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記憶の片隅(橙堂 side)
真夏の午後9時。車を走らせ、人気のない海辺で止めた。窓を開け、煙草にライターで火をつけた。そっと口にくわえる。煙が窓から外に流れていくが、車内にも匂いが残る。芳香剤の匂いもかき消すほどに。
「余裕なんか、ないよ……」
ため息と共に煙を吐き出す。虚しく空の彼方に消えていく。あの子を見ていると、あいつを思い出す。もう離れて何年も経つのに。寂しさなんてとっくの昔に忘れたはずなのに。
美術部の女の子達がよく俺に「魔法使いですか?」と聞いてくる。いい歳して独身だから色々と気になるのだろう。
「正解は『女に対しては童貞じゃないけど、男に対しては童貞非処女』でした」
そんなこと絶対言わないけどな。俺はこの先、結婚する気なんてない。こうやってのんびりと絵を描いて生徒と話せるのなら、それでいい。でも……
「赤坂くん……」
彼の名前を呟き、夏の夜空を見上げた。雲ひとつない星が広がっていた。
俺が生まれて間もなく、お袋が病気で亡くなった。だから俺は母親との記憶がない。兄弟もおらず、親父が男手ひとつで俺を育ててくれた。
俺も親父も物静かな性格で、会話もあまりない。仲が悪い訳ではなく、そういう性格だった。友人もあまり多くない俺は、絵を描くのが大好きだった。誰かと盛り上がるより、1人黙々と描く方が楽しかった。自分の思いを自由に描けるその時間が、俺の幸せだった。
高校生になり、俺はアルバイトを始めた。親父は1人で夜遅くまで働いていた。美術部に入ると部費がかなりかかるため、せめてその費用くらいは自分で稼ぎたかったんだ。勉強は全然してなかったから成績は良くなかったけど、大好きな絵を描くためならアルバイトなど苦じゃなかった。
それから、俺は何とか美大に合格した。実家から遠くなり一人暮らしをすることになった。不安も多少はあったけど、お袋がいない分それなりに家事はやっていたし、何より絵の勉強ができる。だから、そこそこ充実した毎日が送れるだろうと思っていた。
しかし、大学に入学して数ヶ月後、親父が亡くなった。仕事を頑張りすぎて、病気がかなり進行していたという。気づいた時にはもう手遅れだった。
「お前の人生だ。好きにしろ」
俺が美大に行きたいと言った時の親父の言葉。基本的に俺の進路は自由にさせてくれていた。そんな俺のために身を削って学費や生活費を稼ぎ、死んでいった。高校時代の俺より絵の上手い友達も、「お前が羨ましいな。俺は家族に反対されて美大には行けないよ」と言っていた。両親を亡くし、俺は改めて自分が恵まれていたことに気づいたんだ。
「可哀想にねぇ、まだ学生なのにお父さんもお母さんもいなくて……」
「輝ちゃん、困ったことがあったらいつでも言ってね?」
親戚達は孤独な俺を励ましてくれた。その言葉は嬉しかったが、俺はその人達をあまり頼ることはなかった。確かにひとりぼっちになった虚しさや悲しさはあるけど、俺は幼い頃から孤独な日々に慣れていた。感情ってやつが欠落してたんだと思う。
周りには絵の才能に恵まれたやつが多くて苦戦することもあったけど、俺は落第などせず大学を卒業し、高校の美術の教師をすることになった。特に夢や希望はなく、ただ絵が描けたらいいなという曖昧な気持ちしかなかった。
そんなある日のこと。俺がとある美術館で個展を開いていた時。特別絵が上手い訳でもない俺の前に、あいつはやって来た。
「これ、全部橙堂先生が描かれたんですか?」
輝くような笑顔でそう言った男。その無邪気な笑顔は嘘偽りないものだと感じた。
「はい、そうです」
「うわぁ、すごいですね。どれも繊細でありながら、どこか我々に語りかけるものがある」
「あはは、ありがとうございます。あまり特徴のない画風なので、なかなか芽が生えないんですけれどね」
そう自嘲すると、彼は静かに首を横に振った。
「違いますよ。むしろこの画風があなたの才能ですよ。特徴がないということは、自分の主張を相手に押し付けないってことじゃないですか。それでもって、自分の世界を見せられる。素晴らしいことですよ」
彼の吸い込まれそうな瞳と優しい言葉に、俺は目を奪われた。いや、心さえも奪われてしまった。そんなことを言われたのは初めてだった。
「と、上から目線で言ったけど、俺は絵なんて描いたこともないド素人なんですよね。でも、橙堂先生の絵はホントに好きですよ」
照れ笑いをしながら、男は俺に呟いた。それから、彼は俺の絵を買ってくれた。大して上手くないと思っていた絵を、彼はお金を払って大切に持って帰ったんだ。
そこから彼との交流が始まった。彼は和臣《かずおみ》という名前だ。自営業を営んでおり、俺の2つ上だった。最初は会って絵の話をするだけだったが、次第にお互いの仕事や学生時代の話になり、俺はどんどん心惹かれていった。
思い切って告白すると、和臣も俺を好いてくれていたようで、交際がスタートした。俺が28歳、和臣が30歳の時だ。
