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第56話 神饌:ファルディアの短い夏①

「着きましたよ」  馬車の奥で座したままの麗人に、サラトリアは声をかけた。  ここはウェルディリアの最北端に位置するファルディア領だ。上王シェイドが生母から受け継いだ領地で、冬の厳しさを除けば風光明媚で豊かな土地として知られている。とは言え、もうすでに風は冷たい。  王都を出てきたのは秋の終わりだったが、隣接するマンデマール領あたりから雪に降られ始め、ファルディア領に入ってからは吹雪にも見舞われた。領主館の庭には既に雪が厚く積もっている。今は止んでいるが、出発がもう数日遅ければ馬に乗り換えねばならないところだった。  そうなると少々厄介だっただろう。乗馬も一通りは習ったはずだが、今の上王に馬の旅は厳しすぎる。 「さぁ、降りますよ。それとも姫君のように抱きかかえて差し上げましょうか?」  揶揄するように言葉を重ねると、奥の人影がやっと動いた。  ふらふらと覚束ない足取りで、御者の手を借りながらやっとのことで馬車から降りる。出迎えのために並んでいた従者たちが、その姿を見て痛ましげに息を飲んだ。 「すぐに温かいものをご用意いたします。中へどうぞ」  領地の管理を任されているターレンスは、儀式めいた歓待の挨拶を省いて主を中へと招き入れた。  館はエレーナ妃が所有していたころの趣を残したまま改装し、上王シェイド所有の離宮となってからは青琉宮と呼ばれている。宮で従事する使用人たちも王室直轄の侍官が多く、王都を遠く離れた地でありながら教育は行き届いているようだ。  上王が後ろも振り返らずに宮の中へ入っていくのを見送りながら、サラトリアは供の従者に命じて持ってきた荷物を運ばせた。そうしている間にも空は曇り、大粒の雪を降らせ始める。  ――そうだ、もっと降り積もれ。  白く霞む天を見上げて、サラトリアは念じた。  長い冬を越すための準備は整えさせてある。後は降り積もる雪が、この宮を何者の出入りも許さぬ檻に変えてくれるだろう、と。  領主の寝室に入って、サラトリアは部屋の中を見回した。  かつての領主が使っていた寝台は、今は取り換えられて二回り大きなものになっている。織物が盛んなファルディアらしく、見事な模様を描き出した天蓋布が二重に下ろされ、窓にも厚い掛布が下がっていた。  暖炉を覗いたサラトリアは、火掻き棒を使って新しい薪を脇に避けた。部屋はもう十分温まっている。今からは肌寒いくらいでいい。  吊るされた鍋に持参した香草を入れると、すぐに清々しい芳香が立ち上ってきた。  ジハード王が生涯の伴侶と定めた上王を娶った時にも、部屋を香草の香りで満たしておいたと聞いている。今の上王にはせめてこの薫りの慰めが必要だろう。  と、扉の開く音がして、サラトリアはそちらを振り返った。この部屋の主が、やっと戻ってきたのだ。  無言のまま佇むサラトリアに気付きもせず、部屋に入った上王は所在無げな様子で寝台まで歩いてきた。  呆とした青い目は何も映しておらぬかのように見えたが、ふと寝台脇の机に置かれた品に目を止めた。その後ゆっくりと室内を巡った視線は、暖炉の前に居るサラトリアのところで目を止め、焦点を合わせた。 「……ッ!」  ヒュッと喉を鳴らして、上王が足をよろめかせた。  寝台の支柱を掴んで倒れずには済んだが、実に良い反応だ。笑みを浮かべながらサラトリアは歩を進める。 「こ……公爵……」  久しぶりに聞くまともな声だった。怯えを浮かべた青い瞳がサラトリアの姿を映している。長い間、生きた人形のようになっていた上王が、やっと目を開いて状況を把握しようとしているのだ。  だが、ろくに食べも眠りもしていない体では、肉体以上に思考力がまともに働かないのは自明の理だ。この部屋にサラトリアが居る意味を、上王はまだ理解できない。サラトリアはそれをわからせるために、わざとゆっくり上王に近づいた。  青い目を何度も瞬いて、上王は自らに近づいてくる男の顔を見つめていた。  サラトリアが目の前まで来て初めて、相手が礼服ではなく湯上りのガウン姿であることに思い至ったらしい。