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第59話 神饌:二人の王子①

 明るい光が差し込む窓から、大神殿の鐘の音が重々しく響いた。  シェイドは書き物の手を止めて耳を澄ませる。  一つ……、二つ、三つ。息を詰めて待つうちに、四つ目が。そして最後の五つ目の鐘も余韻を残しながら鳴り終えた。  シェイドは詰めていた息をゆっくりと吐き出す。  大神殿の鐘が五つ――。新しい王子の誕生の知らせだ。  ラナダーンから、第一王子のセリムの妾妃が懐妊して、そろそろ臨月だという話は聞いていた。  白桂宮から出ないために、出産が始まっているかどうかも知らなかったのだが、無事に生まれたらしい。シェイドはジハードに面差しのよく似た二人の王子を思い浮かべた。  今年十八歳になった二人の王子は、どちらもジハードによく似ている。  黒い髪に黒い瞳。兄のセリムは落ち着いて慎重な性格で、弟のディリウスは直情的で負けず嫌いなところがあるが、顔立ちは二人ともそっくりだ。  とは言っても、二人とも十五歳でこの宮を出てそれぞれに与えられた王子の宮で過ごすことになったので、ここ数年はあまり顔を合わせていない。今この宮で暮らしているのはラナダーンとシェイドの二人だけだった。  祝いの言葉を贈らねばと考えて、シェイドは懐妊した妾妃の名も知らぬことに気が付いた。  ラナダーンの即位を機に政務を離れたせいで、王宮の事情にもすっかり疎くなってしまっていた。  以前は王室の重要な儀式の際には参列することもあったのだが、ラナダーンが国王として完全に独り立ちしてからは、そういうこともなくなった。上王という名ばかりの地位は残っているが、若い貴族などはそれさえ知らないかもしれない。  世間から忘れられるということは、本来ならば寂しいことなのだろう。けれど他人の視線を浴びることがあまり得意でないシェイドは、余計な人間と顔を合わせずに済む生活がむしろ有難かった。  他に誰が居なくとも、ラナダーンや二人の王子が側に居てくれる。今日新しく生まれた子も、成長すれば宮に顔を見せに来てくれるだろう。家族と呼べる存在が側に居てくれることにシェイドは感謝した。  それはさておき、まずは王子を産んだ妾妃への労いと祝いの言葉を贈らねばならない。  侍従にでも名と身分を聞いてみようと書斎の椅子から腰を上げかけた、その時――。  書斎の扉は外から荒々しく開けられた。 「ディリウス――!?」  突然現れた第二王子に驚いて、机にあった花瓶に手が当たった。  繊細な造りの一輪挿しは、隣の棚に当たったあと床に落ち、大きな音を立てて割れてしまった。  一瞬そちらに気を取られて、次に振り返った時には、若い王子はもう目の前に立ち塞がっていた。 「ディ……」  暫く見ない間に、第二王子はすっかり大人の風格を備えていた。  広い肩に長い手足、剣を握って鍛錬する顔は浅黒く日に焼け、大股に近づく足取りは力強い。癖の強い黒髪に縁どられた顔は子どもらしい丸みを失って鋭くなり、黒い目は怒りとも憎しみともつかぬ何かでギラギラと光っていた。 「……ディ、リウス……」  その目を見た瞬間、警鐘が鳴った。  身をひるがえして逃げ出したが、若い王子の方が速かった。  駿馬のように追いすがり、シェイドの腕を掴んで引き寄せる。掴まれた腕を引き剥がそうと振り払ったがびくともしない。 「ターレン……!?」  人を呼ぼうと開けた口に後ろから手巾を押し込まれた。  指に噛みついて逃れようとしたが、暴れるうちに袖を引き千切られ、その袖で猿轡を噛まされる。両手を後ろに捩じられ、大きな片手で一纏めに握られた時、シェイドはまだ少年だとばかり思っていた王子がすでに成熟した男であることを知らされた。 「ウ……ウゥッ……」  声は口の中の手巾に吸い取られて消えていく。乱暴な侵入者は残る片手で机の上のものを床に払い落として、空いた場所にシェイドの上半身を押さえ込んだ。  額環が机にぶつかって固い音を立て、衝撃で眩暈に襲われる。抵抗が弱まったその隙をつかれ、部屋着の裾が大きく捲り上げられた。  抗議する暇もない。足を蹴られて開かされ、なおも閉じようとした途端、尻に平手が落ちた。 「――――ッ!」  手加減なしの打擲に、痛みよりも先に震えがきた。  机に身体を押し付けられながら、シェイドは混乱した頭で考えた。  