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第16話 王妃の座
「陛下……陛下ッ……」
抱え上げられたシェイドは、問答無用で湯殿に連れてこられた。
体に巻き付けたショールを毟り取られ、裾の長い部屋着を捲り上げられる。繊細な細工物の飾り釦が千切れ飛んで、石の床を転がっていった。
「早く服を脱げ、どこに湯を被った!」
「……被って、おりませんッ……!」
下着ごと引き裂くように服を脱がせるジハードの手を、シェイドは必死になって押し留めた。確かに中身の入った茶器を投げつけられはしたが、それを浴びたのはフラウであり、しかも煎れてからの時間を考えれば十分冷めていたはずだ。
「フラウが、庇ってくれましたから……」
息を切らしながら、シェイドは破れた部屋着をかき集めようとする。その手をジハードが掴み上げた。
「赤くなっているぞ」
「それは……!」
透き通るような白い肌のあちこちに、鮮やかな赤みが散っていた。だがこれは湯を浴びせられた火傷の跡ではない。昨夜やその前、さらにその前の夜にジハードがつけた所有の印だ。
恥じらって口籠もるシェイドの様子に、ジハードもやっと思い至ったらしい。
「……ああ。……俺がつけたものか……」
「……んっ」
指先で触れて確かめられて、微かな痛みにシェイドは身を竦ませた。
跡が残されているのは、どこも敏感な場所ばかりだ。そこを吸われたときに味わった深い快楽を思い出すと、自然と体の芯が火照ってしまう。そうとは意識しないまま、甘い吐息が鼻から漏れてしまった。
「どうか、お放しください……」
頬を赤らめて、シェイドは懇願した。視線に怯えるように少し顔を背けて、伏し目がちの目は泣き出しそうに潤んでいる。閨の中で見せるのと同じ、恥じらいの表情だ。
不意をついて匂い立った色香に、ジハードは思わず唾を飲み込んだ。
真昼の湯殿の中で引き裂かれた部屋着をかきあわせて裸体を隠そうとしている、しどけない伴侶の姿がジハードを煽る。どうして躊躇する必要があるだろうか。これは誰に遠慮する必要もない、神の御前で契りを交わしたジハードの妃だ。抱きたいときに抱いてよい肉体だ。
「……怪我がないか、この目で確かめてやろう……」
ジハードが手を振り、侍従たちに退出を命じた。
後を追ってきていた大勢の侍従が、潮が引くように姿を消していく。最後にフラウが扉を閉めて出て行くと、蒸気が立ちこめる湯殿の中はジハードとシェイドの二人きりになった。
「全部脱いで、俺に見せてみろ。お前の体に一か所でも傷がついていたら、あの女を極刑に処してやる」
強い口調に逆らうこともできずに、シェイドは体を覆う役を果たさなくなった布きれを床に落としていった。
真冬だが、一日中出で湯が湧き零れるこの湯殿は蒸気で満たされていて、少しも寒くはない。石造りの床を溢れた湯が流れ続けているために、いっそ蒸し暑いくらいだ。湯船に浮かべられた香草が豊かな香りを湯殿の中に漂わせている。
「……なぜアリアと会うことになった。侍従に何か不手際があったのか」
怒りの波はすでに去り、穏やかな口調でジハードはシェイドに問いかけた。だがここで答え方を間違えれば、フラウやこの件に関わった侍従達が後で罰を受けることは容易に想像できる。シェイドは慎重に言葉を選んだ。
「……お会いして話をしてみたかったのです。公爵家の姫君でありながら、在外大使まで務められたお方ですから。今の国内の情勢や隣国の様子などもお聞きしたいと思いました」
政務の話はジハードとの食事の際に必ず出る話題だ。王族としての教育を受けていないシェイドは、その話題についていくために、空いた時間のほとんどを書斎に用意されたさまざまな政治書を読むことに費やしている。シェイドが政に興味を持つことを、ジハードは否とは言うまい。
だが、千切れかけた留め具を外す指は、内心の緊張を表して震えていた。
