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第57話 神饌:ファルディアの短い夏②
大神殿での誓いもなく、人々からの祝福もない、密やかな婚姻。
だがサラトリアは自らに許されたただ一つのそれを、歓びとともに噛み締める。
「シェイド――私は貴方の夫として、貴方に全てを捧げると誓います」
二度目の口づけは拒まれなかった。
啄むように唇を合わせると、硬く結んだ唇が迷いを見せながらも少しずつ解けていく。細く尖った顎を指で押して口を開かせ、歯列の奥へと舌を滑らせた。奥で縮こまっていた舌に触れると、上王はおずおずと舌先を差し出してきた。
「ん……」
色を帯びた吐息が鼻から漏れたが、青い両目は現実を拒むように閉じられたままだ。
上王がどれほど前王に心委ねていたかは、サラトリアも良く知っている。別の男のものになるのを受け入れるには、時間と経験が必要だろう。
前王崩御以来、サラトリアは香水を変えた。長年使っていたものから、ジハード王が用いたものに変えたのだ。
体臭と混じりあって全く同じ匂いにはならないが、亡き伴侶に抱かれているような懐かしい気持ちを少しは味わえるだろう。サラトリアとジハード王は体格もほとんど同じだ。目を閉じていれば、上王は自分を騙していられるはず。今はまだ、それでいい。
「……ぁ……ぁあ…………」
首筋を軽く吸いながら、指を胸元に滑らせる。ぷくりと立ち上がった小さな肉粒を撫でると、艶めかしい喘ぎが聞こえ始めた。
淡く色づいた尖りは、見た目はどちらも同じ。けれど感じやすいのは左の方だ。
サラトリアは体をずらして、触れられるのを待つ肉粒を舌で包み込んだ。
「あ……あぁぁ……ッ」
この柔肉を貫く奴隷の札を外してやったのはサラトリアだ。今と同じように両手を縛り、言葉で辱めて追い詰め、秘密を抱え込む苦しみから解放したのもサラトリアだった。
憎まれ、恨まれ、嫌われて……。だがジハード王に向けられたような唯一無二の愛が得られないのなら、憎しみだけでも己一人のものにしたい。
「やめ、て…………怖い……」
歯を当てて力を籠めるたびに細い体が慄く。怖ろしいのは、ここに札を着けられた時のことを思い出すからか。それとも痛みさえ甘美な愉悦に変わっていくのが怖ろしいのか。
ジハード王は、敢えてサラトリアに凌辱の詳細を問わなかった。上王にも話したくなければ問わぬと告げたらしい。だが夜を重ねる中で、左の乳首が右よりもずっと敏感だと気づいた時には何を思っただろう。感度の増したこの場所を苛まずに許してやれたのだろうか。
「怖いだけではないでしょう」
「……ッ、ッ!……くぅ、んッ……」
足の間に触れてやると、小振りな雄芯から滴る蜜で指が濡れた。
恐怖心は時に性感を高めもする。乳首を虐められることに怯えながら、淫靡な上王は小さな絶頂の波に身を捩って悶えているのだ。
「シェイド……」
敢えて尊称をつけずに名を呼んだ。
閨の中で、サラトリアは花の所有者となる。所有され支配されることに、上王をもっと馴らさなければならない。
「恥ずかしがらずに……。私に触れられて、怖ろしくて……気持ちがいいのでしょう」
気を逸らすように右の乳首を撫でてから、左の乳首に歯を立てる。今度は少し強めに、長くじんわりと噛んでやった。
細く掠れる啜り泣きは悦びの声だ。息が上がり、堪えきれずに両脚が敷物を掻き毟る。
「こんなに濡らして。それともこれは痛くて粗相したとでも言うおつもりですか」
「違う……ちが……」
濡れた雄芯をゆるゆると扱いてやると、手の動きに合わせて腰が揺れた。
女のように奥を満たされるのを悦ぶが、男としての快楽に無関心なわけでもない。毎夜のように閨の快楽に溺れてきた肉体は、伴侶を亡くして禁欲を続けたせいで人の手の温もりに飢え切っている。
白桂宮を訪れて力づくで組み敷き、道具を使って何度かは発散させたが、貪欲な体には誘い水にしかならなかっただろう。むしろ渇きを助長させただけかもしれない。
「言いなさい、シェイド。気持ちいいのでしょう」
残らなかった傷痕を探るように指でなぞる。
ハァッ、と胸を大きく喘がせた後、ついに花は堕ちた。