いったい何が起こっているのか。宮廷で何か問題でも起こったのか。どうしてディリウスは言葉一つ発そうとせず、まるで怒りをぶつけるような乱暴を加えるのか。  どうにかして真意を問いただそうと背後を振り返ったその時、秘めるべき場所に凶器が捻じ込まれてきた。 「ウッ、ムンン――――ッ!」  何の準備も前触れもなかった。  指で解すことすらせず、硬く猛った凶器が肉を無理矢理に抉じ開ける。勢いのまま力任せに突き入れられる苦痛に呻いたが、凌辱者は意にも介さなかった。  助けを呼ぶ叫びは猿轡に吸い取られる。暴漢と化した王子は、手首を拘束した手で獲物を机の上に押さえ込んだまま、肉の凶器を一気に奥まで突き入れた。 「……ウ……ウッ……ッ……!」  苦しくて息も止まりそうだ。  異物に体を慣らす暇もなく、すぐさま嵐のような律動が始まる。毎夜ラナダーンに弄ばれる肉壺を、若い獣の牡が荒々しく蹂躙した。  二人分の重みを受けた机がガタガタと音を立てる。行進する兵隊の太鼓のように、肌を打つ音が激しさを増していく。 「……う……ッ、く…………ッ」  突然、激しく突き上げていた凶器の動きが止まり、シェイドの腹の奥で大きく跳ね上がった。背後からの呻き声とともに、深い場所に勢いよく熱が広がっていく。――中に吐精されたのだ。 「ウ…………フ、ゥ……」  シェイドは詰めていた息をゆるゆると吐いた。  全身に冷たい汗が浮かんでいる。  技巧も何もない、一方的に殴られるような交合だった。あっさりと終わりを迎えたことだけが救いだ。 「……上王陛下……」  一言も声を発さなかったディリウスが、やっと口をきいた。まだ興奮が冷めやらぬのか、息が上がり声は掠れている。自分が何をしたのかやっと自覚したのだろうか。  どんな言葉を聞かされたとしても失望は拭えまい。  冷めた気持ちで次の言葉を待っていたシェイドは、身を強張らせて悲鳴した。  腹の中の若い牡が、力を失うことなく再び動き始めたからだ。 「……陛下…………上王、陛下……ッ……」  静かなはずの書斎に、低く名を呼ぶ男の声とくぐもった悲鳴、そして肌を叩く乾いた音が長く木霊した。  ――少しの間、気を失っていたらしい。  意識を取り戻したとき、シェイドは机に凭れるようにして床に座り込んでいた。ディリウスの姿はもうない。  床に座り込んだまま緩慢な動作で猿轡を外して、シェイドはあたりをぼんやりと眺めた。  窓から差し込む光は相変わらず高く、王子誕生の鐘が鳴った時からさほどの時間は経過していないように思える。机の周りには様々なものが散乱し、惨憺たる有様だ。シェイドが身に着けていた衣もあちこち破れて、毟り取られた飾り釦が床に転がっていた。  裾が捲れて剥き出しになった腿には、透明な蜜が伝っていた。部屋には青臭い匂いが濃く漂っている。体内に二度吐精されたところまでは覚えているが、その後のことはよくわからない。あんなに一方的な暴力だったというのに、一度は果てた自分を思い出してシェイドは苦く笑った。  手を伸ばして割れた花瓶の欠片を一つ握ると、シェイドは机に縋ってゆっくり立ち上がった。  あちこち痛むが大した傷ではなさそうだ。いつラナダーンに求められるかわからないので、常に香油を塗りこめておく習慣が幸いした。 「……浄めなくては……」  自分に言い聞かせるように、シェイドはぽつりと呟いた。  日が暮れればラナダーンが宮に帰ってくる。ディリウスの残したものが溢れでもすれば、言い訳するのが面倒だ。  覚束ない足取りで、シェイドは浴室に向かった。  浴室にも侍従の姿はなかったが、シェイドは構わず更衣の為の部屋に入った。  白桂宮の浴室は、いつでも温かい湯を使えるように、ジハードの時代に設備が整えられている。シェイドは姿見の前に立つと、覆い布を取り外した。  縁に金象嵌がなされた大きな鏡が姿を現す。天窓からの明かりが部屋の中を照らし、見慣れた顔を鏡に映し出した。  星青玉を嵌め込んだ額環が陽光を弾いて煌めく。腰まで覆う長い白金の髪、白い肌。両目は青。  今その顔は、目の横に机に打ち付けた跡が赤く浮かび、唇の端が切れて血を滲ませている。釦が引き千切られた襟から、肩についた歯型も見えた。片方の袖を失い、あらわになった手首には指の跡が赤く残っている。――隠しようもない凌辱の痕跡だ。  白桂宮で育てていたころ、二人の王子はどちらも礼儀正しく聡明だった。  