6 / 10
あなたの隣で過ごした日々は
平日は事務所で依頼業務をこなして、土曜の夜だけソファンが会いに来てくれた。
帰国の前の週、結構ギリギリまでアルバイトを続けていた。
『今まで頑張ってくれてありがとうって、職場の皆さんがメッセージの紙?くれたんです』
『それは日本では寄せ書きって言うんだよ』
『ヨセガキ?すごく嬉しいです!宝物!』
そうしてまた土曜日。
ソファンは先週でアルバイト先を退職しているから、今日はもう来ないだろう。
結局連絡先の交換さえ言い出せなかった。自分の情けなさに嫌気がさしてイラつく。
明日になればソファンは海の向こうだ。
今日はライブペインティングもする気になれない。売る気も売れる気配もない、どうでもいい完成品を展示して、スペースの裏に突っ立っていた。
いい年をした男たちがガヤガヤと明日の賭け事の話などをしている。春休みの学生たちがワイワイと二軒目の飲み屋の相談をしている。
『日本は平和です』
いつかソファンは悲しげに呟いた。
──そうだね、本当にね、俺もみんなもバカみたいに恵まれてるね。
それなのに、どうしてソファンは行かなきゃならないの?
海を挟んだあっちとこっちに生まれただけで。
旅行者らしき大きなスーツケースがガラガラと音を立てている。
夜の駅前の喧騒の中、その音は俺のスペースの前で止まる。
「……航平さん?」
「うぇ!?ソファン!?」
もう会うこともないと思っていたソファンが、そこにいた。思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
「え、え、待って。だって今日はもうバイトないんだろ?えっ?で、帰るのは明日でしょ?何その大荷物……」
ソファンは俯き加減で、
「……あの、寮を出ていく日にちを間違えて申請しちゃって……今日追い出されちゃいました」
と明かした。
留学生のそんな些細なミスくらい大目に見てやれよ、もう一晩くらい置いてやれよと。
そう思う気持ちが三割。
おそらく泊まるあてもまだ探していないんだろう。それで俺のもとを訪れた理由への胸騒ぎが七割。
「ちょっとだけここにいていいですか?」
「あ、ああ、いいよ」
いつも休憩していた時の様に、スペース裏に小さなアウトドアチェアを並べて腰かける。
その内のひとつはソファンの特等席の物。それはきっと本人もわかっている。来るはずのない彼のイスを、俺はクセで持ってきてしまっていた。
「コーヒー買ってきましょうか?今日は夜でも温かいから冷たいのがいいですか?」
「いいよ。今は要らない」
ここにいろ。向こうに帰るなよ。ずっと俺の隣で描いてるの見てろ。
無理だとはわかっている。それでもそんなことが言えたなら、想いを伝えることだけでもできたなら。
基本的に男は臆病だ。相当に脈アリだと確信できないと口説けない。俺はどうやら際立ってそうらしい。
「……日本での生活は楽しかった?」
「はい、とっても!」
にこにこして可愛いな、幸せだったんだな。
ソファンは一体誰のモノだったんだろうな。
どこの誰と一緒にいて幸せだったんだろうな。
「……変なこと訊いていい?」
「何ですか?」
「前にさ、好きな男がいるみたいなこと言ってたけど……その人とは楽しく過ごせた?」
はい!と笑顔で答えてほしくもない。悲しげに首を振ってほしくもない。
ソファン、俺はやっぱりキミを──。
「……今、隣にいる人と、とても楽しく過ごせました……」
ごまかしでもからかいでもないのは充分伝わってきた。
ソファンの頬は赤らんでいた。
「え……はは……あ、そっか……」
年下の子から言わせてしまった。
情けなさとそれ以上の喜びが、俺に気の利いた言葉を思いつかせてくれない。
「ねぇソファン、俺のことが好きなの?」
何の捻りもロマンもない言い草に、ソファンは俯き黙りこくる。
まさか引かれたか?あれ、どうしよう。
「え、ちょっと待って。あ、俺の勘違いだったのかな?へへっ、ごめん。あー、忘れて?忘れよ、今の」
「……あの、僕、高校生の時に、好きだった男の先輩から同じことを言われたんです。『俺のことが好きなのか?』って。……それで、その人からも周りからも酷いこと言われ続けて……本当に悲しかったから」
ソファンが泣きだしそうな瞳で俺を見る。
ああ、俺からもそいつの時と同じように、拒絶され侮蔑されるのかと恐れたのか。
ぶん殴りに行きたい、その先輩とやらを。それに同調してソファンを傷つけた奴らを。
でも俺の手は、勝手だけれどまずはソファンに優しく触れていたい。
「嫌な言い方しちゃってごめん」
触れそうで触れられなかった、すぐ隣のソファンの手をおそるおそる握った。
「俺は、ソファンのことが好きだよ。本当は、どこにも行かせたくないくらい」
ソファンはハッと息を飲んで固まっていた。
「……本当に?何で?本当に?嘘だ……」
「何だよもう。ソファンが俺を本気にさせたんだろうが。もうさぁ……責任取ってよ」
一応周りを見渡し、通行人から死角になっているのを確認してから。
ソファンの頭を抱えるように引き寄せキスをした。
数秒にも満たない、本当に触れるだけ。
出会ったこの場所で、最初で最後の口づけにと。
そのつもりだった。
しかしソファンが自らの唇に指で触れ、
「……嘘みたい……嬉しい」
と儚げな表情で呟く。
こんな顔を見せられては、最初ではあったが最後にはさせられない。
時が俺たちを別 つまでもっと触れていたい、と強く思う。
見慣れたシルバーのピアスの左耳に口元を寄せた。
「良かったらさ、今から俺ん家おいで?あんまり広くないけど」
ソファンが首すじまで赤らめて、
「行きます」
と消え入りそうな声で答えてくれた。
触れたいの次は、喰いつきたいと思った。
俺は限りなくノンケに近いはずだけれど、ここまで強い想いと情欲で誰かを抱きたいと思ったのは、きっと初めてだ。
ともだちにシェアしよう!