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第8話 看病、だと……?

 ひんやりとした手の感触を額に感じる。  こんなふうに優しく触れる人は祖母だけだった。熱を出して眠るトアのそばで繕いものをしながら、何度もこうして額に手を置いていた。まるで、トアがちゃんと生きているかどうか確認するように。  逆の立場になったとき、トアはいつも祖母に申し訳なさを感じていた。ここまで育ててくれたのに、町の人たちとうまくやっていけていない自分が情けなかった。  ゲイであることも、申し訳なくて言えなかった。恋人の一人でも紹介できたら、祖母を安心させてあげられたかもしれないけど、それも最期までかなわなかった。  ――ごめん……ごめんな。  記憶が感情を呼び覚まし、閉じた瞼から涙が溢れる。目の奥が熱くて、鼻の奥がツンと痛い。嗚咽で呼吸を乱しながら、トアは何度も何度も、祖母に謝った。 「うう、うっ……ばあちゃん、ごめん……」 「……だれがばあちゃんだ」  上から降ってくる声の低さに、トアはひゅっと息を呑んだ。  同時にぱちっと目を開くと、揺れて霞んだ視界の中に、美しい緋色の瞳がふたつある。 「ばっ……!? ばば、ヴァルフィリス……!?」  驚きと共に飛び出た声は掠れている。起きあがろうとしたけれど身体は重く、トアはぱくぱくと無様に口を開け閉めすることしかできなかった。  外はもう暗いようだ。  燭台と暖炉の灯りでほんのり橙色に染まった部屋の中に、襟元の詰まった白シャツと黒いベストを身につけたヴァルフィリスがいる……!  この状況は危険だ。危険すぎる。ヴァルフィリスはきっと、熱を出して弱ったトアの血を奪いにやってきたに違いない。  すぐにでも、ベッドから這い出してここから逃げようと考えた。だが、発熱のせいでまったく身体に力が入らず、もぞりと腕で身体をわずかに浮かせることしかできなかった。  するとヴァルフィリスは柳眉をかすかにひそめ、起き上がりかけているトアの肩をベッドに押し戻す。 「何やってる。大人しく寝てろ」 「い、いや、だって……!! あんた、ここに何しにきたんだよ……っ」 「何しに……? ふふ、何をしにきたと思う?」 「ひぃ……」  ニヤリと唇を半月状にしならせて、ヴァルフィリスが邪悪な笑みを浮かべた。細められた双眸から覗く深紅の瞳がいいようもなく不吉なものに見える。  とうとうその時が来てしまったのだ。きっとこれから、ヴァルフィリスは身動きの取れないトアを押さえつけて吸血行為に及び、そのまま――……  しかし、ヴァルフィリスは枕元の木製チェストの上に置かれた洗面器に浸されていた布をキュッと絞って、トアの額の上へ置くのである。  ひんやりと濡れた布が、トアの額から熱を吸い上げる。心地良い感触に、思わず「ほぅ……」とため息が漏れた。  ――冷たくて気持ちいい…………って、そうじゃなくて!! うそだ。ヴァルフィリスが看病!? そんなキャラじゃないだろ!? 「なな、なん、なんで……なにやってんだよあんた……っ」 「うるさい、黙れ」  混乱するあまりあわあわと口を開け閉めするトアを黙らせて、ヴァルフィリスはトアの耳の下あたりを軽く押した。まるで、扁桃腺に腫れがないかどうか確認する医師のような手つきだ。  身動きの取れない獲物が目の前にいると言うのに、表情にも猛々しいところは一切感じられず、至って平静な様子である。  いったいどういうことなのだろう。小説の内容とはかけ離れた事象が起きていることに、トアは戸惑うばかりだった。  ――わざわざここへ看病だけをしにきた? ……いや、いやいや、そんなはずあるわけないよな。  やはり腹が減って、トアの血を吸うためにここまできたに違いない。そう思うと急にバクバクバクと心臓が早鐘を打ち始め、込み上げてくる唾液をゴクリと飲み下す。  ふと、ヴァルフィリスの赫い瞳が、すいとこちらを向いた。