろしくはないはずだ。
蕾が躊躇うように足をぶらつかせ、木の上の方では、青い鳥が警告するように鳴いた。
――黙れ、と念じながら、ウェルディは誘う笑みを浮かべる。
「もうすぐ成熟を迎えるのなら、人の子の営みについて教えてやろう」
獲物を狩るには狡猾でなければならない。ただ強いだけでも、ただ速いだけでも、用心深い獲物は逃げてしまう。
ウェルディが笑みを深めて腕を広げると、蕾の白い頬が仄かに紅色を帯びた。青かった実が、食べ頃が近いことを示すかのように。
「そんなに遠くては何も教えてやれぬ。今日が最後なのだろう?」
熟れかけの果実は、父神との約束に心揺らいでいる様子だ。
だがこれが最後という言葉が後押ししたのか、やがて蕾は鳥の警告を無視して軽やかに枝を飛び降りた。
ウェルディは爪を伸ばし、その軽い獲物を大地の上に引き倒した。
「あ……!」
草の上に押し倒された蕾は、一瞬不安そうな表情を浮かべた。ウェルディは逃さぬように上から覆いかぶさりながら、鋭い爪のついた指で白い頬を撫でた。
「いつの間にやら甘い匂いがする。美味そうな匂いだな」
鼻を鳴らしてウェルディは言った。
青く清々しい香りの奥に、昨日までは気づかなかった脳髄を蕩かすような甘さが潜んでいる。熟しきらない青い蕾だが、たしかに花開く時は間近にきているのだろう。硬いだろうが、喰えぬこともあるまい。
ウェルディは芳香を堪能するように、目を閉じて鼻をヒクつかせた。脂ののった肉を骨ごと喰らうのも悪くないが、これはこれで馳走に違いない。
「貴方がたに花の蜜は不要でしょうに」
まだ幼く警戒心を持たぬ蕾は、不思議そうに首を傾げる。
自らを運ぶ鳥に、花の眷属は蜜を分け与えてやるらしい。慎ましく蜜を吸う小鳥ばかりなら良いが、相手を間違えれば、牙や嘴を突き立てられて根こそぎ喰い尽くされる。それを知らずにいたのが運の尽きだ。
柔らかな頬を、黒豹の男神はべろりと舐めた。
「蜜を好まぬ生き物など居らぬ」
鋭く尖った爪を喉元に滑らせる。
ここに牙を立て、噴き出る蜜を顔中濡らして啜ってみたい。だがそれは最後のお愉しみだ。まずは成熟間近の花の神秘を解き明かそう。
幾重にも重なる薄物の衣を、尖った爪がピリピリと引き裂いた。
「生まれたばかりの人の赤子は……」
淡く薄い衣はそよ風にさえ煽られて、引き裂かれた場所からふわりと左右に広がった。滑らかで白い膚が現れる。人間によく似て、人の子の雄でも雌でもない、なだらかな胸だ。
ほとんど色づきのない胸元に、ウェルディは舌を這わせた。
「ここから親の蜜をもらって大きくなる。お前たちが種子を育てるときには、ここから蜜を吸わせてやるのか……?」
「……ぁ……っ」
音を立てて吸い上げると、戸惑いを含んだ声が上がった。
「ウェル、ディ……私たちは……」
「それとも、お前は雄だったかな」
半ばまで裂けた衣が、もっと下まで引き裂かれていく。細い腰と下腹部が露わになった。
人間や獣と違って、花の眷属は体毛をほとんど持たなかった。そのせいで、蔓花らしい細く伸びた足の間に息づくものが良く見える。
未成熟な形をした小振りな雄蕊と、種子を収める小さな袋。そしてその袋の影に、まだ口を開きそうにもない淡い切れ込みが隠されていた。
「私は雌雄同株ですから……優れた花の種を貰うことも、別の花に種をつけることも……アッ!」
生殖の仕組みなら敢えて語られるまでもない。匂いを嗅げば、どこがそうなのかは一目瞭然だ。
それが、未成熟な雌の匂いであっても。
