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第6話 半獣人のアンル
身体がふんわりと柔らかなものに包み込まれている。
息苦しい日々を全て忘れてしまえるほど、いい夢を見ていたような気分だ。
――なんだっけ、ものすごくエッチな夢を見てたような気がする。BLの読みすぎかなぁ……
徐々に頭が覚醒してゆくにつれ、まぶたの向こうに明るい光が差し込んでいるのを肌で感じる。ずっと一人暮らしをしていた部屋は日当たりが悪く、遮光カーテンをかけなくても二十四時間薄暗いはずなのに。
「あ……あれ?」
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井があった。
自室の無機質な白い天井ではなく、木目が規則正しく並んだ天井。それに、なんだかベッドの感じも違う。身体を受け止めるのは薄いせんべい布団ではなく、ふっかりとした厚みのあるマットレスに、柔らかな毛布。
――あぁ、そうだ……! 僕は『生贄の少年花嫁』の世界で目を覚まして……
眠ったことで、また前世と今世の記憶が混ざり合っていたらしい。夢から現実へ覚醒した途端、微睡みのなかを心地よく漂っていた身体を、急に重だるく感じた。
「どこだ、ここ……」
重たい身体をベットから引き剥がすように起き上がり、部屋の中を見回してみる。
壁際には小ぶりな暖炉があり、窓からは陽光がすがすがしく差し込んでいた。銀色の燭台が置かれたチェストや部屋の中央に置かれた丸テーブルは柔らかな色をした無垢材で作られており、小綺麗に整えられている。
着ている服も見慣れないものだ。てろんとした白いシャツはサイズが合っておらずぶかぶかだが、肌触りは柔らかくてとても気持ちがいい。素肌に擦れる布地の感触に、ふと、トアの胸は大きく跳ねた。
――ちょっ……ちょっと待った。あのエロい夢は夢じゃない。僕はヴァルフィリスと出くわして、それで……
混乱と羞恥とともに思い出されるのは、生まれて初めて体験した淫らな行為だ。肌のそこここに滑らされた指の感触がありありと蘇り、頬がぼっと真っ赤に火照った。
「あのあと気絶してたってことだよな。まさか……!」
嫌な予感がして、トアはパッとうなじに手を当てた。ごそごそとシャツの襟もとのあたりを探ってみるものの、そこには傷ひとつなく、さらりとした首筋があるだけだ。
「あれ……? 咬まれた傷がない。僕が気を失っているあいだ、あいつは血を吸わなかったのか?」
てっきり、意識を失った後に吸血されたものと思っていた。だって、ヴァルフィリスは吸血鬼なのだから。
薄く笑った赤い唇からちらりと見えた鋭い牙の白さを思い出し、ぞわりと背筋が震えた。
「吸血されなかったのはよかったとして。……はっ、まさか!」
青ざめながら、今度はごそごそと自分の尻のあたりをまさぐってみる。
だが、何かひどいことをされたような痕跡はなにもない。ホッと安堵した拍子に気が抜けたトアは、枕の上に仰向けに倒れた。
「おかしいな。陵辱三昧の日々が始まるようなことが書いてあったはずなのに、なんで僕は襲われてないんだ?」
襲われるどころか、気持ちよくイかせてもらってそのまま寝落ちしているという有様である。……それはそれでいたたまれないが。
小説では、トアがナイフを片手に勇ましくヴァルフィリスに斬りかかる描写があったはず。バトルのせいでお互いに血気盛んになってしまい、興奮状態のまま激しい行為に及ぶことになるのだろう。
だが実際のトアはナイフを奪われてしまった挙句、戯れのようなキスやペッティングだけでヘロヘロにさせられて、何もできなかった。
「僕がちょろすぎたせいでがっかりして、向こうも盛り上がらなかった、ってこと? ……うわ」
言葉にすると情けなさもひとしおだ。情けないやら安堵するやらで気持ちの整理がつかず、トアは両手で顔を覆ってうめき声をあげた。
と、そこへ、ノックもなく突然ドアが開け放たれる。
仰天するあまり声も出せずに硬直していると、視線の先に立つ少年の髪の毛の中で、灰褐色の獣耳が元気よくぴょこんと揺れた。
「あれっ、起きてんじゃん! 具合どう?」
「えっ? け、けも……耳……?」
腕の中に桶を抱えた少年の頭には、ふわふわの毛に覆われた、三角形の耳がくっついている。
青褐色の大きな目はくりくりしていて、とても快活そうな印象だ。年齢は一見したところ、十八歳のトアと同じくらいだろうか。てきぱきとベッド脇に桶を置き、そこに満たされた湯を布に浸してトアに手渡す。
ほわりと湯気の立つそれをありがたく受け取って顔に押し付けつつ、トアはしげしげとケモ耳少年を見つめた。
――すごい、リアル獣人だ。もふもふだぁ……!