今までも大学時代や社会人になってから、女性に告白されて付き合ったことが何度かある。しかし、孤独に慣れていた俺はどうしても深い仲になれず、相手を不安にさせてしまい結局上手くいかなかった。こんな俺は誰かと結婚したり付き合うのは向いていない、相手を傷つけるだけだ。1人で生きていく方がいいんだろうと思っていた。
でも、和臣にはなぜか素直になれた。初めて人を好きになれた。
「俺は口下手で絵と同様何の特徴もないやつなのに、よく付き合ってくれたよな」
「何言ってんだよ。お前が大人しい性格なのは、ひとつの特徴じゃないか。自己主張が激しくなくて協調性がある。そんなところに俺は惚れたんだよ」
和臣は照れくさいことを堂々と言ってくれる。俺のことをたくさん褒めてくれる。本当に心から信頼していて、大好きだった。
そんな幸せな日々は、終わりを告げられた。和臣の父親が病に倒れ、父親に代わって彼が社長を継がなければならなくなった。それと同時に親戚から「いい加減結婚して子供を作り、跡継ぎを用意しろ」と言われたという。
彼は正直に「付き合っている男性がいるから、結婚はしないし子供も作らない」と言ったが、やはり猛反対されたという。自分が社長にならなければ、会社も倒産してしまう。家族を養わなければならない。悩んだ結果、和臣は俺との別れを選んだ。
「俺は今でも、輝を愛している。本当はこんな選択をしたくなかった……」
「わかってるよ。でも和臣が選んだ道を、俺は引き止めない」
こうして俺達は別れた。和臣には未来がある。本当は寂しいけど、不思議と涙は出なかった。また元通り、俺はひとりぼっちになったんだ、と。5年間の交際は短くも、俺にとってかけがえのないものだった。
数年後の春。とある田舎の高校で勤務をしていた時に、あの子と出会った。赤坂弓弦くん。彼が美術部の体験入部に来ていた。来てくれるのは女の子が多い中、彼は男子1人でそこにいた。
「うちの美術部は自由をモットーにしてるから、ほぼ帰宅部みたいなものなんだけどね。少しでも絵に興味があったらぜひ」
俺は赤坂くんにそう声をかけた。すると、彼は小さく笑った。
「俺、絵を描くのは実は苦手なんですけど、先生の絵を見て『俺もこんな風に描けたらいいな』って思いました」
眼鏡の奥で光る瞳。どこか懐かしい気持ちになった。
「ありがとう。あんまり特徴のない地味な絵なんだけどね」
「そんなことないです。この自己主張の強くないタッチがいいんですよ。俺もそういうタイプなんですけど、先生みたいに自分の世界観を表現できたらいいのになぁ」
そう言って赤坂くんははにかんだ。無邪気な笑顔と温かい言葉が、和臣と重なった。あいつもいつか、そんなことを言ってくれたな。遠い思い出が蘇ってきた。
赤坂くんはそれから美術部に正式に入部してくれた。男子は3年生の子と彼だけ。別の意味で紅一点。ほぼハーレム状態のこの部活に彼は仲間入りした。
自由な部活だからあまり活動はないし、たまに女子達がやって来てイラストを描いたりガールズトークという名のBLトークをしたり、俺にちょっかいをかけてきたり。そんな感じだったから、赤坂くんはもしかしたら居心地が悪いんじゃないかなと心配してたけど、彼は器用な性格で彼女達とも分け隔てなく話していた。
赤坂くんは最初の頃はよく部活に来てたけど、途中から授業が忙しいみたいで来る頻度が減った。それは仕方のないことだ。
彼が部活に来たある日、俺は問いかけてみた。
「勉強とか大変?」
「そうですね。思ったより宿題とかテストが多くて……」
「そっか。進学校でもないのに詰め込みすぎだよね、この学校」
「そうなんですよ、もっと楽にして欲しいです」
やはり学業が多忙なようだ。運動部の子達も毎日大変だろうな。
「でも、赤坂くん成績いいって担任の先生が言ってたよ?」
「ま、マジですか?言うほどですけどねぇ」
赤坂くんは照れくさそうに目を細めた。少し大人びた雰囲気があるけど、こういう面を見ると年相応の可愛らしさがあると感じる。
「いやいや、ちゃんと勉強してて偉いよ」
「うーん、大してやってはないんですよ。ただあんまり友達とかいないし、ゲームくらいしか趣味がないから、空いた時間に勉強するくらいで……」
「そうなの?赤坂くん、友達多そうなイメージがある」
「全然ですよ。俺かなりの陰キャなので。積極的に話しかけるなんて無理ですよ」
少し意外だった。俺から見た彼は、人見知りには思えなかったから。自分から話すタイプではなくとも、それなりに色んな人と話せる様子に思えた。
「それは俺も同じ。でも赤坂くんと違って、俺は口下手だし愛想もよくないんだよね」
そう笑うと、赤坂くんの表情が少し曇った。
「そんなんじゃないですよ。大人しいのは先生の個性じゃないですか。絵と同じですよ。その方が俺としても話しやすいですし。それに、先生はいつも優しくて愛想いいですよ!」
その言葉が胸に余韻を残した。どうして彼は、和臣と似たことを言うのだろう。和臣は社交的な性格で赤坂くんとは違うタイプなのに。部分部分で2人が重なっていく。
無意識のうちの優しさ。彼のそれが和臣との思い出を呼び起こす。過ぎ去った想いが俺の脳内に集まり、赤坂くんのことが頭から離れなくなっていった。
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