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自覚と覚悟 8

電気の切れかけた薄暗い部屋の中、頬に焼けつくような鋭い痛みを感じた。 口の端が切れ、口腔内に鉄の味が広がっていく。 「……てめぇ、もう一回言ってみろ!」 「チッ。だから……。もう、アンタの言いなりにはならねぇって言ったんだ」 血交じりの痰を吐き捨て、怒りに燃える父親を真正面から睨み付ける。 「ここまで育てて貰った恩を忘れて随分偉そうな事言うようになったじゃねぇか……ぁあ?」 「ハッ、何年前の話してんだ。育てて貰ったって……。高校の入学金も学費も、大学の費用も全部俺が身を削って稼いだ金だ。アンタに世話になった覚えはねぇよ」 「なんだとこのガキ!」 怜旺の反抗的な態度にカッとなった父親は、シャツを掴み上げ脇腹を蹴り上げた。 「ぅ、ぐ……っ」 一瞬息が詰まったが怜旺は唾を床に吐き捨てて舌打ちをすると、切れた口の端を腕で拭ってニヤリと笑った。 「相変わらず脳筋だな。クソ親父。暴力でしか自分の意思を通せないなんて。情けねぇ……。けど、この程度のキック痛くも痒くもねぇよ」 「くそったれが……。どうやら自分の立場がまだわかってない様だな」 「立場? んなもん、今すぐ此処で捨ててやる。 俺はもう、あんな仕事は二度としたくねぇし、アンタとは縁を切る……。今日で終わりだよ親父」 自宅へ戻るまでの短い間、色々な事を考えた。 自分を庇って死んだ母親を思うと、父親と縁を切る事に酷く罪悪感を感じたが、今更あんな奴を父親と思うなんて馬鹿げている。 いつかは変わってくれるかもしれない。 以前のように優しい父親に戻ってくれるかもしれないと言う淡い期待を抱いて今日まで来た。 だが、自分の事をただの金づるとしか思っていない父親に、怜旺はこれ以上関わるだけ時間の無駄だと悟ったのだ。 「怜旺……お前、いつの間にそんな生意気な口利くようになった? ぁあ!?」 「……ッ」 父の形相に背筋が凍り付く。怒りに任せて肩を掴まれた怜旺は、そのまま床に押し倒された。 「父親に向かって随分舐めた口聞く様になったじゃねぇか。……最近様子がおかしいと思っていたが、誰に唆された? 何処の馬の骨だ? 昔みたいに甘ったるい戯言にでも絆されたのか?」 「……クソっ! ぅ、く……ッ」 自分の倍以上の体重がある父親に圧し掛かられて、腹の上に膝が乗った状態で首を絞められる。 「お前は単純だからな。どうせ、好きだとか、愛してるだとかそんな甘っちょろい言葉に騙されたんだろ? はぁ……ったく、馬鹿な奴だ」 「っ、違……ッ」 「何が違うんだ。クソッ……。折角この俺様が愛情たっぷりに育ててやったって言うのによぉ。恩を仇で返すなんて随分薄情な息子に育ったな」 ギリギリと首に掛かる手に力が籠り、怜旺の喉からは声にならない音が漏れ出す。 「ゴホッ、ガハッ……」 意識が落ちてしまう寸前、ふっと拘束が解けて怜旺は必死に酸素を肺に送り込み噎せた。 「この世にお前を愛してくれるような野郎は存在しねぇ。狙ってんのはその極上の身体だけなんだよ。いい加減夢を見るのは止めろ」 「……クッ」 違う!と言いたかった。だが、身体が目的だと言われてしまえばすぐに否定の言葉が出てこない。  そもそも、圭斗は自分の何処を好きになったのだろうか? こんな可愛げのない、面白みのない男を。 「お前が居たせいでアイツは死んだんだ……。お前さえ、いなかったら……ッ」 もう、何百回も聞かされ続けて来たセリフが耳に響く。恨みの籠った瞳が怜旺を頑丈な鎖で縛っていく。 「お前に人に愛される資格なんてねぇんだ。一生俺の下で生きるしかないんだ」 「……そう、かよ」 怜旺は父親のその言葉にくしゃりと顔を歪ませ、悔しそうに唇を噛んだ。 やはり、自分の存在理由は金の成る木としてしかないのかと思うと悔しさが込み上げて来る。 それと同時に、こんな親父の下で一生飼い殺される人生なんて真っ平ごめんだと心の底から思った。 「……そんなに俺の事が憎けりゃさっさと殺せば良いだろうが!」 「それが出来たらとっくにしてる!! テメェのその顔が……その目が……っアイツにそっくりなのがいけないんだ……」 「……」 神様は残酷だ。元々母親譲りの美人だと言われ続けて来た。父親曰く、年を重ねるごとに益々母親そっくりになっていくのだと。 幼い頃は、母親と瓜二つである事は嬉しかった。 しかし、中学に上がった頃から自分の顔が鏡を見る度に憎くて仕方ないものに変わって行った。 どうしてあの美しい人と自分が似ているのか。 今となってはその事が唯々恨めしい。 縁を切りたいのに、こうやって苦しむ実父の姿を目の当たりにすると、結局切り捨てる事が出来なくて……。 こんな仕打ちを受け続けてもなお、怜旺は未だに父親に心の片隅で愛されていたいと願っている事に気付き、嫌悪感で吐き気がした。 「お前なんて……。生まれてこなければ良かったんだ……ッ」 「……っ」 最後に耳に届いた父の声は、今まで聞いた中で一番暗く冷たかった。

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