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第12話
大学ノートを見ながら、佑はシャープペンの後ろをノートの紙面にずっとたたき続けていた。
その音は同じ部屋で執筆作業をしている勇也にも当然聞こえている。
「佑くん…」
勇也が控え目な音量で呼び掛ける。
それでも佑のシャープペンの後ろの音はやまない。
「たっくん!」
いつにない勇也の強い声に、佑が顔を上げる。
「……あ、はい?」
佑が全く無自覚なのを認識して、
「コーヒーでも淹れようか」
勇也は苦笑しながらそう声を掛けた。
勇也の書斎からダイニングに場所を移して、勇也はコーヒーを淹れた。
真澄と力也はまだバイトで、龍司は買い物があるということで、佑はレッスンのあと先に一人で帰宅し、シャワーを浴びてから、勇也を起こして仕事のアシスタントについていた。
昨日から佑が何かを考え込んでいることに、勇也は気づいていた。
クーラーの効いたダイニングで、勇也は敢えてホットコーヒーを淹れた。佑用の淡いラベンダー色のグラデーションがかかったマグカップは、佑が田上家を最初に訪れた時に他の三人と色違いの物を、すでに用意していたものだ。そのカップを手に、佑は黙ったままだった。
斜向かいにすわった勇也もあえて口を開かない。
「勇さん…」
しばらくして、佑が口を開いた。
「自分の、人生……というか、進む道みたいのを考えたことって、ありますか?」
勇也がなんとなく予測していた通りの言葉に安堵しながらも、真摯に向き合うべきだという思いに勇也は佑を真っ直ぐに見つめた。
「僕は、無いかなぁ」
佑のあっけに取られた表情を見ながら、勇也は続けた。
「昔から物語を書くことをしてて、投稿サイトとか出来始めて投稿するようになって、出版社から連絡もらって、それで本出した。それだけなんだよね」
嘘ではなかった。小説を書くことは勇也にとって当たり前のことで、出版社から連絡が来た時も特に気負うこともなく受けた。勇也にとっては本当にそれだけだった。
佑は数回瞬きを繰り返し、視線を落として言葉を探しているようだった。そんな佑に、勇也はたずねた。
「佑くんは、どうしたい?」
勇也の問いに佑は視線を彷徨わせていた。
佑のその様子も予測出来ていた勇也は、さらに水を向ける。
「世間の常識とか、一般論とか考えないで、ただ佑くんの中で感じることだけでいい」
勇也はそう前置きして、顔を上げた佑の瞳を見つめた。
「佑くんは、どうしたい?」
佑の視線が泳ぐ。
「………………」
勇也には佑の迷いがよくわかった。
世間の常識、親や家族の期待、周りとの比較、自分の立ち位置、したくはなくともあらゆる損得勘定もよぎるだろう。それは物心つく前から長年培われてきたものだ。それはきっと多かれ少なかれ誰にでもある。
でも、佑には、佑だけではなく、力也にも真澄にも龍司にも、そんなものに振り回されず自分に正直に生きてほしかった。それが勇也の勝手な願いであったとしても…。
「龍司が……、なんだかずっと先まで考えてるようなんだ」
「うん…」
「でも、自分には実感が無いって言うか…。中学の頃から、色々あって、その場その場のことでいっぱいいっぱいで……」
佑はマグカップを両手で握りしめるように包んでいた。その手が震えているのを、勇也は見て取った。
「あそこに転校して、やっと、自分の居場所を見つけられたような気がして…。なんか……」
佑は片手を額に当てた。
「やっと落ち着いたような気がして安心してたら、もう、すぐに次のこと考えなくちゃいけないのかな…って…」
佑が大きく息をつくのを、勇也は黙って聞いていた。
「龍司はもう先のことを考えてて、自分は何してるんだろう、って…。龍司が考えてるようなこと、自分に出来るのかっていう……」
俯いて言葉を押し出す佑の声は震えていた。
「へ…、変な話、やっと学生生活って言うか、青春って言うか、そんなのを意識し始めたばっかりなのに、もう次のことを考えなきゃならない状況が、なんか……」
「たっくん」
勇也は思いを込めて、佑を呼んだ。
佑がその声につられたように顔を上げた。
「たっくんは、そのままでいい」
勇也の言葉に佑はただ、勇也の顔を見つめてくる。
