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第9話 アンルの庭

 ぬくぬくとしたベッドで適切な食事を与えられるという満ち足りた生活が、そのあと一週間ほど続いた。  主にトアの世話を焼いてくれていたのはアンルだ。毎日トアにスープやパンを届けてくれ、時折湯に浸した布でトアの身体を拭いてくれた。  生まれてこの方、こんなにも丁寧な世話を受けたことがなかったため、トアはことあるごとに「ありがとう、ありがとう」と涙ぐみながらアンルを撫でさせてもらった。  すると「な、なんだよ子ども扱いすんなよっ!」とツンとした顔を見せるものの、アンルの小麦色の頬はほんのりと赤く染まっていて、ピンと上を向いた尻尾はふりふりと揺れている。  そういう反応を見るにつけ、アンルにも甘えん坊な一面があるのかなと想像し、トアはひそかにほっこりしていた。  夜になると熱が上がって呼吸が苦しくなったりもしたけれど、彼のおかげで、トアの体調は目に見えて良くなった。  やがて、昼間はすっかり歩き回れるようになった頃。トアは起き上がり、椅子に引っ掛けてあった服に着替えることにした。  現代でいうコットン素材のような、柔らかな生地でできたシャツだ。使い込まれて柔らかくなった生成りのシャツに袖を通し、分厚くごわっとした素材でできたズボンを穿く。なめした革で作られた焦茶色の靴の靴紐をきゅっと縛って、久しぶりに自分の足で立ち上がった。 「わぁ……いい天気」  少し曇った窓ガラスの向こうに広がるのは、真っ青な空。突き抜けるように青く晴れ渡った空の色は、かつて見上げていた日本のそれよりもずっと濃く、眩しい気がした。  どうやらここは一階のどこかであるらしい。窓からは真っ白な雪に覆われた森の樹々と、屋敷を囲う鉄柵が見える。といっても、牢獄のように無骨なものではない。蔓草がからみついたような瀟洒なデザインのものだった。 「あ! トア、起きてんじゃん!」  今日もノックなしにドアが開いて、アンルが勢いよく部屋に入ってきた。こうして立った状態で比べてみると、アンルとトアはほとんど同じ背丈だ。明るいところで見ると、くりんとした大きな目は藍色を帯びていて、キラキラしていてとても綺麗だ。 「おはよう、アンル」 「おはよ! トア、顔色良くなったな。毛艶もましになったんじゃない?」 「ははっ、毛艶って」  しゅばっと片手をあげて気持ちの良い挨拶をする笑顔は、今日もすこぶる爽やかだ。アンルは挨拶というものを知らなかったのだが、教えてみてよかったと思う。 「いっぱい世話かけたね、ありがとう。今日から僕も、家のことを手伝うよ」 「え、ほんと? やったね」 「洗濯とか、料理とか、全部アンルひとりでやってるんだろ? 僕、そういうの得意だからさ」 「まーね。といっても、ヴァルは飯食わないし、なんかしょっちゅうどっか行ってるから、おれ、ひとりぐらしみたいなもんだけどな」 「へぇ……そうなんだ」  ヴァンパイアの食事は血液だ。とはいえ、トアの血を一滴たりとも吸っていないのだから、『しょっちゅうどっか行ってる』間にどこかで誰かの血を吸って食事をしているのだろう。  イグルフのさらに東には王都があり、その周辺の街はとても賑やかに栄えていると聞いたことがある。  きっとヴァルフィリスは、夜な夜な街へ出てセクシーな女たちと酒を飲んだりしているのだ。あれだけの美貌を持つ男だ、酔っていい雰囲気になった相手を惑わせてエッチなことをしたり、その流れで吸血したりしているに違いない。  豊満な胸を強調したドレスを身に纏った美女を腕に抱き、その白い首筋に牙を立てるヴァルフィリスの姿をやすやすと想像することができる。それは、あまりにも完璧なヴァンパイア像だ。  ――よそで美女の血を吸えるなら、僕の血を欲しがる必要もないってことか。  つまり彼は、気絶していたり病気で臥せっているトアの血をわざわざ吸うまでもないということだ。そうなると、ヴァルフィリスとのバトルからの陵辱ルートは回避できた……ということになるのだろうか。 「どうしたんだよ、ぼうっとして。とりあえず屋敷ん中案内するよ」 「あっ、うん! 頼むよ」  アンルに導かれ、部屋を出る。  まずトアを驚かせたのは、左右に果てしなく伸びているような長い廊下だった。思わず「うわ~~広い!」と感嘆してしまう。 「そう、広いんだよ。だから、ぜんぜん使ってない部屋とかあるんだよね」 「確かに。アンルとあいつじゃ持て余しそうだなぁ」 「一階には暖炉のあるでかい部屋があって、台所の隣にはでっかいテーブルとシャンデリアのぶら下がった部屋があって……」  アンルの拙い説明を聞きながら、トアは屋敷を見て回った。