「……気持ちいい…………もっと弄って……」
背を反らして胸を突き出し、両脚はサラトリアの手を挟みこんでいやらしく擦りつけ始めた。
望まれるままに肉の粒を唇で挟み、優しく吸っては舌先で擽る。
手を伸ばして頭上で縛めた手首を解いてやると、汗ばんだ腕は迷いもなくサラトリアの背に回された。肩のあたりを彷徨う手は、髪に触れると戸惑ったように背に戻っていく。前の伴侶と髪質が違うことを、手で触れて実感したくはないと言いたげに。
「もっと……」
背に縋りついていた手が、意を決したようにサラトリアのガウンを握りしめた。
膝を開いて男の胴を挟みこみ、しなやかな足を誘うように絡みつかせる。目を閉じたままの白い貌が、今から発する言葉のはしたなさに上気した。
「奥も……後ろの穴も可愛がって、ください……」
素直な求めに応じて、サラトリアは蜜に塗れた指を奥へと潜らせた。
先程まで指淫で拡げておいた場所は、今はもう慎ましやかに口を閉じている。だがそれは見せかけだ。サラトリアが指の腹で押すと、飢えた肉穴はそれを呑み込まんと吸い付いてきた。
「……ここを?」
わざと低い声でサラトリアが囁く。小さな顔が恥ずかしげに頷き、『どうか、我が身にお情けを……』と懇願した。
両目は固く閉じたままだが、今の上王にはこれが精一杯だろう。
サラトリアは想い人の望み通りに、駆り立てた自身の牡を宛がった。そのまま重みをかけて圧し掛かっていく。
「ぁ、あぁ、ああぁ……」
甘露のような悦びの声が上がった。
その声を聞きながら、サラトリアは逸る我が身を抑え、ゆっくりと肉を割っていく。――柔らかく蠢く肉に包み込まれて、至上の快楽がサラトリアに襲い掛かってきた。
初めて出会ったのはいつの頃だったか。
少年だったサラトリアは、一目見ただけでこの人が運命の相手だと直感した。それから何十年が過ぎたことか。
想い人は国王のものとなり、下賤の傭兵たちの嬲り者にもなり、手が届かぬ至高の地位にまで昇ってしまった。長い時の流れに絶望せず、ただ傍で見つめ続けていられたのは、斎姫であった姉の予言があったからだ。
『いつか必ず貴方の番が来る。ウェルディの血を継ぐ貴方は、運命の車輪の一つ――』
想い人の中に深々と身を埋めて、サラトリアは覆い被さるように突っ伏した。
汗ばんだ白い肌から甘く芳しい香りがする。室内を満たす香草の清々しさとは違って、脳髄を蕩かし、理性を失わせるような魔性の匂いだ。
ジハード、と小さく名を呼ぶ声が耳に届いた。サラトリアは痩せた頬を撫で、青い両目を開けさせる。
「……あの方はもういません」
うっすらと開いた瞳が、自分を組み敷く相手を認めて涙を溜める。その額に、サラトリアはそっと額を合わせた。
「けれど、私が貴方を愛しています」
叶う限りの想いを込めて、優しく囁く。
初めて番となった相手を忘れることなど、まだできないのだろう。だが時は過ぎゆき、この人は取り残される。これから幾度も繰り返されるはずの苦痛だ。
ならばせめて今夜だけでも和らげてやりたい。
「愛しています、シェイド。私の大切な人――」
動き始めた時には、青い瞳はもう瞼の下に隠されてしまっていた。両腕はサラトリアの首に回され、唇から漏れるのは言葉にならぬ嬌声だけ。それでいい。
「貴方に、すべてを捧げましょう……」
飢えた肉の中に、サラトリアは熱い生命の迸りを叩きつけた。
書き終えた手紙に封をして、サラトリアは呼び鈴を鳴らした。侍従長に書いた手紙を預けて、王都から届いた親書にもう一度目を通す。
早馬を使って届けられた親書には、一人目に続いて二人目の妾妃も出産を終え、生まれたのがともに王子であったことが記されていた。誕生の祝賀が一段落すれば、役目を終えた妾妃たちは父王の前例に倣って適切に処理する、とも。
サラトリアは二階にある書斎から窓の外に目を遣った。
ファルディアは今短い夏だ。緑が萌え、鳥たちは歌い、爽やかな海風が吹いている。生命の喜びに溢れる季節だった。
ふと下を見ると、上王が馬に跨ってちょうど庭を歩かせているところだった。
ここへ来た時には病人のようであったのに、二年足らずですっかり生気と美しさを取り戻した。王都と違って気軽に馬に乗れるのが楽しいらしく、根雪が溶けてからは毎日のように乗馬を楽しんでいる。