「先のことなんて考えなくていい。今、たっくんが好きなことをしてていいよ」
「……で…も」
勇也はゆっくりと首を振った。
「考えないで」
「………………」
「臭いセリフかもしれないけど、今を感じて」
勇也の言葉に、佑は数瞬固まり、次に目を瞬かせた。
「え…っと…」
戸惑う様子の佑に、勇也は笑みを浮かべ、
「たっくんなら、この感覚、すぐにわかると思うんだよなぁ」
と佑の目を探るように見つめた。佑はただ真っ直ぐに勇也の目を見つめてくる。その目にはこの先の道のヒントでもいいから欲しい、そんなひたむきさが感じられた。
「人と比べなくていい。焦らなくていいよ。自分への信頼って、一朝一夕には出来ないかもしれない」
勇也は願いをこめて言葉をついだ。
「それでも、自分を諦めないで」
勇也と目を合わせた佑の目から、ボロボロと雫が落ちた。慌てて顔を伏せた佑の口から、
「勇さん、クサ過ぎ」
と鼻が詰まったような声での突っ込みがあった。
勇也は笑みを浮かべながら言った。
「たっくん、人ってね、いくつになっても悩んだり迷ったりするものなんだ」
自分の手で横なぐりに涙をぬぐった佑の顔が上がる。
「僕も十代の頃は、大人になればなんでも冷静に受け止めることが出来て、的確な判断がくだせるんだと思ってた」
佑のまだ潤んでいる目が、勇也に真っ直ぐに向けられている。
「でもねぇ、そんな日は、一生来ない……かもしれない」
勇也の言葉に、佑の目は再び何度か瞬いた。勇也は苦笑して視線を落とす。
「大人になるとね、それまでの経験値とか世間一般の常識とか、それまでの教育で刷り込まれた倫理観、道徳観、宗教観、そういうものを総動員して、その時起こっていることを判断、処理しようとしてしまうんだ」
勇也は佑の目を確認しながら言った。
「自分の感情を置き去りにしてね」
「……自分の感情?」
「そう」
勇也は佑のつぶやきに頷いた。
「大人になると、感情的になることは大人気ない、と言われる。でも僕は、感情ってとても大事な人生の指針だと思ってる」
「………………」
佑は食い入るように勇也を見つめている。
「自分が何が好きで何が嫌いなのか。何に喜びを感じ、何を疎うのか。何を幸せと感じるのか───。それは、七十億の人間がいれば七十億通りあっていいんだ」
勇也はテーブルの上に置かれた佑の手を握った。
「たっくん、絶対に、自分の感情を殺さないで」
勇也は佑の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「たっくんはダンスが好き?」
「…はい」
「踊ってて楽しい?」
「はい…。あ、でも…、楽しい時もあるけど、無心になれる時も気持ち良くなれる時もあったり、自分が思ってる通りに出来ないとメッチャ悔しかったり…。ゴチャゴチャ…か…な」
佑は自分が感じてることをどう表現したらいいのか迷うように、わずかに目をふせた。
「うん、いいよ。それでいい。やっぱりたっくんは、そのままでいい」
勇也はもう片方の手を伸ばし、佑の頭をそっと撫でた。
「真澄のことは、好き?」
勇也の静かな問いに、佑がピクッと肩を揺らしながら目を上げ、ついで顔を紅潮させた。
その時、ダイニングのドアが開いた。
「あっ」
ドアの所に立つ真澄の姿を見た勇也は声を上げた。勇也の片手は佑の手を握り、もう片方の手は頭を撫で、そうされている佑の顔は紅潮している。
コンマ五秒でこの状況を危険と判断した勇也は、すぐに佑から手を離し、両手を自分の顔の横に持っていく。
「勇さん」
地を這うような低い声で真澄に名を呼ばれる。
「お帰り」
勇也は引きつった笑みを浮かべながら声を掛けた。
「あれ、どしたん?」
真澄の後ろから力也がひょこっと顔を出す。
「いや〜、なんでもない。僕、ちょっとトイレ」
勇也は真澄と視線を合わせないようにしながら立ち上がる。合わせなくても視線が痛いのに、合わせてしまったら射殺されるかもしれない。
ちらりと佑を見ると、勇也と真澄の表情を見てキョトンとした顔をしている。
その顔に勇也は、真澄の苦労が推測出来て少しだけ気の毒に感じてしまった。
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