途端に上王は扉へと身を翻した。――無駄なあがきだ。 「あぁ、ぁ……ッ」  取っ手に手をかけた上王を、サラトリアは横抱きに抱き上げた。連れ戻す先は寝台だ。  怖がらせるためにサラトリアはわざと乱暴に寝台の上に放り投げた。心配せずとも、王族の為に誂えられた寝台は主人の体を柔らかく受け止めたはずだ。 「!……公爵……いったい、何を……」  投げつけられた上王は、寝台の上を後退りながら、信じがたいものを見るような視線を向けてきた。蛇蝎のように嫌われていたころを思い出して、サラトリアは笑みを押し隠す。いつの間にか過分な信頼を得ていたらしい。  上王とともに馬車でファルディアに来るのはこれが初めてではない。最初にこの地にやってきたのは、上王シェイドがまだ王兄として宰相位に就いていた時期だった。  拉致された砦で辱めを受け、死による解放だけを望んで王都から逃れてきた時だ。サラトリアは上王をここに連れてきて、苦しみの全てを吐き出させることで現世へと引き戻した。  状況は今もたいして変わらない。運命の伴侶とも言うべき相手を亡くし、上王は緩慢な自死へと向かっている。機械仕掛けの人形のように、食事の席に着き寝床にも入るが、満足に食べも眠れもしていないのは誰の目にも明らかだった。――だが、儚く消え逝こうとしている直接の原因はそれではない。  北方のファラス神殿に伝わる神話とウェルディの建国神話。ヴァルダンの家に代々伝わる古文書を読み解いて編纂したのは他ならぬサラトリアだ。目の前の存在が何者であるかは、誰よりも知っている。  このまま雪のように溶けて消えそうな麗人を留めるために、何が必要とされているのかも。 「何を?……聞かねばわからぬ貴方ではないでしょう」 「……ッ!」  遠ざかろうとするガウンの裾を掴んで、サラトリアは自分の方へと引きずり寄せた。  はだけそうな胸元を必死で掻き寄せた両手が震えている。痩せて折れそうな腕から目を逸らして、サラトリアは慇懃な笑みを浮かべた。 「初めてお会いしたときから、私の心は変わりませんよ。求愛された相手と二人きりでいらしたのですから、こうなることは当然ではありませんか」 「ち……違います、公爵……」  寝台の上で幼い子どものように手足を縮めながら、上王が蒼白になって訴えた。  知っている。上王はサラトリアを信じていたのだ。  口で何と言おうとも、決して一線を超えない男。亡き国王への忠誠心厚く、裏切ることなど絶対にない臣下。  指で、道具で、薬で――。様々な仕掛けを用いて啼かせはしても、それは憐れみや忠誠心からの行いに過ぎない。自らの欲望は最後まで抑え込んでくれるに違いない、と。  雪に閉ざされた牢獄に誘い込むため、サラトリアがそう思わせたのだ。ここへ連れてきた以上、もう欲望を抑える必要はなかった。 「言い方を変えましょうか。――貴方は庇護者を失った。誰に乱暴されても受け入れる以外ないのです。諦めて大人しくなさい」 「……ッ」  今度こそなりふり構わず逃げ出そうとした獲物を、サラトリアは一度解放した。  掴まれたままのガウンを脱ぎ捨て、寝台を降りた上王は薄物一枚で走り出そうとした。だが怯えて固くなった手足は急に動くものでもない。よろめきながら扉へ走るのを、サラトリアは悠々と追いかけ、再び腕に抱え上げた。 「それともこう言って欲しいですか。――暴れても無駄です。荒っぽくされる方がお好みなら、ご期待にお応えしますよ、と」  軽い体を再び寝台の上に投げつける。国王弑逆の夜に、王太子の宮の寝室に投げ入れられたことを思い出すように。  生気が乏しかった顔に、サッと怒りの色が走った。  そうだ、その表情がいいとサラトリアは思う。  常に人の目に怯えているようなこの人が、怒りや嫌悪を露わにしてみせる相手はサラトリアだけだ。  燃えるような恋情が亡き伴侶にだけ向けられるものならば、せめて他の誰にも見せぬこの表情は自分だけのものであってほしい。  ギラギラと感情を昂らせて、上王は慮外者を罵った。 「貴方は……ッ、――亡き陛下の墓前で同じ言葉を言ってみなさい!」 「お望みならば言いましょう。例えジハード様と言えど、死んだ人間には何もできないのですから」  暴れる体を押さえ込み、サラトリアは薄い寝間着を引き千切った。  