3 / 6

第3話

 目を覚ますと、僕の顔に寄り添うように、巨大な白い犬がいた。犬種は知らないが、これが隆史さんの愛犬だと知っている。賢は僕が目を開けると、僕の頬を静かに舐めた。 「あ……」  体が気怠く重い。声が少し掠れていた。僕は手を伸ばして、そばに置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。それから上半身を起こし、喉を癒してから、賢を撫でた。長い毛並みで柔らかい。  隆史さんの姿はない。  その後、使用人が訪れ、隆史さんは帰宅したと教えてくれた。賢は置いていくそうだった。『また来る』という書置きを、僕は使用人から受け取った。賢を置いていった以上、本当に来るのだろうと思う。そう思って気づくと僕は喜んでいた。それからすぐに苦しくなって、俯いた。これではやはり、兄の死を喜んでいるみたいではないか。そもそも隆史さんは茨木の事が好きであり、僕を抱いたのは儀式に過ぎないというのに。  しかし僕は、隆史さんの温度が忘れられなくなった。  それ以後、週に一度は、隆史さんが顔を出すようになった。その度に、僕の体は快楽の熱で熔かされる。蕩ける体で、僕はいつも泣きながら喘ぐ。快楽にどんどん思考が蝕まれ、譫言のように隆史さんの名前を呼ぶようになるまで、そう時間はかからなかった。それでも『好き』だとか『愛している』とだけは、告げなかった。自分に許したのは、隆史さんの名前を呼ぶ事だけだ。隆史さんが僕に愛の言葉を囁く事もない。それでも、それで良かった。僕はいつも隆史さんを待ちながら、片想いの胸の痛みに耐えているが、抱いてもらえるだけで満足だった。たとえそれが、儀式でも。  この日も僕は、隆史さんの事を想いながら、布に刺繍をしていた。  これは、陰陽道の作法の一つなのだという。華頂家の人間が縫った桜の模様入りの布には、特別な力が宿るそうで、婚姻後、戸籍的には蘆屋の人間となる僕ではあるが、華頂の当主も兼ねる事になるので、今は刺繍は僕の仕事だ。なお家督は叔父が継ぐと決まったそうだ。将来的には、僕の従弟が華頂家の当主になるそうだが、まだ三歳なので、暫くは僕が刺繍の担当だ。 「痛っ」  考え事をしていたため、僕は指先に針を刺してしまった。  そして――目を見開いた。僕の指から零れ落ちた赤いもの、それは最初血に見えた。布が汚れてしまうから、やり直しだと僕は当初思ったが、その赤いものは、布に触れると床に落下した。布を汚す事は無かったし、血にしては巨大だった。床には、赤い花びらが落ちている。それは桜の花びらによく似ていたが、色は真っ赤だ。 「これは……」  いつか、僕は目にした事がある。急に車が突っ込んできて、なんとか回避したものの兄が転倒した時、その膝から、同色の花びらが溢れた光景を。僕は蒼褪めた。背筋が瞬時に冷たくなった。冷水を浴びせられた心地で、僕は畳の上に落ちている赤い花びらを見る。  ――花現病の亜種。  すぐに僕は、それを悟った。何度か瞬きをして夢ではないかと考えようとしたが、確かに花びらが落ちている。その時、扉の外から声がかかった。 『蘆屋様がお見えです』 「今日はお帰り願ってくれ。体調が優れない」  僕は流れるように嘘をつき、花びらを手に取り、ごみ箱に捨てた。  実は、ある取り決めがなされていたからだ。  ――万が一、二人目の華頂の人間も、花現病に罹患したら、即刻この縁談は破談とする。結婚後であれば、離婚とする。蘆屋家は、二度と華頂家に関与しない。  これを僕は何度も聞かされていたし、隆史さんも当然知っている。  だが僕は、家のためというよりも、自分のために、利己的な理由で、発病を隠蔽する事に決めた。隆史さんと別れたくない。隆史さんがいくら兄を好きだとしても、僕はもう、隆史さん無しでは生きてはいけない。僕は、隆史さんを愛しているのだから。  再会して以後、体を重ねる度に、僕は隆史さんの事を、改めて好きになっていく。  優しいところ、明るい眼差し、体温、全てが好きだ。  隆史さんがいない人生など、もう僕には考えられない。たとえそれが、隆史さんの本意ではなく、隆史さんを縛り付けるだけの結果であるとしても、僕は隆史さんのそばにいたい。両腕で自分の体を、僕は抱きしめた。 「怪我さえしなければ、露見しない」  一人呟く。それ以外で露見するとすれば、それこそ重篤化して、死に至る場合のみだ。死ぬのであれば、それは隆史さんとの永遠の別離であるから、構わないだろう。なにせ、一般的な医療では治癒しない、医師に見せても解決しない奇病の、それも亜種だ。そして、僕自身が医師なのだ。自分の治療は、自分で出来る。だから、他の医師に診せる必要だってない。僕は自分に、そう言い訳した。

ともだちにシェアしよう!