明言されたわけではなかったが、状況から考えてシェイドは外の人間と交流を持つことを禁じられている。ジハードとサラトリア以外の宮廷人が、今までここに足を踏み入れたこともない。アリアの来訪はジハードの意向に反するものだっただろう。ジハードはシェイドが余人に会うことを望んでいない。
シェイドも、フラウがアリアを止められるようならば、自分が出て行くつもりはなかった。だがアリアの態度は思った以上に強硬で、一介の侍従長に過ぎないフラウではこれ以上の足止めはできまいと思われた。
このまま同じように足止めしようとすればアリアから責められ続け、押し切られて通してしまえばジハードから罰を受ける。それならば、叱責は自分が受ければよいと思ったのだ。侍従たちにはこの先もまだ務めがあるが、自分はもうすぐ役目から放たれる身だ。
それにシェイドがアリアと話をしようと思った理由は、なにも侍従達のためばかりではなかった。
「アリア様は次期王妃とも謳われた姫君ですから、是非ともお会いしてみたかったのです」
意図的に話を核心へと繋げる。声が震えないようにするのが精いっぱいだった。
「ほぅ……」
案の定、ジハードが訝し気な声を上げた。シェイドの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。
シェイドは意を決して最後の一枚を床の上に落とすと、隠すもののない裸体を曝け出した。
アリアと会って話をしたかったのは本当だ。本来ならばこの宮の主はアリアであるはずだったからだ。
アリアはいかにもウェルディスの直系らしい人物だった。
姿形は勿論のこと、あの気性の激しさや荒々しさもジハードとよく似ている。彼女が王妃の座についていれば、強気な交渉で外交に長けた王妃として名を残しただろう。そして、それは今からでも現実の話となりえる。
タチアナが病弱で、世継ぎの王子を望むべくもないのは宮廷での共通認識だ。勿論ジハードもいずれは必ず妾妃なり新たな王妃なりを迎えねばならない。となれば、そのもっとも有力な候補として上がってくるのがアリアだった。
アリアはジハードより一つ年上の二六歳だ。世継ぎを産み育てるということを念頭に置くならば、妃に迎えるにはすでに遅いくらいだった。
シェイドがこの白桂宮に来てからすでに一ヶ月ほどが過ぎた。
そろそろ関心が薄れるはずの時期でもあり、他に目を向けて貰うのにちょうど良い時期でもある。シェイドはアリアと面談することで、ジハードに世継ぎの問題を意識させようと考えたのだ。
会話がもう少し穏当に進むようなら、あの場にジハードが同席してもよかった。男と女が二人並んで座っていれば、ジハードの視線は自然と女性の持つ美しさに惹かれていたはずだ。
しかし残念ながらそうはならず、シェイドは好戦的なアリアに対して『欲しいものは力で奪い取れ』と示唆する結果になってしまった。
「……それで、会ってみてどうだった。あの女は王妃に相応しい器だったか」
興味深げな表情で、ジハードは両手を伸ばして裸のシェイドを腕の中に引き寄せた。結い上げた髪を解き、絹糸よりも艶やかな光の束を指で梳く。
「……堂々とした美しい女性でいらっしゃいました」
アリアの持つ見事な漆黒の巻き毛と黒い瞳を思い出して、シェイドは言葉を紡いだ。
王妃に相応しい器かどうかは、シェイドには判別できない。だが、どんな貴族の令嬢でも、自分ほど不釣り合いなものは居るまい。
髪を梳くジハードの指が首筋や背を掠めるのに戦きながら、シェイドはアリアを讃えるための言葉を探した。
先のホールでは、シェイドに向かって茶器を投げつけ刃物を手にしたアリアの短慮に、ジハードは激高し、彼女が倒れ伏すほど打ち据えた。アリアの心証は悪くなってしまっただろう。
いったいどう語れば彼女の名誉を回復し、好ましいと思ってもらえるだろうか。
「……アリア様は豊かな外交経験と教養をお持ちです。行動力や決断力もおありで、責任ある地位に相応しいお方だとお見受け致しました」