「ん? なに?」
「あ、いや、ありがとう。なんか、世話をしてもらったみたいで……」
「別にいいよ、たいしたことしてないし。おまえ、丸ふつか眠りっぱなしだったんだぞ」
「ふ、二日? そんなに!?」
「あ。飯食う? 腹減ってるよな、お前ガッリガリだもんな」
めし、と聞いた途端、ぐうぅ~~と腹の虫が素直に鳴いた。それを聞いたケモ耳少年はニカっと笑うと、鋭い犬歯が露わになった。
「っても、今日はスープだけにしとけって言われてるから。あんまいっぱい食わしてやれないけど」
「ううん、嬉しい。ありがと」
素直に礼を言って微笑むと、少年は物珍しげなものを観察するように、じぃっとトアを見つめてくる。
きょろりとした大きな目は黒に近い青。耳とお揃いの灰褐色の髪の毛はつんつんとあちこち無造作に跳ね上がっていて、少年の活発そうな容姿によく似合っていた。
背丈は同じくらいだろうか。トアが着ているものと似たシャツに身を包んでいるが、貧相なトアとは違い、しっかりとした体つきである。そしてよく見ると、ズボンの腰のあたりから、フサフサとした尻尾まで揺れている。
――そうだ。彼は狼獣人の『アンル』。小説の中では詳しい描写がなかった脇役だけど、この屋敷でヴァルフィリスの召使いのようなことをしていたはずだ。
確か作中では、ヴァルフィリスに犯され尽くしたトアを介抱する役回りだったはずだ。とはいえ、トアは犯されるどころか気持ちよくイかせてもらっただけ。
こうして着替えをさせてもらった上に清潔なベッドで寝かせてもらえているなんて、想像していた世界観とずいぶんイメージが違う。
――僕があのときバトルを挑めなかったから、ちょっとずつ世界観が変わっちゃってるのかなぁ……
腕組みをしてうーんと唸っていると、ベッドの縁にアンルが腰を下ろした。前のめりで両手をつき、じっとこちらを見つめている。
「ふーん、たいして美味そうなやつには見えないけどなぁ。ガリガリだし、顔色も悪いし」
「え?」
「それに、ヴァルを殺しにきたってわりにはマヌケづらだ」
言い返したいけれど言い返せるほどの元気もないので、トアは曖昧に「ははは」と笑った。
するとアンルはふっと前触れもなく部屋から出ていってしまった。かと思うと、今度は両手で木製ボウルのようなものを大事そうに抱えて戻ってくる。
深さのあるボウルの中には、湯気の立つクリームシチューのようなものがたっぷりと満たされていた。トアは目を輝かせ、すぐさまそれを受け取った。
「た、食べていいの?」
「もちろん。野菜のミルク煮だよ」
「うわ、いい匂い。いただきます……!!」
口にした瞬間、滋養のある甘みと温もりが口の中いっぱいに広がってゆく。
ころりとしたものはじゃがいものような食感と味がする。青菜のようなもの、にんじんにしては赤すぎる根菜らしきものが柔らかく煮込まれていて、涙が出るほどに美味かった。
目を閉じてゆっくりと咀嚼し、飲み込む。すると、胃のあたりからじんわりと熱が生まれ、全身のすみずみにまで力が漲ってゆくようだった。こうして食事をしてみて初めて、自分がひどい空腹を抱えていたのだと理解する。
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