柔和な顔立ちや立ち居振る舞いがそうは見せないだろうが、鍛錬を欠かさぬ体は今も現役の軍人並だ。細い手首は握って潰してしまわぬよう加減する方が大変だった。手首を捕らえると膝が飛んできたが、稚拙すぎる抵抗だ。サラトリアは膝蹴りを軽くいなすと、割った脚の間に無理矢理身体を割り込ませ、寝間着の残骸を毟り取った。  白い胸の中央には、ファラスの紋章が刻み込まれている。  無垢の肌にこの傷痕を刻んだのは自分のはずだが、もしもあの時助けずにいたならば、この人は安らかな眠りにつけたのだろうか。いや、それは考えても詮無いことだ。 「公爵……ッ」  睨みつけることしかできない青い瞳を、サラトリアは間近で見つめた。  ――美しい瞳だ。  深い湖の底のような青に、金泥のような虹彩が煌めいている。小さな白い顔は、今は痩せて頬がこけているが、それでも十分に美しい。永遠に少年のままのような瑞々しい美貌。  背けようとする顔を手で押さえつけ、サラトリアは唇を合わせた。 「ぅ……ッ!」  噛みついてくるのは予想の範囲内だった。食い千切ると言うのならそうすればいい。痛みは覚悟の上、顔中の肉を削がれたとしても逃がすつもりはない。  それに、組み敷いた相手がそこまでの頑なさを持たないことを、サラトリアは知っていた。 「……ふ…………ッ、う……」  鉄の味がする口づけを続けるうちに、噛みつく力は緩んでいった。  啜り泣いてゆるゆると顔を背けようとするが、サラトリアはそれを許さずに滴る血を舌で押し込んだ。ウェルディの血だ。飲めばいくらかは気持ちが解れるかもしれない。  ついに観念してごくりと喉を鳴らしたとき、やっとサラトリアは唇を解放した。 「……公爵……お願いします……」  上王が小さく懇願した。 「私にジハードを、裏切らせ、ないで……」  これが最後の一線だった。抱かれれば、肉体が悦びに逆らえなくなることを上王は知っている。  嫌悪しようが憎悪しようが、身の内に雄の昂ぶりを受け入れれば歓喜し、体奥に熱い迸りを叩きつけられれば善がり狂う。自身の本性を嫌というほど知っているからこそ、操を失うことを怖れるのだ。  サラトリアは冷然と告げた。 「ジハード王の名は二度と口にせぬように。貴方は私の妻になるのですから」 「……やめ、て…………お願い……嫌、いやッ……」  艶めかしい拒絶の声が天蓋の中を満たす。  白い裸体が陸に打ち上げられた魚のように、寝台の上で身悶えていた。  両手は寝台の上部で一纏めに縛られ、淡い色の髪が蛇のようにのたうつ。所々鮮やかな朱が散っているのは、サラトリアが残した血と吸い跡だ。左胸には特に赤々と血が塗りこめられ、花が咲いたかのようだった。  開かせた両脚の間には、サラトリアの指が潜り込んでいる。香油を塗した指で嬲られ続けて、腰は揺らぎ、媚肉は指に絡みつく。だが、上王はサラトリアが命じる言葉を言おうとはしない。 「欲しいのでしょう。指が届かぬこの奥に、私を呑み込みたくて我慢ならなくなっている」 「言う、な……ぁ、ひぃっ……ッ、ひぃ、んッ……あ、うぅ――ッ……」  く、と中で指を曲げると、啜り泣くような悲鳴とともに指が締め付けられた。どのあたりの感度が良いかはもう知っている。どう嬲れば、堪えきれずに高みへと昇りつめていくのかも。  擦りつけるように蠢き始めた肉壺からそっと指を抜き、サラトリアは柔らかく吸い付く肉環を指先で弄んだ。  何度も直前まで追い上げては愛撫を焦らして、生殺しの苦痛を与え続ける。唇から紡がれるのは拒絶の言葉だが、声は先を強請って甘く絡みついていた。  肉体はもう十分に陥落している。堪えきれない蜜が下腹を濡らし、吐き出す息は甘い喘ぎだ。足の指は敷物を掴んで快楽を耐えようとしているが、肝心の肉壺はちゅくちゅくと音を立て、口を開いてもっと太く逞しいものを待ち構えている。  堕ちるまで、あと少し――。 「もっと香油を増やしましょうか。そうすれば貴方は指だけでも満足できるでしょう」  入り口に埋めた二本の指を大きく拡げてみせる。ヒクつきながら口を開けた中の肉は、物欲しげに収縮を繰り返してサラトリアを誘っていた。  指だけでもと煽ってみせたが、指淫で満足させるつもりは毛頭ない。  