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第15話 アリア・ナジャウ②

「待たせました。……すぐに席を用意させましょう」  扉を開けて宮の中から出てきたのは、シェイドその人だった。  長い白金髪を略式に結い上げ、化粧は唇に紅を差しただけだが、突然の非公式な訪問にはこれで十分だ。病弱な貴婦人らしく、大きな毛織物のショールを巻き付けているため、いつもよりさらにほっそりして見える。 「……殿下!」  何か言いかけるフラウを目顔で黙らせ、シェイドはゆったりした仕草でホールの片隅にある椅子に足を進めた。その後ろを菓子や果物、茶器を捧げ持った従者達が列を成して続く。中身は昼食に供されるはずのものだったので、厨房に命じて取り急ぎ用意させたのだろう。  打って変わった歓待ぶりにアリアは気勢を失い、大人しくシェイドの向かいの席に腰を下ろした。従者が代わる代わる飲み物や香辛料の嗜好を尋ねては、ゆっくりと時間をかけてそれを用意する。間をもたせるための時間稼ぎだ。  用意を終えた従者の一人が通路の方へと消えていくのを見届け、フラウは一旦ホールを離れた。 「……これはどういうことです」  いったい誰がシェイドにこの事態を伝えたのかと、フラウは次官に詰め寄った。だが、次官の言葉は意外なものだった。書斎にいたはずのシェイドが自ら出てきて、アリアと歓談するための準備をするよう命じたというのだ。  この白桂宮に来てから、シェイドが侍従たちに何かを命じたのはこれが初めてのことだ。今までは仮初めの主なのだと言わんばかりに、従者たちとも一線を引いて、シェイドの方から何かを命じることも話しかけることもなかった。これはいったいどういうことだろうか。  フラウは慌ただしく汚れた侍従服を改めると、何食わぬ顔をしてホールに戻った。ホールではまだ席の準備を整えているところだ。アリアが焦れているのは分かったが、泰然としたシェイドの様子に何も言えずにいる。何とも不思議な光景だった。  フラウは向かい合って座る二人の貴婦人を交互に見た。  下座に座ったアリアは、真冬だというのに肩を露わにした真紅の盛装姿だった。豊満な胸の盛り上がりを見せつけるように、人目を惹く豪奢な首飾りが鎖骨の辺りで光を弾いている。  高く結い上げた黒髪には黄金で作られた額環が飾られていた。額環は、公式の場ではウェルディス王家にのみ許される装飾品であり、公爵家に降ったナジャウの一族は厳密に言うならば身に着ける資格を持たない。だが、アリアはいまだに自分をウェルディス王家の一員として数えているようだ。  一方のシェイドは王位継承者の徴である星青玉の額環を外し、身に着けた装飾品は右手に嵌めた王妃の指輪だけだった。その右手に優美なレース編みの扇を広げて持ち、伏せた睫毛の下に青い瞳を隠している。ゆったりした略式装は淡く優しい色で、裾に従うほど緻密な刺繍がされているが、上半身は緩い襞が寄せられているだけの簡素なものだ。大きく羽織ったショールも、よく見れば複雑な地模様が織り込まれているのだが、それを知ることができるのは間近に相対したものだけだった。  物憂げな様子で背凭れに体を預けた姿は静謐で、ホールの外に広がる冬景色と相まってまるで雪の精霊のようだ。俗人が声をかけることなど許されないような、冷然たる空気が漂っていた。  温かい茶器を最後に置いて、歓談の用意は整ってしまった。フラウは通路の方に視線を投げたが、二度に亘って送り出した使者はまだ戻らなかった。  これ以上引き延ばすことはもうできない。フラウが胃の痛くなる思いで見守る中、シェイドが静かに口を開いた。 「……お見舞いに感謝します、ナジャウ家の姫君」  温度を感じられない、冷たい声だった。  宮廷では、身分の低い者は自分から高位の者に声をかけることは許されていない。例え先々王を祖父に持つ国王の従姉であっても、現王妃の座につくタチアナよりは格下だ。アリアに用意された席も下座だった。  礼節も弁えずに我が物顔で宮に乗り込んできたアリアの前で、シェイドはまず身分の違いを明確にしたのだ。 「……アリア・ナジャウと申します。王妃殿下」  屈辱に震えながら、アリアは名を名乗った。  今さらながらに思い知る。ここは白桂宮――――王妃のために造られた宮だ。如何なる尊い血筋の婦人であっても、この宮の中ではただの貴族令嬢に過ぎない。  