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第62話 神饌:閉ざされた宮①
槌を抱えた兵士たちが声を揃えて走り出す。
廊下に響く音に奥歯を噛みしめながら、テオドール・ヴァルダンは祈るように扉の向こうを睨み据えていた。
戦の男神が作り上げた王国ウェルディリア。この国は、今まさに千年続いた歴史に終止符を打ち、新たな道を進もうとしている。
最後の望みはこの扉の向こうにあるはずだった。
ウェルディの血を引く最後の王、アルグレッド・ハル・ウェルディスの即位以降、この国は凶運に憑りつかれた。
毎年のように続く干ばつと冷夏。作物は実らず、井戸は枯れ、国の周囲を取り囲む山が火を噴き、海に出た船は荒れた波にさらわれた。
地方の農園は数年で荒れ果て、埋葬されぬ餓死者を喰らって獣が辺りを跋扈するようになった。芸術と学問の都ファルディアからも人が消え、王都ハルハーンでは繰り返し流行った疫病のために多くの貴族が後継ぎを失った。
終わりの見えない苦境は、何百年もの間豊かな実りを約束されてきたウェルディリア人には、とても耐えられなかった。人々は行き場のない怒りを国王にぶつけた。
神の末裔であるはずの歴代の国王は、一人の例外もなく黒い髪と黒い瞳を持っている。だがアルグレッドの瞳は榛色だった。幼い頃はもっと暗い色に思われていたのだが、成年を迎える頃には瞳の色が薄くなってしまったのだ。
人々はそれを王たる資格を持たぬ証と責め立て、神の怒りがこの天災を招いているのだと言い募った。
乳兄弟であったテオドールは、アルグレッドが国王として尽力したことを知っている。
災害に強い作物の耕作を推奨し、新たな井戸を掘るための資金を貸し与えた。税を減免し、疫病が流行れば医師を遣わし、いくつかの交易の権利と引き換えに周辺国から穀物を買い上げもした。
だがどれほど手を尽くしても、天がウェルディリアに微笑むことはなく、国土は年ごとに荒廃していった。人が死ぬたびに国王を呪う声が上がり、その声は貴族たちの間からも上がり始めた。
ついに一部の貴族が反乱軍となって蜂起したと知った時、アルグレッドは乳兄弟を王城に呼び出した。
『ハルハーンを戦火で焼くわけにはいかぬ。私の首を取り、お前が彼らを鎮めてくれ』
国家創建の時代から王家とともに並び立って国を支えてきたヴァルダン公爵家。ここから先はその当主であるテオドールの役割だと告げて、アルグレッドは自ら命を絶った。
残されたのは空になった城だけだ。
王城にはもはや財宝と呼べるものも食料の蓄えもなかった。
残された希望は王宮の奥にある扉――ここだけだ。
鍵が掛かった瀟洒な扉の向こうは、神が住まう神域であり、歴代の王はここで神託を受けたと言われている。ウェルディリアの王家に伝わる伝説の一つだが、今となっては確かめるすべもない。国王以外に、ここに足を踏み入れた者がいないからだ。
何かが残されているとしたら、この扉の向こうしかない。
無血開城した王城に攻め込んできた反乱軍は、めぼしい宝物が既に失われていることを知って泣き崩れた。彼らは王の元に唸るほどの財宝と食料が山積みにされていると妄信していたのだ。厨房に残っていた僅かな麦と干し肉は兵士たちに分け与えられたが、冬を越すどころか全員の腹を満たすのにも到底足りない量だった。
テオドールは剣の柄に手を置いた。
アルグレッドは王として為すべきことを為した。国に起こった凶事の責任は王たる自分にあると言い、逃げも隠れもしなかった。――だが、罪はアルグレッドにあったのだろうか。
国が荒れた元凶は天災だ。空っぽの城を見れば、アルグレッドが持てる財をすべて手放して、国民のために奔走したことがわかる。兵士たちが泣き崩れたのはそれを知ったからだ。
自分たちは神の血を引く国王に全ての罪を押し付けて殺した。この場に居る全員が、自分たちが犯した罪の重さを自覚し始めていた。
廊下に響き渡る槌の音は神の怒号のようにも聞こえる。一つ音が鳴るごとに、『お前たちは無実の王を殺した』と責め立てられているような心地がした。
扉は古いが頑強だった。兵士たちは無言のまま槌を構え、単調で耐えがたい音に耐えながら黙々と作業している。
もしもこの中に何も残っていなければ、自分たちの罪は確定する。
中に残されているのは希望か、それとも神による断罪か。テオドールたちは固唾を呑んで扉を見守る。