「や……!……なに……!?」
悲鳴する体を押さえ込み、ウェルディは足を左右に開かせた。
薄い割れ目を指で拡げ、発情した雄の昂ぶりをそこへ押し込んで、未通の肉を抉じ開ける。
「ヒッ……ウェルディ、苦し、ぃッ…………ぃ、ぁあああ!……」
まだ固く、口を開くことを知らぬ場所だ。そこを強引に抉じ開けて昂ぶりを押し込んでいくのは、獣が若い雌を我が物にするときの常套手段だ。頼りない悲鳴が耳に心地よい。
ウェルディは口元に獰猛な笑みを浮かべた。
硬い肉を割って初めての場所に己を埋め込むのは、いつ味わっても気持ちがいい。獲物がどれだけ暴れようと、豹王の牙から逃れられるはずもない。喰われるしかない獲物の絶望を味わうのもまたいいものだ。
ウェルディは慄く肉の感触を長く堪能するために、ゆっくりと身を沈めていった。
「……ぁ……」
根元まで押し込んで、満足の息を吐く。
串刺しにされた獲物は、己が何をされているのかも理解できぬ顔で小さく喘ぎながら虚空を見つめていた。見開いたその両目からはらはらと蜜が零れ落ちる。
勿体ない、とウェルディはそれを舐め取った。
「これが人や獣の営みだ。どうだ、心地よいか?」
まともに息も付けぬ体を深々と貫いたまま、ウェルディは残酷に問いかけた。
花の世界はどうか知らぬが、獣の世界は強いものが相手を喰らって勝つ。
手に入れたいものがあればそれを追い、爪をかけて引きずり倒し、犯すなり喰らうなり好きにする。それが獣の営みだ。人も大差ない。
まだ青い蕾であれ、ウェルディが欲しいと思ったのなら、それはもうウェルディのものだった。ファラスの花といえど例外はない。
「……いとな、み…………」
幽かな声で花が呟いた。
青い草の上に純白の長い髪が広がっている。少し冷たい膚は柔らかで、今までに喰らったどの獲物よりも滑らかだった。
その体から、ウェルディの鼻を擽る、甘く瑞々しい花の匂いがする。無理矢理抉じ開けて目覚めさせた所から、獣の本能を滾らせる蠱惑的な匂いが滲み始めていた。
「……ウェルディ……」
夏の空と同じ色の瞳が、涙の雫で煌めきながらウェルディを見上げる。
どれほど無惨に食い尽くしてやろうかと舌なめずりしていたウェルディは、その目を見て息を飲んだ。
そこには自らを喰らう者への恐怖も憎しみもなかった。ただ不意の苦痛に少しばかり怯えながら、疑いもせぬ目で年長の神を見上げているのみだ。
「営みは……これだけですか……?」
ウェルディが身を埋めた肉がぬるりと潤みを帯び、凶器を柔らかに包み込んだ。
白いばかりだった膚が艶やかに色づいていく。唇や胸の飾りがふっくらと盛り上がり、淡く朱を帯びた。婚姻色だ。
誘うような甘い芳香が俄かに濃厚に立ち上った。
「お前……」
「もっと教えてください、ウェルディ……獣の営みを」
しなやかな両腕がウェルディの首に回った。
まるで蔓が大木を支えに上へ上へと伸びるように、まだ成熟を迎えぬはずの幼木が、破瓜されて雌花へと目覚めていく。甘い蜜の香りは、今や噎せ返るほど濃厚だ。
蕾の頃はあんなに幼く無邪気だったのに、開花した春の花とはここまで煽情的なものだったのか。
「ねぇ……ウェルディ……」
花の香りがウェルディの意識を支配する。己が発情の衝動に振り回される一匹の獣に堕ちようとしているのがわかった。
そう言えば昔聞いたことがある。花神の眷属は根を張った土地から動けないために、交配には他の生き物の力を借りるのだ。甘い匂いで誘い込み、花弁の中を覗くものには誰であれ蜜を分け与え、時にはやってきた者を自らの糧として喰らってしまう花もある、と。