二人争うようにシェイドに纏わりつき、二人とも一日中側に居たがった。十五歳で元服してそれぞれに宮を与えられた後も、時折この宮を訪れて楽しい時間を過ごしていると思っていたのに……。  信じていたものが足元から崩れていく。  書斎でのディリウスはまるで獣のようだった。物も言わずにただ欲望をぶつけるのみ。あの朽ちかけた砦で傭兵たちがシェイドを性奴隷として扱った時とまるで同じだ。  視界が歪んで、シェイドは両目を閉じた。涙が頬を伝い落ちていく。  いったいいつまでこんなことが続くのだろう。終わらせるにはどうすればいいのか。  目を閉じたまま、シェイドは破れた袖に包んでいたものを手に握った。鋭く尖った花瓶の欠片だ。  これで喉を掻き切ればすべての苦悩から解放されるだろうか。  ジハードの元へ、辿り着けるだろうか。 「無駄ですからおやめください」  ハッとなった時には、凶器を持つ手が誰かに握られていた。ラナダーンだ。  冷たい目をして夜毎シェイドを叫ばせる支配者。この国の王にしてシェイドの所有者でもある男が、自決を図ろうとした自分を見下ろしていた。  手首を強く握られて、欠片が床へと落ちていく。ラナダーンの足がそれを遠くへ蹴りやった。 「あんなもので貴方は死ねません」  凪いだ水面のように、静謐な声でラナダーンは告げた。  シェイドの腰に手を回し、後ろから支えるように鏡に向かわせる。――そこに映っているのは、壮年期の終盤を迎えようとする王と、見慣れた己の姿だった。  白い髪に白い顔の、何十年も前から変わることのない同じ姿。  赤子だったラナダーンが成長して二人の王子の親となり、その王子たちが今や青年期を迎えている。侍従長として長く仕えてくれたフラウも、一昨年老いを理由に職を辞した。  それなのに、鏡の中の姿は何一つ変わっていない。  白い髪は色を変えることもなく、顔に皺が刻まれることもない。老いていく周りの人々とは対照的に、むしろ徐々に若返っているようにさえ思えて、鏡を覆い布で隠すようにしたのは何年も前のことだ。 「お気づきだったでしょう? ご自身が歳をとらぬことに」  残酷な事実をラナダーンは告げる。  目を伏せたシェイドの顎に手をかけて、ラナダーンは首筋が鏡に映るように仰向かせた。男にしては白く細い首が鏡に映っている。 「父上が亡くなられた日のことを覚えていらっしゃいますか。貴方の首には赤い痣が残っていました」  今はもう痣はおろか、首には黒子一つない。  その白い首にラナダーンは後ろから両手を絡めた。かつて見た痣をなぞるように。 「貴方に課せられた運命を呪って、父上は前の夜に貴方の首を絞めたそうです。完全に息絶えるまで喉を扼し、冷たくなっていく貴方を朝まで抱いていたと。――けれど、夜明けの光が差すと同時に貴方は息を吹き返し、何も覚えておらぬ様子で目覚めてしまった……父上の残した手記の最後にはそう記されていました」  シェイドは鏡を見つめた。  今の今まで忘れていたが、確かにジハードが亡くなった日の朝は不思議なことがいくつかあった。  いつも必ず夜明けの前に目覚める自分が、あの日は辺りが明るくなり始めてから目を覚ました。ジハードは既に起きていて、まるで泣き腫らしたような目だったことを覚えている。前夜の汚れを流すために浴室に来てこの鏡を見た時、確かに首元は赤くなっていたことも。  ――それに、死が間際まで迫ったことは他にもあった。  国王弑逆の朝。ジハードの怒りを買って暴行を受けたあと、一度は鼓動が止まっていたと聞いた。サラトリアが胸を押して蘇生を試みたのが間に合って、辛うじて息を吹き返したのだと。  本当はあの時、一度死んでから蘇ったのではないか。 「死の恩恵は、貴方には訪れない」  いつかは与えられた役目を終え、ジハードと同じ天に還るのだと信じていた。  だが、その日は来ない。老いることも死ぬこともなく、現れては去っていく人々を見守り続けるだけ。ジハードが死に、サラトリアが世を去り、ラナダーンがいなくなっても、自分だけが取り残される。  敢えて見ないようにしていた怖ろしい未来を、ラナダーンが暴き立てる。 「貴方は失われし御使い。――ウェルディスの命を糧に、美しく咲く花なのですから」  破れた襟の間から、年ごとに鮮やかさを増す紋章が鏡に映し出されていた。

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