シェイド自身もアリアの事をさほど知っているわけではない。口にすることができる言葉はそう多くなかった。
柔らかい髪を梳きながら、白い肌の上の自身が残した吸い跡を辿っていたジハードは、シェイドの言葉を聞いて失笑した。
「自国の王妃に食器を投げつける不作法者だぞ」
「それは……余程お気に障ったからでしょう。あの方は、陛下をお慕い申し上げているご様子でしたから、私のようなものがここにいることで御気分を損なわれるのは当然のことです」
慕う相手が離れている間に妃を迎え、しかもそれが北方人そのものの醜い姿をしていたとしたら、アリアのような誇り高いウェルディリアの貴族が怒るのは無理もないことだ。
シェイドはそう伝えてアリアの行動を正当化したつもりだったが、ジハードの答えは辛辣だった。
「あの女は俺にではなく、王妃の座に恋着しているだけだ」
その口振りからは、ジハードがアリアに良い感情を持っていないことは明白だ。だが、シェイドは諦めなかった。
今の宮廷において、アリアほど血筋正しく王妃に相応しい令嬢は他にいない。今は妾妃としてしか迎えることができないが、いずれ然るべき時が来れば王妃の座が回ってくる。そうなればいまだ反発の強い旧国王派の貴族たちもジハードの前に膝を折る以外になくなる。国の将来を考えればそれが最良の手のはずだ。
「王妃の座に恋着なさっておられるなら、なおさら相応しいではありませんか。あの方を王妃にお迎えすれば、きっと……」
「もう言うな! あの女は二度と王宮に足を踏み入れさせん。領地にて死ぬまで蟄居を命じてやる!」
シェイドの言葉を遮ったジハードの声が、不意に激しく厳しいものになった。
逆鱗に触れてしまった気配に息を飲んだシェイドの体が、有無を言わせぬ力で壁に押しつけられた。覗き込んでくるジハードの視線がいつになく険しい。喉が干上がりそうになりながらも、シェイドは意を決して言葉を続けた。
「お世継ぎのことをお考え下さい。避けては通れぬ問題にございます」
国王の不興を買ったとしても、シェイドには失う物がない。誰も口に出せない苦言を呈することができるのは、今はシェイドだけだった。
「まだ早い」
苦々しくジハードは言ったが、少しも早くなどない。むしろ遅すぎるくらいだ。
先王のベレスは実子に恵まれぬ王だった。王太子になる以前より幾人もの妾妃を抱えたが、どの妃との間にも子を為すことがなかった。ベレスが実子を得たのは、壮年を遙かに過ぎてからだ。
北方人の妾妃であるエレーナが産んだシェイドと、三人目の正妃から生まれたジハードの、たった二人の男子だけ。
そのため、世継ぎにはベレスの同腹弟であるカストロが王太弟として長くその地位に据えられた。アリアの王妃の座への執着も、そのあたりの事情が影響しているに違いない。
同じ事がジハードにも起こらないと何故言えるだろう。
ジハードとは同い年であるサラトリアも妻帯はしていないが、こちらはすでに一族の中から養子を取り、次期当主としての養育を始めている。
ヴァルダン家ならばそれも一つの在り方としていいだろう。だが一国の世継ぎともなればそうもいくまい。国の将来を考えれば、血統や財力に優れ、宮廷でのしっかりした後ろ盾を持つ貴族の令嬢を世継ぎの母に迎える必要があった。容姿や性格は本来二の次だ。ジハードがアリアを好ましく思わずとも、王族の婚姻に際してそれは大きな問題ではない。
たとえ不興を買ってでも、今のこの機にジハードには真剣に先のことを考えてもらう必要がある。
だが、口を開きかけたシェイドは、ジハードの黒い瞳に宿る昏い焔に気付いて言葉を飲み込んだ。
「世継ぎが必要なら、王妃のお前が孕めばいい」
そんなことが出来得るはずもない、そう言おうとするシェイドの口を、ジハードは長身を屈めて唇で塞いだ。
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