一方的に食い散らかしてやるはずが、精気を吸い取られて食い尽くされるのは己の方ではないのか。
だがウェルディは衝動に逆らわなかった。
「……グゥ、ォオオオ――……!」
太い雄叫びが喉から迸る。
本能に支配されるまま、豹の王は組み敷いた肉を喰らいつくさんと激しく貪り始めた。
ウェルディは花の神を二度と北の大陸に帰さなかった。棲み処の山に連れ込んで朝となく夜となくまぐわい、己の番にしてしまった。
喰らい合うような交わりは、青い蕾を瞬く間に成熟させた。
ウェルディは花同士の交配では知るはずもない荒々しい法悦で蕾を啼かせ、芳醇な蜜を溢れんばかりに搾り取った。胎に精を叩きつけ、なだらかな胸を揉みしだいて膨らませ、肌のあちこちに牙を押し付けて所有の証を刻み付けた。蕾はそれに応えて花弁をほころばせ、息を飲むほど艶めかしい大輪の花に姿を変えた。
目が覚めるたびに、ウェルディは幾重にも重なる花弁の中に身を沈めた。
花はウェルディを受け入れて歓喜の蜜を零し、ウェルディもまたその蜜に溺れた。
温暖な夏が来て、実り多き秋が訪れても、ウェルディは巣篭りして蜜を啜り続け、花はますます美しく咲いた。――だが、蜜月はそこまでだった。
怒りに狂う白い巨木が根を引き千切って大地を離れ、花を取り戻しに来襲したからだ。
『返せ! 返せ! 其れは吾が花! 吾が種を生むべき、次のファラスの苗床ぞ――!!』
神王の怒りに空は荒れ、天から落ちる稲妻が森を焼いた。吹きすさぶ風が炎を煽り、森を棲み処とする生き物たちは逃げ惑い、木々は悲鳴を上げた。
『返すものか! これはもはや我が番! 汝は別の花と番え!』
腹の下に花を隠して黒い巨豹が叫び返したが、怒れるファラスが引き下がるはずもない。
神々の王たる巨木は己が枯れる前に草木の眷属を育み、そのうち最も優れた花の神と交配する。ウェルディが奪ったのは、ファラスが前のファラスから受け継いだ種を、長い時を経てやっと芽吹かせた花神だった。
神々の王の力を最も濃く引き継いだ最後の花。ほかのどの花もこの花の代わりにはならない。
「父神様……! どうぞ怒りを鎮めてください。私はこの地に咲く花でありたい!」
『ならぬ! 其方は吾と交配して、新たなファラスを生まねばならぬ! ファラスが絶えれば地上が滅びるぞ!』
黒豹の下から放たれた懇願を、神々の王は大喝して吹き飛ばした。その勢いで地が割れ、川と湖が干上がっていく。
生命を守ってきた大樹は、今や災厄の邪木となっていた。世界がファラスを失うよりも早く、ファラス自身の怒りが大地を滅ぼしかねない。
ウェルディは腹の下の番を守るように伏せながら、小さく舌打ちした。
ファラスの花を掠め取ったのは誤りだった。次のファラスを生み出すための苗床だとも知らず、その蜜がまさかこれほど心蕩かす甘露だとは思いもしなかった。
地上の平穏を考えるならば、この花はファラスの元へ戻すべきだろう。だがあの怒りようでは、今更戻しても無事では済むまい。怒り狂うあの老木が、獣神の精で穢れた花を許すとはとても思えなかった。
それにウェルディも、もはや手放すことは考えられない。美しく咲かせた花とその蜜が与える歓びを失うくらいなら、戦って諸共に滅びた方がましだ。
『愚かなる獣め! 眷属もろとも滅んでしまえ!』