命に従わない従者の態度にアリアは憤ったが、そもそもすでに明確な身分の差があったのだ。宮廷社交界において常に最高位にあったアリアの居場所は、目の前の女が奪い去っていた。その残酷な現実を、たった今アリアは突きつけられたのだ。 「では、アリア様。せっかくですから、大使として諸外国を回られた時のお話など、お聞かせいただけますか」  熱の籠もらない声は、王妃がアリアにさしたる興味を抱いていないことを伝えてくる。アリアが在外大使の任に就いていたことを知ってはいても、それ以上の関心は持っていないのだ。  ジハードに最も近しい従姉であり、次の王妃だという声も名高かった自分に、この女は何の興味も敬意も持っていない。その事実がアリアを打ちのめした。  相手はウェルディリアどころか、王都ハルハーンの城下屋敷からさえ一歩も出たことのないような病弱な女だ。外交どころか宮廷の社交界もまともに知らない女が、弟が国王の腹心であることを利用して王妃の椅子に座るなど、決してあってはならないことだ。――――だが、それはすでに現実の物となっていた。  これが非の打ち所無い美姫であったなら、悔しくは思っても諦めもついただろうに。まるでウェルディリアの貴族らしからぬ色のない髪と白い肌は、よりにもよって卑しい北方娼婦そのものではないか。  血筋でも容貌でも、勝りこそすれ劣るところなど一つもない。  なのに、これから先宮廷にある限り、この王妃の風下に立ち続けなければならないという現実は、アリアには到底受け入れられなかった。  大使として諸外国に赴く話が出た時、すでにアリアは宮廷で言われる適齢期を過ぎていた。無論縁談はいくつもあったが、王太子がいつか自分を王妃に迎えてくれるものだと信じて全て断ってきたのだ。大使の任も、王妃に相応しい外交経験を身につけさせようとの意向だと信じて、疑いもせずに務めてきた。――――それなのに、この仕打ちだ。  おそらく国王も望んでこんな女を王妃に就けたのではないに違いない。ならば、役に立たない飾り物として、この小さな宮の中に一生押し込めておけば良い。宮廷に出ようなどと思いもせぬように。 「では、北方諸国に赴いたときの話など致しましょうか」  アリアの言葉に、王妃の隣に立つ従者が顔色を変えた。  ヴァルダン家は元は王家と祖を同じくすると言われながらも、代々の当主が血統を重んじてこなかったために多くの下賤の血が混じっている。サラトリアやタチアナも、髪の色から察するに血筋卑しい母親から生まれたのだろう。傍らに立つ従者と同じように。 「海を渡った先にある大陸はとても貧しいのです。何しろ一年の大半を大地が雪に覆われているので、作物がほとんど穫れません。ですから国を捨てた農奴たちが短い夏の間に大挙してウェルディリアに流れ込んでくるのです」  アリアは王妃が動揺する様を見ようと思ったが、伏せがちの目はアリアを見ようともせず、扇で隠された口元はどんな表情を浮かべているのかを悟らせなかった。  アリアは笑みを浮かべて続きを語る。世間知らずの姫君でも、何を言われているのかよく理解できるように。 「言葉も通じない農奴ですもの。彼らは皆、海を渡る船の上で身ぐるみを剥がされて、害になるものを持ち込んでいないか、体中を調べられるそうですよ。若い女も男も、皆……」  海の旅は数日に及ぶ。その間、北方人達は逃げ場のない船の中で船員たちから辱めを受け、拒む者は冷たい海に放り込まれて命を落とす。ウェルディリアに到着した彼らを迎えるのは人買いだ。安宿に売られるか開墾地などの過酷な農場に送られるかがそこで選別される。どちらにしても犬並の扱いであることに変わりはない。  ウェルディリアでは、北方人は家畜同然の生き物なのだ。その血を引く混血児達もまた。 「嫌ですわね。近頃は王都ばかりか王宮の中にまで、そういう卑しい輩が紛れ込んできているようで、獣臭くて困りますわ」  痛烈な侮蔑の言葉に、白桂宮の従者が顔に朱を昇らせた。自分や王妃の事を当てこすられたと理解したのだ。  傍らの王妃も内心さぞかし屈辱に震えているだろう。アリアはそう確信して様子を窺ったが、王妃の扇は微動だにせず、白い顔に血の気一つ昇らせた様子がなかった。伏せた目の長い睫一つ、揺るぐことさえない。  そよ風一つ吹かなかったと、生きた彫刻のような王妃は静謐なままだった。 