何故なのか、僕はこの日から咳き込むようになった。 　感覚からして、胃を患ったのだと思う。吐血こそしないが、恐らく僕は、相当ストレスを感じているし、それが胃痛の原因であり、胃酸を時々吐きそうになるようだった。また、他にも悪い事がある。縫物をしていて針を刺すと、溢れてくる花びらの量が、目に見えて増えだしたのだ。布は汚れないが、僕の膝の上にも畳の上にも、今もパラパラと真っ赤な花びらが落ちていく。既に落ちているものも、絨毯のように散らばっている。 　ごみ箱に捨てられる量ではなくなってしまい、僕は定期的に窓から外に投げ捨てるようになった。舞い落ちる赤い花びらに、既に使用人達は気が付いているが、僕は緘口令を敷いている。家のためとした。華頂家のために、結婚関係が砕けてはならないのだと言い聞かせると、使用人達は皆が頷いた。そして同意し、僕の隠蔽に付き合ってくれた。 　隆史さんが日記を持って訪れたのは、半月後の事だった。 　僕達は応接室で、テーブルを挟んで向き合った。洋室で、僕は一人掛けのソファに座り、片手で日記を受け取った。 『絢瀬先生が好き』 『絢瀬先生が忘れられない』 『どうして死んでしまったの、絢瀬先生』 『会いたい、絢瀬先生に会いたい』 『絢瀬先生だけを愛してる』 　そこには、確かに兄の懐かしい筆跡で、そう綴られていた。僕は目を疑った後、脱力して椅子に背を預けた。これは、安堵からだった。僕は自分が兄を裏切っていないと、この時知って、安堵したのである。少しだけ気が楽になった。 「分かったか？　茨木は、絢瀬先生が好きだったんだ。ずっと、な」 「……隆史さんには、大変申し訳ない事を……兄が、失礼いたしました」 　僕は必死にそう言葉をひねり出した。 「いいや、いいんだ。俺も同意の上であったし、俺にも好きな相手がいるからな」 　そしてそれを耳にした瞬間、僕の胸が激しく痛んだ。それが心の痛みなのか、胃の痛みなのか、僕には判断が難しかった。ただジクジクとみぞおち付近が痛む。 「……そのお相手とは、上手くいっているんですか？」 「いいや。お世辞にも良好な関係とは言えないな。心配だから、常に式神をそばにつけているが、常日頃俺はその相手の事ばかり考えているというのに、相手は俺を見ていないらしい」 　僕の胸がさらに疼いた。僕の周囲には式神なんていない。勿論いたとしても見えないが、そんな話は聞いた事がない。屋敷の使用人達も皆、陰陽道に携わっているから、式神がいたら、僕に存在を伝えないはずもないのだが、少なくともそんな事は一度も無かった。 「……そう、ですか……」 　しかし僕は、やはり喜んだ。今度は、生者が相手だ。そして僕は、公的に配偶者だ。もしかしたら、僕はいつか、その人よりも好きになってもらえるかもしれない。今は違っても。そうは思うのに、片想いが苦しい。僕は思わず泣きそうになったので、ギュッと目を閉じた。僕はそのまま、震える手を、紅茶の浸るカップへと伸ばした。 　――それが、悪かった。 　目を閉じていた僕は、うっかりカップを取り落とした。割れた音に慌てて目を開け、咄嗟に手を伸ばす。そして……――。 「っ」 　思わず痛みに息を詰めた。割れた陶器の破片が、僕の人差し指の先を深く切った。ボタボタと、赤が零れ落ちていく。勿論、血ではない。巨大な赤い花びらが、無数に僕の指先から溢れて落ちていく。 「な」 　隆史さんが目を見開いた。我に返って、僕は顔をあげる。そして硬直した。 　取り決めを思い出す。 「水城、その花は……」 「……これが、お帰り頂いていた理由です。取り決め通り、離婚します。どうぞ届をお持ち下さい」 　僕は絶望的な気分で花びらを見た。しかし、これで良かったのかもしれない。隆史さんには好きな相手がいるのだから。そうだ、きっとそうなんだ。僕が縛り付けていいはずがない。これは、|罰《ばつ》だ。自分勝手だった僕には、|罰《ばち》が当たったのだろう。 「離婚なんかしない！」 　声を上げた隆史さんが立ち上がり、僕まで足早に歩み寄ってきた。そしていまだに花びらが零れ落ちていく僕の右手を持ち上げた。 「俺は水城が好きなんだ。ずっと好きだったんだ。漸く手に入れたんだ。思いが叶ったんだ。