軋みを上げながら無数の枝が襲い掛かってくる。狂った神王に眷属の獣たちが牙を立てて襲い掛かるが、怒れる巨木は揺るぎもしない。万物を生み出し、大地を守護して平穏を与え続けてきた神の王だ。その力が怒りに染まれば、ありとあらゆるものを滅ぼす破壊の神ともなりうるだろう。
辺りの神域は焼け野原となり、花を抱えたウェルディは逃げることも戦うこともできなかった。
――その時。
『……!?』
ウェルディの足元から無数の蔓が萌え出でた。
蔓は互いに絡み合いながら上へと伸び、ウェルディを守るように包み込んだ。絡み合う蔓は太く頑強な若木となり、緑の葉が生い茂って外側を覆い尽くす。まるで花の蔓で作られた強固な檻のようだった。
「ウェルディ……」
体の下からの呼びかけに、黒い豹は伏せていた体を起こした。
麗しい花の神がそこに居た。
もう、鳥に運ばれる小さな蕾ではない。満開に咲き誇り、艶やかな色香を放つ大輪の花の神が、静かな決意を浮かべて佇んでいた。
『花の君……』
黒豹は言葉を失う。
きっと父神の元へ自分を戻せと言うのだろう。地上を守るためにはそうするより他ない。散らされるのを覚悟の上で、自身を解放せよと言うのではないか。
「ウェルディ……」
無言でいる黒豹の鼻面に、白い大輪の花は両手を伸ばした。
愛おしむように抱かれると、すっかり嗅ぎ慣れた薫香が鼻を満たす。もはや例え一夜とて、この香に包まれずに眠ることは考えられない。
惜しむように金の目を閉じて鼻をヒクつかせる黒豹に、花は静かに告げた。
「――私を食べてください」
花が何を言ったのか、黒豹にはわからなかった。
白い両腕で黒い鼻先にしがみつきながら、嫋やかな花は言葉を重ねた。
「私は父神様に育てられた花。戻れば根を張らされて、枯れ落ちるまで交配させられます。ならばいっそ、私は種に戻りたい」
『何、を……』
顔を退こうとする黒豹を、抱き着いた花が留めた。ほんの一振りで投げ飛ばせそうなほどか弱く見えるのに、蔓を持つ花は揺るがなかった。
「私を飲み込んでください。いつか芽吹いて苗木になれば、私はもう一度咲くことができます。それまで貴方の中に隠して守ってください」
雌雄同株の花は毅然として訴えた。望まぬ相手と番うくらいなら、自家交配してもう一度芽吹き直す、と。
「たとえ地上が滅ぼうとも、根付く場所は自分で決めます。ウェルディ、私は貴方の元でだけ咲きたい」
花は乞うのだ。
ウェルディに愛しい番を失わせ、地上が滅ぶことをものともせず、楽園ではなくなった地上に生き続けて、いつ芽吹くかわからぬ自分を守れと。莫大な代償を顧みることもなく、ただ咲きたい場所で咲くためだけに。
美しい花にしか許されない、我儘で如何にも花らしい望みだった。
「迷う時間はありません」
檻を外側から襲うものがある。荒れ狂う巨木が力任せに叩き壊そうとしているのだ。
若木でできた檻はしなやかに撓んで力を逃がしているが、そう長くはもつまい。ウェルディは牙を持つ口を開いた。
長く伸びた鋭い牙。番の花にこの牙を突き立てて喰らいたいと思ったことは一度ならずある。優しく舐めて慈しみたいと思うと同時に、肉を引き裂いてすべてを腹に収めてしまいたいと願いもするのが獣の性だ。
ウェルディは低く唸った。
『我は側に居る。もう一度お前が咲くときまで、片時も離しはせぬ』
「獣の王……私を父神様には渡さないで。どうかこの地で根付かせてください」
花の声に怖れはない。大きく開いた口の前に、一噛みで食い千切られそうな細身の体を曝け出す。