『暖炉のあるでかい部屋』というのは、トアが初日にヴァルフィリスと出会った場所だ。  トアが寝ていた部屋にあったものより数段豪華な石造りの暖炉があり、テーブルやソファの類にも高級感がある。お客をもてなすための応接間といったところだろう。  そして『でっかいテーブルとシャンデリア』の部屋は、天井が高く広々としたダイニングルーム。カーテンを開けてみると、出窓からそのまま庭へ出ることができるような構造になっていた。今は雪に閉ざされているけれど、春になればきっと、青々とした庭木や色とりどりの花々で彩られた美しい庭が現れるのだろう。……もちろん、きちんと手入れをすればの話だろうが。 「すごいな、早く春にならないかなぁ」 「はる? はるってなに?」  アンルは耳がいいのか、トアのひとりごとももれなく拾って質問してくる。この世界に四季があるのかまだわからないけれど、トアは「もっと外があったかくなって、草花が芽吹いたりするようになったら、春だよ」と伝えてみた。 「それならきっともうすぐだよ。おれ、それまでにはお嫁さんがほしいなぁ。ぜんぜん見つかんないけどさ」 「あぁ……。毎晩探しに行ってるんだっけ」 「そろそろ雪も降らなくなるし、トアも元気になったし、もうちょっと遠くの森まで探しに行ってみよっかなー」 「そっか、僕がいるから遠出できなかったんだ。ごめんな」 「ううん、ぜんぜん。だって、夜はヴァルフィリスがトアの様子見てたしね。おれは寒いから遠出しなかっただけ」 「え」  アンルはそう言ってガラス窓を押し開き、真綿のような雪の上を走り回っている。シャツ一枚ではやはり寒いが、アンルはまるで寒さなど感じていないかのように元気いっぱいだ。屋敷の中からその姿を見守りつつ、トアはドキドキと高鳴る胸を押さえて頬を赤らめた。  ――夜な夜な美女の血を吸いに行ってたんじゃないのか……?  フフンとせせら笑いながら『せいぜい肥え太れ』などと言っていたのに、まさかトアの看病をしていたとは。その事実があまりにも意外で、彼というキャラクターをどう理解すればいいのかわからなくなってしまう。  ――ん? ってことは、僕が臥せっているあいだ、ヴァルフィリスは食事をしていないってこと?    人間の血液がどのくらい腹持ちするのかはわからないが、ヴァルフィリスにも不自由を強いてしまったのだとしたら申し訳ないことをしたなと思う。  ――そういうことなら一応、看病のお礼は言わなきゃ……だよな。  熱で火照った額に冷たいタオルを乗せてくれたときの感覚を思い出す。トアはそっと額に手を当てた。  相手は危険な吸血鬼だ。だけど、寝込んでいたトアを無碍にすることもなく、丁寧にケアをしてくれた。  そういえば、アンルが運んでくれる食事の内容などは、誰かから指示を受けている様だった。きっとヴァルフィリスが、トアの状態に合った食べ物についてアンルに助言していたのだろう。  トアは、ひとから優しくしてもらった経験がほとんどない。だからこそ、看病に深い恩を感じてしまう。与えられたものは返さなくてはと思うのだ。  感謝を伝えるためには、ヴァルフィリスと会う必要がある。……そうなると、またバトルになるきっかけが生まれてしまう。  ヴァルフィリスは元気になったトアの血を啜ってやろうと思うかもしれないし、性的に襲われる可能性だって、なきにしもあらずだ。  貞操の危機が完全に去ったとは言いがたい状況だ。トアは腕組みをして空を仰いだ。   「あっ!! そうだ、にんにく……!!」  パッと閃いた妙案だった。  そう、吸血鬼の苦手なものといえば、にんにく。現代人としての記憶を取り戻したがゆえの叡智。 「魔除けとしてにんにくを隠し持っておけば、きっとあいつも僕に手が出せないはずだ」   よし、その手で行こうと拳を握りしめているところに、雪まみれになったアンルがこちらに駆け戻ってきた。軽く息を切らしているアンルの頬は健康的に紅潮していて、目はキラキラと輝いている。身体を動かすのが好きなタイプらしい。 「どした? 庭、見に行かないの? おれの畑、向こうにもっと広いのがあるんだぞ。今は雪かぶってるけど」 「へぇ、見せて見せて!」  ぱさぱさとアンルの髪にくっついた雪を払ってやる。トアが菜園に興味を示したことが嬉しかったのか、アンルは耳をピッと立てて目を輝かせると、ぶるぶるっと全身を震わせて自分でも雪をふり落とした。 「あとね、にんにくって野菜があるなら分けて欲しいんだけど」 「にん……にく? なんの肉?」  きょとんとして首を傾げるアンルににんにくの見た目や匂いの説明をしながら、トアは日当たりのいい庭を散策した。

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