蝶番が軋み、扉が歪んでいく。隙間から扉に絡みつく蔓と太い閂が見え始めた。
疲れた持ち手と交代しながら打ち続ける。――ついに石の壁から金具が弾け飛んで扉が傾いた。隙間に槌をこじ入れて、梃子の要領で押し開ける。
「開いたぞ……!」
弱々しい歓声とともに扉を潜ったテオドールたちを出迎えたのは、朽ち果てた庭園だった。
かつてこの庭は、季節ごとに美しい花を咲かせて王の目を楽しませたのだろう。枯れた木々と大理石でできた噴水が、この庭園が華やかだったころの姿を思わせる。――しかし今は栄華の残骸が残るのみだった。
国中を襲った干ばつは、この庭にも例外なく襲い掛かったらしい。足元には枯れ落ちた葉が厚く積もり、木々は緑を失っている。噴水は涸れて底に薄く砂が溜まっていた。
辛うじて生きているのは蔓草のたぐいだけだった。
木と木の間、垣根や小道を超えて、細くしなやかな蔓が伸びている。通路と思しき道を進むと石造りの白い宮が見えてきたが、蔓草はその小宮殿にもびっしりと絡みついていて、まるで牢獄のようだとテオドールは思った。
行く手を阻む蔓を断ち切りながら、テオドールは先頭に立って宮の中を進んでいく。通路に積もる枯葉や道を塞ぐ蔓草を見るに、ここは何年もの間放置されていたようだ。
置き去りにされた古めかしい調度の数々は、高価なものではあるのだろうが、王家の財宝と呼ぶには足りなかった。ここにあるものをすべて売り払ったとしても、たいした財にはならない。廊下を進むテオドールたちの足取りは重くなった。
宮は小さく、探索するのにさほど時間はかからなかった。全ての部屋を見尽くして最後に足を踏み入れたのは、宮の主の居室と思しき部屋と、続きになった寝室だった。
さすがに主の部屋には幾つかの宝飾品が残されていたようだ。
兵士たちが部屋の戸棚を漁っているのを横目に、テオドールは隣の寝室に入った。
時代を感じさせる天蓋付の大きな寝台が、部屋の中央に鎮座している。テオドールは何かに導かれるように寝台に近づき、天蓋布を捲り上げた。
「……!」
瞬間、息が止まるかと思った。
閉ざされていた寝台の上に、人が眠っていたからだ。
人、なのか――。
テオドールは寝台に横たわるものを信じがたい思いで見下ろした。
白い肌に白金の髪。長い睫毛に縁どられた瞼は、安らかな眠りに落ちているようにそっと閉じられている。
細い鼻梁、小さく形良い唇。薄衣を纏う肢体はしなやかな線を描き、少年とも少女とも判別しがたい。青い大粒の星石を嵌めた宝冠が額を飾り、櫛を通した長い髪が首の両側から足元へと一糸の乱れもなく流れている。その胸の上では嫋やかな白い両手が祈るように組み合わされていた。
閉ざされたこの宮に、生きた人間のいるはずがない。精巧に作られた人形だ。
――それにしても、とテオドールは人形を間近で見つめた。
まるで今にも目を覚まして動き出しそうなほどの精巧さだった。額から零れ落ちる絹糸のような髪、磁器のように滑らかな肌に優しげな弧を描く眉。うっすら開いた唇の間からは白い歯が見える。
青年期に差し掛かる直前の、瑞々しく儚い一瞬を切り取って時を止めたような、類稀なる芸術品だった。
これを創った人間は、その手に神の御業を宿していたのに違いない。
気高くもあどけない表情。目を閉じて眠る姿は清らかな乙女そのものに見えて、甘い色香を仄かに漂わせてもいる。
これは男なのか、女なのか。唇から流れ出る声は高く澄んでいるのか、それとも低く柔らかだろうか。閉ざされた瞼の下に嵌まる瞳は、いったいどんな色をしているのだろう。――あまりにも神秘的で、だからこそ触れて確かめてみたい誘惑に満ちていた。
作り物のはずの唇は血を通わせたように淡く色づいている。寝息が聞こえぬのがいっそ不思議なほどだ。
テオドールは身を屈めて美しい人形に顔を寄せた。懐かしい花の匂いを感じたような気がして目を閉じる。もう何年も花など目にしていないというのに、記憶の底から呼び覚まされるかのようだ。
誘惑に抗いきれず、テオドールは花弁のような唇にそっと口づけした。
「……!」
柔らかい――。
そう思った次の瞬間、大地に眠る膨大な量の歴史と記憶が怒涛のように流れ込んできた。
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