ベッドの中でピンと全身が硬直する。 「お前、名前と歳は」 「え? あ……ええと、名前はトア。歳は、十八」 「十八か。孤児院から寄越されたんじゃないのか?」 「孤児院育ちで、そのまま、世話係としてそこで働いてて……」  ヴァルフィリスはしげしげとトアの顔を観察したあとベッドの端に腰を下ろし、さらに質問を続けてくる。 「孤児院(そこ)ではいったいどんな暮らしをしてたんだ?」 「……どういう意味?」 「お前の身体はボロボロだ。栄養失調で、身体の成長が年齢にまるで追い付いていない」 「えっ? ……まぁ、確かにそうかも」 「こんな死にかけのガキを俺のところに送り込んでくるなんて、毎度毎度、一体どういうつもりなんだ」  考え込むように自らの顎を撫でながら呟いた最後の台詞は、ひとりごとのようだった。トアは毛布の中からヴァルフィリスを見上げ、とつとつと最初の質問に答えてゆく。 「……まぁ確かに、孤児院の暮らしはひどかったよ。食事は粗末だったし、環境も清潔とはいえなかった」 「ほう」 「病気になる子もいたけど、満足な治療を受けることもできずに死んでいくんだ。……けど、大人たちはさ、夜ふつうに酒飲んでたり、町に遊びに行ったりするんだ。それがずっと許せなくて」 「……」  語っているうち、改めてこの世界の残酷なありさまに胸が痛んだ。前世のトアにとってはフィクションの世界だったけれど、今ここに横たわるトアの肉体は疲弊し、衰弱している。  今、トアが体験していることは、この世界の中で培われてきた現実そのものなのだ。 「……なるほどね。しかし、そんな環境で育った割には、お前は学がありそうだな」 「まぁ……うん。孤児院のとなりにある教会の書庫に古い本がたくさんあって、そこで本を読ませてもらえてたから」 「お前に文字を教える大人がいたのか?」 「うん、司祭さまが生きてたから。僕が小さい頃は、孤児院だってまだマシな環境だったんだ。……けど、司祭さまが死んでから、だんだんおかしくなっていって」  司祭はかなり高齢だった。背中は曲がり歩くのもつらそうだったけれど、トアの目をちゃんと見て、学ぶことを教えてくれた。司祭が亡くなってから、トアたちの環境は悪いほうへ激変した。  大人たちは王都から支給される金を自分たちの享楽のために使うようになり、守り育てるべき子どもたちのことを便利な労働力くらいにしか思っていない。  しかも、何か不都合なことがあれば、こうして子どもをやすやすと『生贄』として差し出すのだ。……まあトアは、自分から進んでここへ来たわけだが。  トアの語りを聞き、ヴァルフィリスは「そうか」とひとこと呟き、ゆっくりと首を振る。そして、じっと探るような目つきでトアを見つめている。   これまで見たことのない色をした瞳のせいか、無表情なせいか、トアに注がれている眼差しの意味がよくわからなくて緊張してしまう。  ――え、なに。なんなんだろうこの沈黙は。まさか、話は済んだしそろそろ血でも吸ってやろうかとか考えてる……!?  「あ、あの!!」 「なんだ?」 「あ、あの……ええと」  毛布の縁を顔の下で掴んで、はくはくと口を開け閉めしているトアを見下ろすヴァルフィリスは、怪訝そうな表情だ。いたたまれなくなり、トアは昼間感じた疑問を思い切ってぶつけてみることにした。 「僕が気絶してる間、ど、どうして血を吸わなかった!?」 「は?」 「だ、だだって、あんたは吸血鬼なんだろ……!? 目の前に気絶した少年がいたら、思わず吸いたくなっちゃうもんなんじゃ……!?」 「……」  ――あ、あれ、無反応?  沈黙に耐えきれず疑問をぶつけてみたものの、ヴァルフィリスはほんのりとした呆れ顔で沈黙したまま、じっとトアを見つめるばかりだ。    まさか妙な地雷を踏んでしまったのだろうか。知らず知らずのうちにヴァルフィリスの逆鱗に触れていて、このまま襲われてしまうのか――……!?  たらたらたらと、嫌な汗が全身から滲み出してくる。  