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甘くほろ苦く、きっと最後は苦みだけ
年末年始は、平日に勤務しているデザイン事務所は休みだった。
しかし駅前に出店できる許可を取っているのは土日だけなので、結局ソファンに会えたのは変わらず土曜の夜だけ。
彼はいまだ、初めて立ち寄ってくれた夏の日にお買い上げしてくれたピアスを左耳につけている。
ここまで懇意にしているし、若い男の子に喜んでもらえるプレゼントはつまらない絵画なんかより、身につけられるアクセサリーだろう。ソファンに似合いそうなピアスかネックレスでも作ってやろうかとも思った。
しかし彼は間もなく兵役に就く。このタイミングでそんな物をもらっても仕方ないだろう。
俺はどうしてだかソファンのことばかり考える。
ソファンは誰のことを考えているんだろう。
それを気にしている俺は一体何なんだろう。
帰国は三月の半ばらしい。
一月往ぬる二月逃げる……というのは本当で、もう二月も中旬に差しかかっていた。
帰国の時が迫ってきてもソファンは変わらず俺のもとを週に一度だけ訪れ、そして以前よりも穏やかで幸せそうな雰囲気をまとっていた。
俺がキャンバスに向かえばその隣の特等席に陣取る。休憩にと展示スペースの裏に座ればその隣にもついて来る。
そして最近のソファンからは、何か甘く色っぽい──露骨な言葉で言えば、男を誘っているような香りがするようになった。間違いなく香水だ。
これが本当に魅惑的で、何だかもうハグしてずっと嗅いでいたくなるような香りだ。
俺が誘われてどうする。俺はノンケだし、そもそも俺にそんな権利がない。
嗅がせて、と頼んだら断られない予感もあるが。
おそらくその好きな奴と上手いことくっついたんだろうなと悟った。そいつの好みの香りをつけているか、つけさせられているんだろう。
俺のところに立ち寄った後に、そいつのところに行くからもうこの香りをつけておいているのかもしれないが、軽い嫌がらせに思える。
正直、正直なところかなりムラムラさせられる。
絵筆を握りながら、
「ソファンさ、最近すげーいい匂いしてるけど、香水?」
と平静を装って訊いてやった。いい加減スルーできない。
「この匂い、好きですか?」
「えっ……まぁ、好き……かな」
ソファンは嬉しそうに身体を寄せてくる。
「嗅いでてもいいですよ」
俺の肩に頭を乗せ、心持ち大人びた声音で囁く。
「コラ!おにーさんを揶揄うんじゃないの!……そういうのは本命にやっときなさい」
「本命?」
「本命って、いちばん好きな人のこと。ほら、今ってバレンタインシーズンじゃん。本命チョコとかいう言葉、聞いたことあるっしょ?韓国にもある?」
ソファンがふわりと微笑む。俺の肩にもたれたまま。
「ありますよ、韓国にも。女性が男性にプレゼントを贈るってところでは、あまり変わらないです。だから僕たちみたいなマイノリティは、どうしたらいいかちょっと迷います」
「まぁ好きにしたらいいんじゃないの?ソファンからもらって嫌な気するわけないだろ」
知りもしないソファンの恋人のことを想定して答えた。
「そっかぁ。じゃあちょっとお出かけしてきますね。すぐ戻ります」
「え?ちょっとってどんくらい?俺あと一時間もしないで撤収するよ!」
ソファンは十五分ほどで帰ってきた。いつもの飲み物のおつかいより少し長い。
「コンビニで売ってた物ですが」
そう言って、有名なチョコレートブランドの小さな紙袋を差し出してくる。
「いやいやいやいや、それは俺になの?」
「はい、航平さんになんです」
「いやー、だからそれはさ……」
さっきのは本命の恋人に贈ってあげなさい、との意で言った。そいつならソファンにもらって嫌な気など起こすわけないと。
それがなぜか俺に。
「中も見てください。紙袋はシンプルだけど、入ってるのはハート型の缶なんです。水色にピンクのリボンの柄がすごく綺麗で。あと何かな、木馬とかオーナメントがぶら下がってる感じが……あ、こういうアートのことは僕なんかより航平さんの専門ですね」
「いや、いいセンスしてると思うよ。これをデザインした人も……あと、選んだソファンも」
「良かった……他にもいろいろあったんだけど、航平さんは中身の味ももちろん、見た目も大事にする人だと思ったから」
いつものコーヒーなどのおつかいより少し時間がかかっていたのは、そういうことを考慮しながら選んでいたからなのか。
いや、でも所詮コンビニで買ってきた物だ。
いや、でもソファンは俺のためにしっかりと選んでくれている。
いや、でもソファンにはどこかに本命の男がいるはずだ。
いや、でもその男はそもそも実在しているのか?
もしかしたらそれは、実は俺のことなんじゃないかといよいよ誤認してしまいそうで。
「日本ではバレンタインに告白するのが文化みたいですが、韓国ではそれもあるけど、恋人同士が一緒に過ごす日でもあるんですよ」
俺はもうソファンの顔が見られなかった。横並びに座っていて良かった。
何を思って、誰を想って、そんな話をしているのか。
『じゃあ当日は恋人とせいぜいイチャイチャしろよー』
そんな言葉は喉の奥につかえて終 ぞ出てこなかった。
俺であれ。俺であれ。ソファンの好きな男、俺であれ!
もはや強く願ってしまっていた。
しがないクリエイターもどき。創作活動にばかり没頭してすっかり恋なんて忘れかけていた。
キミとは生まれ育った国も違い、いつかキミが祖国のために戦う日が来たとしても、行くなと引き止めることも、身を挺して守ることもできないけれど。
どうか俺を好きになってください。
俺はいつからかソファンに惚れてしまっていたようです。
ソファンがあーんで食べさてくれたチョコレートは、カカオが効いて少しほろ苦い。
隣にいてくれるソファンの存在は、俺をとろけさせるほどに甘い。
あと一月もすれば──苦みだけを残して去って行くんだろうか。
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