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第60話 神饌:二人の王子②

「戦の男神ウェルディは、自らの力に慢心してファラスの御使いを喰らってしまった。怒れるファラスは姿を隠し、大地に呪いをかけた。御使いの花が再び咲くまで、地上は凍てつく寒さと灼熱の風に晒され、滅びへの道を歩むだろうと」  シェイドを抱き上げたラナダーンが、白桂宮の廊下を進む。  婚姻の夜にジハードの腕に抱かれてここに入った時と同じように。 「我らは花に跪き、命を捧げねばなりません。それがウェルディの血を持つ者たちに科された役割です」 「待ってください、ラナダーン。貴方はいったい何を知って……!」  侍従たちが恭しく頭を下げ、部屋の扉を開ける。私室の中で待っていたのは、二年前にフラウから侍従長の職を引き継いだターレンスだった。  開かれた扉を潜って、ラナダーンがシェイドを抱きかかえたまま寝室に足を踏み入れる。  そこで待ち構えていた人物に、シェイドは小さく声を上げた。 「……セリム……」  朝に長子を得たばかりの第一王子がそこにいた。  ジハードに面差しがよく似た青年は、床に膝を突いて臣下の礼をとっていた。  だがその装いは寝間着の上にガウンを纏っただけで、彼が何のために白桂宮の寝室にいるのかは明白だった。 「セリムとディリウスには、先に王子を得た方に王位を譲ると伝えてありました」  背後で、寝室の扉の鍵が閉められる微かな音が聞こえた。窓には飾り格子が嵌められている。  密室となったこの部屋にはウェルディの血を引く者たちが残された。 「セリムは名を改め、ジハード・ハル・ウェルディス二世として即位します。貴方に命を捧げる次代の王に、どうぞ祝福をお与え下さい」  何を言っているのだと、シェイドは間近にあるラナダーンの顔を見つめた。  ラナダーンはまだ四十の坂を超えたばかりだ。二人の王子もまだ若い。即位の話をなぜ今しなければならないのか。毎夜寝室でシェイドを征服するラナダーンが病を抱えているとも思えない――そう考えて、背筋を寒いものが走った。  前王ジハードも、まだ十分に男盛りと言える年齢で突然世を去ってしまったではないか、と。 「……どうして、そんなことを……?」  何か予兆でもあったのか。  答えを怖れるように問うたシェイドに、ラナダーンは悲しみの滲む笑みを浮かべた。久しぶりに目にする、人間らしい微笑みだった。 「私の命はそう遠くないうちに尽きるでしょう。けれど後悔することは何一つありません」 「……ラナダーン……」  シェイドは思い出していた。  晩年のジハードも、サラトリアも、時折こんな表情で自分に微笑みかけた。  満たされている、幸福だ、永遠に愛している――そんな言葉を何度も何度も、シェイドの記憶に刻み付けるように囁きかけた。  若くして突然天に召されたと思っていた彼らも、何かの予兆を感じていたのか。そしてそれを悟られないように隠していたのか。 「どうして……」  問うことができる相手はラナダーンだけだった。  シェイドを抱く腕は力強く、まだ若さと精力が感じられる。なのにどうして、命が尽きるなどと言うのか。 「シェイド……」  腕にシェイドを抱いたまま、ラナダーンは額に口づけした。  慈しみと敬意を感じさせる優しい口づけは、まるで輝く瞳でシェイドを見つめた少年の頃に立ち戻ったかのようだった。 「この国は、神の花を甦らせるためにウェルディが作った庭園です。ウェルディリアの王は黒豹の血統を繋ぎ、奪った力を貴方にお返しするのが役目。私はもうすぐその役目を終え、セリムとディリウスが後を引き継ぐのです」  抱き上げた体を、ラナダーンは傍らに立つ若い王子の腕へと渡した。  シェイドは手を伸ばし、離れていくラナダーンの腕を捕らえて叫んだ。 「私はただの人間です! 御使いでも神の花でもない、ただの人間でしかない!」  その叫びは本心からのものだ。  だが同時に、頭の奥で何かの符号がかちりと噛み合ったような感覚もあった。  生けるウェルディとも呼ばれたジハードが、卑しい混血の自分になぜあれほど執着したのか。北方人を忌み嫌っていた亡き異母兄や、何不自由ない大貴族だったサラトリアまで。  歳をとることのない自分。心の臓が鼓動を止めても蘇り、食事をろくに摂らなくても死ぬこともなく。白い肌には、胸に刻まれた紋章以外どんな傷も残らない。  これで本当にただの人間だと言えるのだろうか。  もしかして己はラナダーンの言う通り、愛する者たちの命を吸って生き永らえる化け物なのではないか――。  悲鳴のような叫びを、ラナダーンは穏やかな表情で受け止めた。  伸ばされた手を両手に掬いとり、白い手の甲に恭しく口づける。 「そうであっても構いません。私は貴方に恋をして、貴方を愛した。ただそれだけのこと」 「……私もです、上王陛下」  ラナダーンの言葉に重ねて、呪わしい王家の遺産を引き継いだ王子が、熱の籠った声で宣言する。 「貴方を腕に抱く日をずっと夢見てきました。どうか私のことはジハードとお呼びください」  寝台の上にシェイドの体を降ろした王子が、そっと唇を重ねてきた。  口づけは初々しく、唇は温かい。  ジハードは、突然の死を迎えるまでにシェイドに何度も口づけした。目覚めた時も、眠る前にも。時に荒々しく、時に奪うように。――そして時には優しく慈しむように唇を寄せ、時には情愛の炎を口移しで与えるように唇を合わせた。  化け物と呼ばれ、誰にも触れられなかったシェイドを、あるがままに受け止め愛してくれた。  それはサラトリアもラナダーンも同じだ。ウェルディの血を持つ者たちはシェイドに触れてくれる。自分が何者なのかわからなくとも、抱き留める腕がここにはある。 「……ジハード……」  震える瞼に瞳を隠し、シェイドは新しい所有者に身を委ねた。

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