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第14話 アリア・ナジャウ①

 顔目掛けて投げつけられた花瓶を受けて、フラウの上半身は水浸しになり、右の額には滲みる痛みがあった。どうやら少し切れたようだ。  足下に残骸となって散らばっているのは、ジハードが宮の主のために作らせた繊細な模様の名品だった。この花瓶には、いつも小さな花を飾ることにしていたのだが、ホールにほとんど出てくることのないシェイドは、もしかしたら一度も見る機会がなかったかもしれない。それが残念でならなくて、思わず溜息が出そうになるのを、フラウは押し殺した。  花瓶の破片を見つめていると、額から滲んだ血が眉の辺りまで伝うのを感じた。感傷に浸っている場合ではない。フラウは目の上を指先で拭うと、花瓶を投げた相手と対峙した。 「申し訳ございません。また後日お見舞い下さるようお願い致します」  深々と頭を下げたフラウの口から出たのは、先刻から何度も繰り返した同じ文言だ。  もはやこれで相手が引き下がるとも思えなかったが、断固としてここを通す意思はないと伝えるには有効だ。  石造りの床を、踵の高い靴で踏み鳴らす硬い音が響いた。 「他に話せる言葉はないの? お前は私の名を知らないようね」  踵が鳴らした音にそっくりな、癇性な硬い声でフラウを詰ったのは、見事な漆黒の巻き毛を持つ妙齢の美姫だった。  アリア・ナジャウ――――例え姿を知らなくとも、その名を知らぬ王宮の従者はいない。  アリアは、公爵家に降った前王弟カストロ・デル・ナジャウの長姫で、女性ながら在外大使を任ぜられた才媛としても名が通った貴婦人だ。  ウェルディス王家特有の均整のとれた長身と波打つ豊かな黒髪、小麦色の肌に彫りの深い美貌を持ち、それに加えて悍馬のような荒々しい気性を持ち合わせていることでも、王宮ではよく知られている。  一時期には、王太子ジハードの正妃になるだろうと噂された婦人だった。 「申し訳ございません。本日は妃殿下のご気分が優れませんので、日を改めていただけますよう……」 「わざわざ私が足を運んでいるのに、日を改めろですって。王妃ともあろう方が」  フラウの言葉を遮るように、アリアが言葉を重ねた。これも一刻以上も続けられた同じ問答だった。アリアもフラウも互いに一歩も譲ろうとしないため、同じ言葉ばかりを繰り返す羽目になっている。  大使としての任期を終えて帰国したこの婦人は、今朝帰国の挨拶を兼ねた国王との謁見を済ませると、その足でこの白桂宮へとやってきた。  本来この宮の通路は国王ジハードとその腹心であるサラトリア以外には開いてはならぬことになっている。表向きは病弱な王妃の療養のためだとしているが、実際には王兄シェイドの存在を隠すためだ。だがその実情を知らされていない通路の衛兵には、国王の従姉姫を追い返すだけの正当な理由が見当たらなかったのだろう。フラウが事態に気づいたときには、すでにアリアはホールまで来てしまっていた。  応対に当たりつつ、急ぎ国王とサラトリアの元に使いを走らせたが、いまだ午前の謁見が続いているようで、表宮殿からの知らせはない。  アリアは国王の許しを得たと主張するが、それはあり得ない話だ。アリアは宮廷での女王然とした振る舞いが目に余ると、王太子であったジハードの意向で国外に遠ざけられた女性だった。そのアリアを、ジハードが白桂宮に招くはずがない。  だが、面と向かって異を唱えるには、アリアの身分は高すぎた。そのため、表宮殿に走らせた使者の返答を待っているのだが、もう一刻は経つのに知らせはまだ来ない。  フラウが時間を稼ごうとするのとは逆に、アリアは国王の謁見が終わる前にすべてを済ませたいようだった。 「もうよい。私が直にお会いするから、お前は下がりなさい」  決然と言い放つと、アリアは扉を守って動かない従者を力尽くで押し退けようとした。  身分ある婦人の振舞いとも思えぬ暴挙に、一瞬フラウは唖然としたが、慌てて両手を広げて扉に張り付いた。いくらアリアに行動力があると言っても、所詮は姫君育ちだ。力で押し負ける心配はないが、誤ってその体に触れでもすれば咎めを受けることは間違いない。  もしもここを突破されれば、シェイドやサラトリアだけでなく、国王ジハードの立場までもが危うくなる。王族であろうが、神官長であろうが、ここを通すわけにはいかないのだ。 「日を改めて、お越しください」  なんと言われようと、ここを通すことはできないのだと、フラウは宣言した。  傅かれることに慣れたアリアの神経を、フラウのその言葉が逆撫でした。 「この家畜上がり……!」  北方人の髪色を持つフラウを、アリアは口汚く罵った。  序列から言えば、同じ公爵家とは言えヴァルダンは臣下に降って長く、ナジャウは王族傍流である。本来ならばタチアナの方からアリアの元に挨拶があってもいいほどなのだ。それをわざわざ宮まで足を運んでやったというのに、扉の向こうに姿を隠して出てこようともせず、応対する従者は北方人の混血と来た。主従揃って礼儀知らずなことこの上ない。 「目障りな……!」  扉に立ちふさがる従者に、アリアは手に持った扇を振りかざした。黄金で縁取りされた扇は、身分ある婦人が召使いを躾ける時にも用いられる。角を使って強打すれば、指の骨を折るくらいは容易い。  どうせ家畜同然の混血だ。多少の傷を負わせたところで、代わりはいくらでもいるのだから。  フラウは扇を振り上げられたことに気づくと、除けようとはせず、ただ目を閉じた。  この国では、フラウのように明るい色の髪や目を持つ者は、家畜同然の北方人よと蔑みを受ける。それは生まれた時から避けようのないことだ。  フラウがジハードの温情で王宮従者として迎えられた時も、侍従仲間から下働きにまで何度となく同じ言葉を浴びせられた。理不尽な叱責や暴力にももう慣れている。そして、それはおそらく、シェイドも同じだっただろう。  フラウの主は、ウェルディスの血が半分入っているとは思えないほど、混じりけのない純粋な北方人の姿をしていた。この国で最も尊い神の末裔の血と、卑しい獣の血があの体の中で混じり合っているのだ。あれほど色のない髪と肌を持っていれば、見た目からしてとても同じ人間とは思われず、王宮になどいられないのが通常だ。だが北方の血が顕著に表れたシェイドの姿は、まるでファラスの御使いがそこに降り立ったかのように神々しくさえ思わせた。  誉れ高き国王ジハードが、常にもなく心を奪われ、執着するのもうなずける。二つとない、世にも稀な美しさだった。  見届けたい、とフラウは思った。ウェルディの末裔であるジハードと、御使いの現身のようなシェイド。この正反対の姿を持つ二人の王族がこの先どうなっていくのか、それをこの目で見届けたい。  そのためには、まずはこの扉を守り切らねばならない。 「……!」  ――――息を詰めたフラウの耳に、突然、背後の扉が開く音が届いた。

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