領地の中を馬で駆けると、いつまでも若く麗しい上王を領民たちが誇らしげに見つめてくるが、人の視線にも少しは慣れたようだ。落ち着いて会釈して、時には短い労いの言葉をかけることもある。好ましい変化だった。
視線を注いでいると、上王が窓から見下ろすサラトリアに気付いた。零れるような笑みが面に浮かぶ。
遠駆けしましょう、と手綱を持ち上げて誘う仕草に、サラトリアは片方の眉を上げてみせる。もう一緒に馬には乗らないと言われたのはついこの間のことだったように思うが、上王は忘れてしまったのだろうか。
先日、サラトリアはちょっとした悪戯で、上王の体内に小さな玩具を埋めたまま馬に乗らせたことがあった。鞍の振動が玩具を程よく揺らしたようで、山裾の森に着く頃には下着の中がトロトロに濡れ、放埓を迎える寸前だった。啜り泣くのを服が汚れるからと木に縋らせて、乗馬服を緩めただけの姿で立ったまま散々善がり狂わせた。
屋外での交合はよほど刺激的だったらしい。初めは声を抑えていたのに、途中からはあられもなく喘ぎ、帰りは腰が砕けて馬に跨れないほどだった。仕方なくサラトリアの前に乗せて二人乗りで帰ったのだが、帰り道にも玩具を収めさせたのが不興を買ってしまった。すっかり臍を曲げて、もう一緒に馬には乗らないと言われたのだ。
あれからは宮の中で慎ましいまぐわいしかしていないので、多少物足りなくなったのかもしれない。サラトリアの想い人は穢れを知らぬ御使いのような姿をして、その本性は男の精を喰らって咲く淫らな花なのだから。
あの日も結局、上王は怒りながらもサラトリアの上に跨って、その日二度目の駈歩をたっぷりと堪能した。そろそろまた、『乗馬』をしたくなったのかもしれない。
手をあげて応えかけた時、――急に胸を絞めあげられるような苦しさに襲われて、サラトリアは息をつめた。
窓の下では上王がまだこちらを見上げている。何とか笑みを浮かべて窓際を離れると、サラトリアは書斎の隅にある長椅子に倒れこんだ。
『いつか必ず貴方の番が来る。ウェルディの血を継ぐ貴方は、運命の車輪の一つだから。――けれど、生命を注ぐのだから、想いが叶った後は長くはもたないと思いなさい』
早逝した姉の言葉が思い出される。
晩年のジハード王も、時折心の臓が握りつぶされるような発作に襲われるとサラトリアに伝えていた。彼も死期が近いことを悟っていたに違いない。
書き上げた手紙には、王都への帰還を急ぎたい旨を認めてある。
もう少し猶予があるかと思ったが、ヴァルダンの血には、建国の男神の力はあまり多くは宿っていなかったようだ。早く王都に戻らなければ、この地に上王を一人残していくことになる。
胸元を握りしめて耐えていると、苦痛は徐々に薄れていった。まだ少しの時間は残されているらしい。
詰めていた息をゆるゆると吐いた時、書斎の扉が叩かれた。
「サラトリア……?」
顔を覗かせたのは上王だ。サラトリアは苦痛の名残を押し隠して、にこやかに両手を広げる。
柔らかな白金の髪、白く透き通る肌。湖底のような深い青の瞳には、金泥の虹彩が神秘的に煌めいている。
この地上で最も美しい花の化身だ。
「あの……遠駆けをしませんか。せっかくのファルディアの夏が終わってしまう前に……」
遠慮がちに誘う上王に、サラトリアは啄むように口づけした。
長く厳しい冬があるからこそ、ファルディアの夏は生命に溢れてこの上もなく美しい。その歓喜の季節は長くは続かないものだからこそ、いっそう尊く感じられるのだ。
腕の中に収まって大人しく口づけを受ける想い人を、サラトリアは抱きしめる。あともう少しだけ、この人は自分一人のものだ。
「……行きましょう。貴方と過ごす一瞬一瞬が、私にはかけがえのない宝物です」
愛ではなくとも、情は向けられている。
願わくば、積み重ねる思い出が離別の苦しみを少しでも和らげてくれるようにと祈りながら、サラトリアは立ち上がった。
夏は、もうすぐ終わろうとしていた。
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