「……アリア様がお困りになることなど、何もございませんでしょう」  やがて出てきた言葉には、先ほどからと同じく何の熱も感情も籠もってはいなかった。これほど感情を持たない人間が存在しているのを、アリアは初めて目の当たりにした。 「ナジャウ家ほどの名家なら、お困りになることなど何一つありません。目に触れたくないものならば、排除しておしまいになればよろしいのです」  この言葉はあまりにも淡々としていて。  言われて暫く、アリアはその言葉が意味するところが理解できなかった。  アリアは、タチアナに自戒を促そうとしたのだ。自分たちに卑しい北方の血が混ざっていることを忘れるな、と。それなのに当のタチアナが、目障りならば排除せよ、とはどういうことか。  王家傍流たるナジャウ家の威信をかけて、ヴァルダンを排除してしまえと言ったのだろうか。それができるものならとっくにしていると言いかけて、アリアは沈黙した。  できないのだ。  いくら家畜同然だと罵ろうと、ヴァルダンは国王の第一の側近として宮廷内で確固たる地位を築いている。腹の中で何と思っていようが、今のヴァルダンに表立って逆らえる貴族は一人もいない。  アリアの父カストロ公爵は、旧国王派の筆頭として王太子時代のジハードとは対立する立場にあった。ジハードが即位した現在、カストロはすでに宮廷内での実権のほとんどを失っている。  ヴァルダン家のタチアナは王妃という輝かしい座を手に入れたが、今のアリアは失脚した公爵家の一人娘に過ぎないのだ。王妃どころか、側室に選ばれることさえもう望めないだろう。国元を離れている間に、アリアの立場は大きく変わってしまっていたのだ。 「そんな……」  アリアは言葉を失った。  社交界のことさえまともに知らない箱入り令嬢を嘲笑ってやるつもりで来たというのに、こんな滑稽なことがあるだろうか。現国王の従姉であり、由緒正しい王族中の王族である自分が、こんな得体の知れぬ女の前で膝を折らねばならないとは。  アリアは立ち上がると、大きく息をつきながら、座したままの王妃を見下ろした。  不気味なほど生白い顔と、吹けば飛ぶような痩せた貧相な体。何一つとしてこの国の王妃に相応しくなどない。あの若く逞しい国王には何一つとして相応しくない。  そう詰りかけて、アリアは気づいた。  ショールを巻き付け、結い上げた髪で隠した首筋に、いくつかの鬱血の跡があることを。交合でつけられた愛撫の痕跡だ。 「……恥を知りなさい! この娼婦め!」 「……ッ!」  思わずアリアは手元にあった茶器を投げつけていた。  あの凜々しい国王ジハードが、こんな貧相な女を寝台で相手にするはずもない。ならばこの女は王妃という地位にありながら、従者と淫らな戯れに耽っているということだ。  それ以外には考えられない。卑しい、獣同然の北方人の血を引いているのだから。  投げつけた茶器は庇うように飛び出してきた従者の背に当たって落ちた。口惜しいことに、王妃は微塵も動揺を見せることなく、今なお悠然と椅子にかけたまま逃げようともしていない。  アリアは菓子を切り分けるためのナイフを手に取った。人前に出て王妃としての務めを果たす気もないのなら、いっそこの国から消え去ってしまえばいい。そうすれば相応しい人間のために王妃の座が開くのだ。 「――――それで何をする気だ!」  だが、背後からかかった鋼のような声に、アリアは手に持った刃物を取り落とした。  振り返ればそこに居たのは、謁見の間で挨拶を交わした国王その人だった。  外国での長い任務を労ってくれた従弟の顔はそこにはなかった。息を飲むほどの憤怒の表情に、アリアは声を失った。  誤解だ、この女が不貞を働いたのを断罪しようとしていただけなのだ、そう言おうとするより早く、大股に近づいてきた国王が腕を振り上げ――――。 「陛下ッ!」  誰かの制止しようとする声が聞こえたが、次の瞬間、アリアは床に倒れ伏していた。  頭が割れるように痛み、吐き気までする。眩暈がしてとても立ち上がれない。自分の身に何が起こったのかもわからなかった。  霞む視界の中で、国王ジハードがアリアに背を向ける。  誰かをまるで宝物のように腕に抱き上げて、振り返りもせず立ち去って行く後ろ姿が、涙で歪む視界におぼろに映った。

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