水城が俺を好きでないとしても、絶対に離婚なんかしない。絶対に手放さない。俺の元から去るなんて許さない。水城は誰にも渡さない。俺は、君の事しか、愛せない」 　その言葉に僕は目を見開いた。思わず僕は立ち上がる。 　すると僕の右手を、両手で強く隆史さんが握りしめた。 「愛してるんだ、誰よりも。俺は、水城を愛してる」 　唖然とした僕は瞠目し、隆史さんを見上げる。何か言おうと思うのだが、震えるだけの唇は、何も言葉を紡いではくれない。 「中学生の頃を覚えているか？　茨木の見舞いをまだお前が許されていた頃だ。茨木とお前が――二人そろって車に轢かれそうになった時の事を」 「……茨木が膝に怪我をして、花びらが……」 　初めて僕が発病した日にも、僕はあの時見た花びらの色を思い出した。 　確かにあの時、一緒に隆史さんもそこにいた。賢もいた。 「ああ。茨木は擦り傷で済んだが、水城は足の骨を折ったな」 「……」 「だというのにお前は、茨木の心配ばかりしていたな。その姿を見てから、俺はずっと、水城の事は俺が守りたいと思っていた」 「っ」 「あれ以来、気づくと俺は、水城の事しか考えられなくなったんだよ。お前が好きだとはっきりと気が付いた瞬間だった」 　僕はこれが現実だとは思えず、何度か瞬きをした。すると、正面から抱きすくめられた。力強い左腕が僕の背中に回っている。そして、僕の後頭部を、隆史さんが右手で、胸板へと押し付けた。 「その前から長い間、俺は水城が気になっていた。だからあの時だって、茨木ではなくお前を助けようとした。でも、お前は骨折した。俺はお前を守れなかった。ずっと後悔していたよ。でも、今度こそ、これからは、俺はお前を守れると、そう思っている。必ず守り抜く。俺は水城が好きだ。たとえ水城が、俺を好きでなくとも」 　その言葉を聞いた瞬間、僕の涙腺が倒壊した。 「待って下さい」 「待てない。俺はもう、水城を離さない」 「そうじゃなくて……僕だって、隆史さんが好きで……ずっと好きで……好きじゃないわけがない。僕の方こそ愛してるんだ」 　僕は思わず気持ちを口にした。初めて、僕は自分に課していた規則を破った。 「好き、好きです。隆史さんが好きだ」 「水城……本当か？」 「ああ。大好きで……隆史さんこそ、本当に……？」 「本当だ。嘘なんかつかない」 　隆史さんの腕に、より力がこもった。僕は額を彼の胸板に押し付け、暫くの間泣いていた。すると僕の呼吸が落ちついてから、隆史さんが僕の頬に触れた。もう一方の手では、僕の顎を持ち上げる。 「んン」 　そして僕の唇を奪った。次第にキスが深くなる。 　僕達は応接間で、長い間口づけをしていた。目を閉じた僕は、幸せに浸りながら、これが夢でも構わないと感じていた。幸せで、胸が満ちている。 「あ」 　その時、隆史さんが声を出した。僕は目を開け、涙が滲む瞳を向ける。 「水城、見ろ！」 「っ」 　隆史さんが僕の右手を再び持ち上げた。それを見て、僕はすっかり忘れていた痛みを思い出した。だが、絶句して、再び痛みについては頭から消えた。先程まで花びらが零れ落ちていた指先の傷口……今、そこから溢れ出ているのは、紛れもなく赤い液体だ。血液だ。 「こ、これは……」 　自然治癒する事は滅多にないという記録がある。だが、治癒した例が無いわけではない。治癒すると、元の通りに花びらでなく、負傷箇所からは、血液が出るようになると、過去から連なる文献にもあった。 「治った……？」 「そうらしい。これで、離婚の必要性なんて消えたな。何より――俺達は両想いなんだ。相思相愛なんだから、別れる必要なんてない」 　僕を片腕で抱きよせた隆史さんが、苦笑しながら言った。 「手当をしよう。まずはそれが先決だ」 　そしてそう口にすると、僕を促し部屋を出た。 　その後僕は、使用人に手当をしてもらった。治療の仕方は、僕が指示を出したが、さすがに利き手を怪我していたせいで、自分では包帯を巻く事が出来なかった。いつの間にかやってきた賢が、僕にずっと寄り添っていてくれた。隆史さんはその間に、遠隔でいくつかの仕事を済ませていた。僕の治療が終わると少しして、隆史さんの仕事も終わったらしい。 「水城、明日も休みが取れた。