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第55話 神饌:ウェルディの系譜③

 革の表紙を閉じ、ラナダーンは椅子に凭れて深い溜息を吐いた。  すっかり日が傾き、窓からは赤い光が差し込んでいる。まもなく夕暮れだ。残照に浮かび上がる二枚の肖像画をラナダーンは見上げた。  白金の髪と青い目を持つ上王、同じく白金の髪に青い目をした前王正妃。  ラナダーンを産んだ妾妃フィオナを偲ばせるものは、ここには何一つない。父王が心に住まわせたのは、後にも先にもたった一人しかいなかったからだ。  厚みのある書の前半は、北方の大陸で言い伝えられるファラス神話と、ウェルディリアの建国神話について考察したものだった。あの現実主義者だった父王が、まさかこんな浮世離れした話を書き残すとは思いもしなかったが、それは確かに父王の筆跡だった。  後半は父王の手記だ。そこには父王が知る限りの事実が余さず記されていた。上王の生い立ちから、父王と上王の関係まで。最後の頁に書かれていた内容を思い出し、ラナダーンは壁を睨み据えた。  暮れてゆく部屋の中で、白い婚礼衣装だけが淡く浮かび上がっている。  ヴァルダンの斎姫はすべてを見通したうえで、今なお伝説のように語り継がれる婚礼衣装を作らせた。彼女の弟であるヴァルダン公爵もまた、己の果たすべき役割と運命を受け入れて動いている。  陽が落ちた部屋の中で、ラナダーンは冷たく固い革の表紙を指で辿った。  決断するべき時が、自らにも訪れたのだと受け止めながら。  本格的な冬が来る前に、ラナダーンは上王に政務の権限を返上させ、領地のファルディアへと出立させた。  表向きは、体調を崩した上王を転地療養させるという名目である。供を申し付かったのは、前王の側近でありラナダーンの後見役でもあるヴァルダン公爵だ。  宮廷では若い王の独裁体制を批判する声も出たが、ラナダーンは王の権威を以て押し切った。重臣の席がいくつか入れ替わり、新たな役職に取り立てられたものもいたが、大きな混乱はなく宮廷は収まっていった。  そうして季節が二巡した頃、ラナダーンは上王を王都ハルハーンに呼び戻した。  二年ぶりに会う上王は、ここを去った時の病みやつれた姿とは別人のように生き生きとしていた。  かつての美しさと艶やかさもそのままに、いや、以前よりも一層若く瑞々しくさえ見えて、ラナダーンの腹の底に黒い炎を滾らせた。  その炎を呑み込んで、ラナダーンは戻ってきた上王の腕に夏に生まれたばかりの二人の赤子を抱かせた。 「第一王子のセリムと、第二王子のディリウスです。十日ほどしか違わないので、双子のようなものですが」  まだ首も座らぬ赤子たちを、上王は慣れた様子で腕に抱く。  産褥で母を亡くしたラナダーンを養育したのも、この上王だ。二人の赤子の扱いにも戸惑う様子は見られない。微笑みかける横顔は慈愛の女神のようだ。  上王はまだ何も知らないのだ。  自らが辿る運命も、ウェルディの血を引く者たちが負う宿命も――。 「この子らの母親ももう居りません。私の時と同じように白桂宮で育てていただきたいのです」  ラナダーンの言葉に、上王は一瞬怪訝そうに視線を上げた。  何人かの妾妃が王宮に迎えられ、そのうち二人が懐妊して子を為したことまでは知っていたのだろうが、彼女らが既に亡いことは聞かされていなかったのだろう。  何か問いたそうに唇が動きかけたが、腕の中の赤子がぐずるので、上王の意識はすぐにその話から逸らされたようだ。ラナダーンは昏い笑みを浮かべる。  ふと視線を感じて目を向けると、上王とともに王都に帰還したヴァルダン公爵がこちらを見つめていた。ラナダーンが小さく頷くと、公爵もまた目を伏せて小さく黙礼した。  公爵は役目を終え、次はラナダーンの番だ。その次の役目は、生まれたばかりの王子のどちらが担うのだろうか。  ラナダーンは、決して己を哀れだとも不幸だとも思わなかった。むしろウェルディの系譜として生まれたことに感謝すらしている。  例えひと時とは言え、稀なる至宝を己のものにできるのだから。 「この子らも貴方の家族です。どうか慈しんで育ててやってください」  ラナダーンの言葉に、上王は笑みを浮かべて頷いた。その背に手を添えて、ラナダーンは白い宮へと導く。  美しい花の為に用意された、光溢れる瀟洒な牢獄の宮へと――。

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