すると、すっとヴァルフィリスが身を屈め、枕元に片手をついた。ひとときたりともトアから視線を外さないまま、指の長いしなやかな手がゆっくりとトアの首筋に伸びてきた。  さり……と、爪の先で首筋の柔らかいところを思わせぶりに撫で上げられ、身が竦む。「ひぃぃ……」と悲鳴を漏らしながら、トアはぎゅっと固く目を瞑った。 「おもしろい、随分と残念そうだな。干からびるまで血を吸われたかったのか?」 「そ、そういうわけじゃなくて……!! 純粋に、なんでだろうって……!」 「それに、どうして俺が吸血鬼だと?」 「そ、それは……ええと」 『前世で読んだ本に書いてました』と言えるわけもなく、トアは苦し紛れに「ま、町で噂になってて……」と口にした。ヴァルフィリスは「なるほどね」と小さく呟くと、唇の片端を吊り上げ、牙をちらつかせながら艶然と微笑んだ。 「いいよ、どうされるのがいい?」 「へっ?」 「……痛いのと、気持ちイイの、どっちがいい? お前の望むようにしてやるよ」 「あ、あの、あああ」 「俺に吸血されたいんだろ? ……なぁ、トア」 「ひ………………っ」  内緒話を交わすように耳元で囁くヴァルフィリスの声は、低くて甘い。  ふっと吹きかかる吐息の色っぽさにあの日の興奮を再燃させられ、トアの顔は一瞬にしてトマトのように真っ赤になった。  耳から孕んでしまいそうなほどにセクシーな声だ。低く凄んでいるような囁き声なのに、どこかトアを甘やかすような響きもあって腰にくる。  図らずもうっとりさせられてしまい、ヴァルフィリスを見上げる目からへなへなと力が抜けてしまう。  誘われるまま、うなじを差し出してしまいかけたその時――……ヴァルフィリスが突然「ふはっ!! あっはははっ……!!」と噴き出し、高笑いを始めた。  肩を震わせて大笑いしているヴァルフィリスを、トアは涙目になりながらこわごわと見上げる。……なにがそんなに可笑しいのだろうか……恐ろしすぎる。 「ははっ、あはははは……っ!! この俺にそんなことを訊く奴、初めてだよ」 「……へ」 「こんなに笑ったのはいつぶりだ? ふふっ……はぁ……はははっ、涙が出てくる」  そう言って白い指先で目元を拭うヴァルフィリスの姿が麗しい。小説の中では笑顔の描写などほとんどなかったはずだが(凄んで微笑むような描写はあれど)、トアの目の前にいるヴァルフィリスは表情豊かなようだ。  ――若干……いや、かなりバカにされてる感は否めないけど、この人も笑ったりするんだ……  なんとも言えない気持ちの狭間でふるふる震えているトアの頭に、ぽんとヴァルフィリスの手が乗った。 「ま。とりあえず、今のお前に必要なのは十分な栄養と休養だ。俺を殺すのはその後にしろ」 「こ、殺……」  清々しい笑顔で物騒なことを言われ、ひゅんと肝が冷えてゆく。本気な物言いではなさそうだが、ヴァルフィリスは今もトアに命を狙われていると思っているのだろう。  凄んで見せるべきかしおらしくしておくべきか迷っていると、トアの頭に置かれていた手がゆっくりと撫で下ろされる。その手のひらに、慈しむような柔らかさを感じてしまい、トアはまた戸惑った。  だが、今度はぺちんと額に衝撃。軽くデコピンをされてしまった。「いった!!」と呻いて額を押さえているトアに、ベッドから立ち上がったヴァルフィリスがニヤリと悪い笑みを見せてくる。 「それにな、この俺に吸血してもらおうなんて百万年早いんだよ」 「へ」 「まずはせいぜい肥え太れ。美味そうな身体になったら考えてやってもいい」 「こ、肥え太れだぁ……!? 人を家畜みたいに……っ」 「そんなに騒ぐと熱が上がるぞ。じゃあな」  目を細めて意地の悪い笑みを見せたあと、ヴァルフィリスは踵を返して部屋を出て行った。  ……なんだか、想像していたよりもずっと、あの人はくせ者な予感がする。

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