今日は、二人でゆっくりしよう。二人で――きちんと想いを確認しよう。水城の口から、もっと聞きたい。いくらでも聞きたい。俺の事が好きだと」 「……」 　真っ赤になって、僕は俯く。花びらの色より、今の僕の頬の方が、もしかしたら赤いかもしれない。 「それから俺にも伝えさせてくれ。水城の事が、どんなに好きで、どんなに大切で、どんなに愛しているか。尤も、言葉じゃ語りつくせないが」 　僕は気恥ずかしくなって、瞳をオロオロと動かした。 　それから僕らは、儀式の部屋へと自然と向かった。布団の上で、再度唇を重ねる。 　普段着の白衣姿だった僕を、正面から隆史さんが押し倒す。そして僕の下衣を性急に降ろし、片手でローションのボトルを手繰り寄せた。それを手に取ると、真っ直ぐに僕の後孔に指を二本挿入した。久方ぶりの感覚に、僕は息を詰める。でも、胸が満たされているから、恐怖も何もない。ただ繋がれる幸せだけが、僕の目を潤ませる。 「ぁ……」 　隆史さんが指先で僕の前立腺を刺激する。それから、抜き差ししながら、僕の内側を広げていく。既に僕の体は、これから与えられる快楽を知っているから、期待に震え始めた。 「ぁ、ぁァ」 「悪いな、抑制が効かない」 　指を引き抜くと、陰茎にタラタラとローションを垂らし、隆史さんが押し入ってきた。その硬い熱に、僕は喉を震わせる。 「ああ……っ、ぅ……あ、あ、隆史さん……」 「好きだ、水城」 「僕も、僕も隆史さんが好きだ……あああ！」 　上にシャツと白衣を纏ったままで、僕は露出している左足を持ち上げられる。そして斜めに貫かれた。そうされると激しく前立腺を刺激される形になり、僕は嬌声を堪えられなくなる。 「あ、あ、あ……ああ！　あ！　アぁ！」 　ローションがたてる水音と、肌と肌がぶつかる音が、室内にこだましている。 　僕は両腕を、隆史さんの体にまわした。 「あ、あぁ……ぁ……好き、隆史さん。大好きだ……んぅ」 「俺も好きだ。何度でも言う。愛してる」 　いつもより荒々しく抽挿しながら、少し掠れた声で隆史さんが言った。僕の体が蕩け始める。 「ん――！」 　一際強く最奥を穿たれた瞬間、僕は放った。すると一度隆史さんが動きを止めた。だが、僕の呼吸が落ちつくと、口角を持ち上げた。 「悪いが、今日は寝かせてやれそうにもない。俺はまだまだだ」 「ひ、ぁ、ああああ！」 　この夜僕は、隆史さんの本気を思い知らされた。これまで気遣われていた事も知った。一晩中抱き潰され、僕は散々体を貪られた。何度も何度も前でも中だけでも果てさせられて、何も考えられないほどに、体に快楽と愛情を叩き込まれ、教えられた。 　空が白む頃、僕は目を開けた。 　するといつもとは異なり、隆史さんが帰っている事はなく、彼は僕を腕枕していた。視線を揺らすと、隣には賢も来ていた。 「おはよう、水城。少し無理をさせてしまったな」 「……嬉しいから、大丈夫です」 　答えた僕の声は、少し掠れていた。いつの間にかすっかり脱がされていたので、僕は一糸まとわぬ姿だ。隆史さんの腕の中にいる状態で、毛布をかぶっている。 「賢に小言を言われた」 「犬の気持ちが分かるの？」 「いいや？　俺は、犬は飼った事すらない」 「――え？」 「賢は、俺の式神だ。水城は、賢が見えるようだから、気づいていると思っていたんだが」 「し、式神……？」 　驚いて僕は、改めて賢を見る。白いフサフサの毛並みの犬にしか見えない。大型で長毛種の犬だとばかり、僕は思っていた。 「茨木には、式神を見る力が無かったが、昔から水城に見えるのは知っていた」 「えっ」 「水城の方が、陰陽道の素質はある。ただ、華頂家は基本的に、余程の事が無ければ長子存続だからな。尤も、次の代はお前の従弟だと聞いてはいるが」 「……え、ええ。そうです」 「うん。ちなみに蘆屋は、一族で一番力がある者が継ぐから、俺の次は、俺の甥と決まっている。俺はお前以外と添い遂げる事は無いから、子はなさないしな」 「……」 「なぁ、水城」 「は、はい？」 「もう一回」 「！」 　そのまま悪戯っぽく笑った隆史さんにのしかかられ、僕は赤面した。 　こうして完全に朝が来るまでの間、僕は再び体を貪られる事となった。