穢れを知らぬ乙女の姿をして、この淫花は色欲を貪って咲く花だ。満たされぬ悦びでじりじりと炙り続ければ、いつかは完全に屈服する。  力づくで奪われるだけでは足りない。自らの意思でサラトリアを選び取ることが、今の上王には必要なのだ。  だが、そろそろサラトリアにも待ち続けることが苦痛になり始めていた。 「あまり強情を張られるなら、もっと素直になれるものを用いましょうか」  香油に塗れた肉穴から、サラトリアは指を抜いた。安堵とも、哀しみとも取れる声が細く流れる。手巾で軽く手を拭いた後、サラトリアは寝台脇の机に用意していた道具を持ち上げた。  それは、硝子でできた小瓶だった。  香水入れのような優美な形で、瓶を振ると淡い翠色の液体が中でとろりと揺らぐのが見える。細長く伸びた口の先に、指先で摘まめるほどの小さな蓋が付いていて、細長い硝子の棒が蓋の下から瓶の底まで伸びていた。 「これが何かはご存知でしょう」  困惑を浮かべるのみの上王は、まだ正体を判じかねているらしい。  無理もないことだ。国王ジハードはこのような禍々しい道具を用いようなどとは、きっと考えもしなかっただろうから。だが、上王は知っているはずだ。  サラトリアは宝飾品のようにカットを施された小さな蓋を指で摘まみ、一つ捻って抜き出した。硝子の棒には螺旋を描く溝が彫り込まれ、透き通った翠の液体がその溝をゆっくりと伝い落ちていく。棒の先端は大小の珠を三つ連ねた形になっていて、それ自体が芸術品ように美しい品だった。  優美にして淫蕩。これ以上相応しい道具はあるまい。 「…………ぁ、あぁ……ッ」  螺旋を伝い落ちていく粘液の正体に、上王はやっと思い至ったらしい。目を見開いた顔に明らかな恐怖と屈辱が浮かんだ。 「思い出されましたか」  言葉もなく首を振る上王に、サラトリアは微笑みかける。  娼館から奴隷が逃げるのを防ぐため、或いは客の相手を拒む者への見せしめとして、この洗礼の秘薬は昔から用いられてきた。  一度使えば淫婦になり、二度用いれば犬になる。三度受ければ掃き溜めの穴として、息が止まるまでまぐわうことを止められない。――そう謳われた秘薬を、上王は二度まで使われている。  ただし、サラトリアの手にあるのはかつてのような粗悪品ではなかった。十分に精製され、依存性と常習性が生じにくくなった、貴族の為の贅沢品だ。その代わり、量を過ぎれば正気を失くすほど効き目は強い。  用意した硝子の器具は、上王を従わせるために特別に作らせたものだ。長い軸は太く、その分溝を深く刻み込んである。先端に連なる珠は勝手に抜け落ちないよう、十分な膨らみと段差をもたせた。尿道を遡る時には泣かせてしまうだろうが、一度奥に収まってしまえば肉に食い込んで容易くは動かなくなる。そこに螺旋の溝に絡んだ粘液が少しずつ伝い落ちて、繊細な場所の奥へと染み通っていくだろう。  ただ入れておくだけで、泣き叫ぶほどの快楽が途切れもせずに襲い続ける、無慈悲な責め具だった。 「ご自分の口からおっしゃいますか。それとも、この薬に言わせてもらいますか」  上王が従順になりさえすれば、このような残酷な道具を本当に使う気はない。しかしあくまでも拒むと言うのなら――、いっそこれで狂わせてやるのが優しさかもしれないと、サラトリアは思う。選ぶのは上王だ。  選択を突きつけられ、ついに上王は陥落した。 「従い、ます……公爵……」 「私のことは名で呼ぶようにとお伝えしましたが」  嗚咽を噛み殺しながら、上王は震える声で返答したが、その言葉はサラトリアが求めるものとは違う。  脅すように瓶を揺らすと、息を飲んだ後、上王は絶望の滲む声で答えた。 「抱いてください、サラトリア……」  サラトリアは白い頬に手を伸ばす。涙と汗に濡れた頬は、前王を亡くしてから随分痩せてしまった。  白金の髪は艶を失い、肌は青白い。けれど、病んでやつれた顔もまた美しい。  先を促すように、サラトリアの指が唇をなぞる。青い両目を瞼に隠して、上王は誓いを口にした。 「――私は、貴方の……サラトリア・ヴァルダンの、妻になります……」

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