若木の檻はますます軋み、雷鳴と地響きが大地を揺らした。遠く届くのは獣たちの唸り声、巨木の怒号――。
「ウェルディ。私は貴方の花です」
次の神王を生むべき花が、自ら選んだ番を呼ぶ。
凛とした声に押されたように、鋭い牙が噛み合わさった。
ほろほろと灰のように崩れ落ちる花の檻から、黒豹の王は姿を現した。
辺りは見渡す限りの荒野だ。命あるものは逃げ出し、ここに残っているのは傷ついたウェルディの眷属のみだった。
『貴様、吾が苗床を……花を喰ろうたのか!』
崩れ落ちた檻の中に花の姿はなかった。黒豹は口元に貼りついた白い花弁を長い舌でベロリと舐めとり、飲み込んだ。
巨木が放つ絶望の嘆きが大気を震わせる。だが、もう大地は揺るがなかった。
根付いた地を離れ海を渡って災厄を振りまいたせいで、老木は残っていた力を使い果たしてしまったようだ。ねじくれた枝の先からひび割れて枯れていく。絶望がそれに拍車をかけた。
『愚かなり豹! ファラスが枯れれば大地は加護を失う! 凍てつく寒さと灼熱の風が交互に来りて、地上はもはや楽園ではなくなるだろう!』
『楽園でなくとも我らは生き延びる! 草を食み、泥を啜ってでもな!』
吼えた黒豹に、最後の力を振り絞って巨木が覆い被さった。
食い散らされた花の名残を少しでも取り戻そうとしてか、力を吸い上げられる感覚に豹は呻く。だが吸い取った力を活かす余力は、もうファラスにも残っていなかった。枯れ落ちた枝の先から神の力は千々に散り、傷ついた大地に呑み込まれていく。
『呪われよ……力無き獣となり、朽ちて土へと還るがいい……』
呪詛の叫びを最後に残して、地上の生命を育んできた神々の王は、轟音とともに崩れ落ちていった。
折り重なった木々の残骸から這い出てきたのは、浅黒い肌を持つ青年だった。
力の大半を失い、ウェルディは鋭い爪や牙とともに豹の姿をなくしてしまった。残ったのは二本足で歩く、上背のある逞しい体だけだ。力を失った今は、この肉体も百年は持つまい。
『王!』
『王……!』
案ずるように駆け寄ってきた眷属の前で、ウェルディは自らの腹に掌を当てた。
身の奥にあの花の気配を感じる。芽吹く時が来るまで眠っているのだ。
神王の苗床となるはずだった花の種。今度はウェルディ自身が苗床となって、力を与え育てねばならない。いつかもう一度あの芳しい香りに包まれるために。
「リリス! ヴァルディナ!」
ウェルディは二頭の雌豹を呼んだ。艶やかな黒い毛皮と牙を持つ、力強き血族の雌たちだ。
神から堕ちて定命の存在となった以上、ウェルディは眷属の雌豹を娶って力を継いでいかねばならない。
この地には豹神の力が浸透している。傷ついた大地が元の姿を取り戻せば、失われた力のいくらかはウェルディの元に戻ってくるだろう。そうして世代を繰り返すうちに、いつかは芽吹いた花の種が一族の裔となって生まれるに違いない。
その時までに、この地に花のための庭を造っておかねば。
「此処に国を創る。大陸を平定し、子を残すぞ」
王の言葉に、神の眷属たる黒い雌豹たちは後ろ脚で立ち上がった。
高く伸び上がった体が浅黒い肌を持つ妙齢の美女へと姿を変えると、その手には剣と盾が捧げ持たれている。忌々しいファラスからの下賜品だが、人間たちを治めるのに不足はなかろう。
ウェルディはそれらを手に取ると、王の名を知らしめるべく、人間の世界へと降り立って行った。
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