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第10話 差し入れホットワイン

 夜になり、アンルが『お嫁さん探し』に出かけていってしまうと、急に屋敷の中が静かになる。  あちこち案内してもらったおかげで、この屋敷のことは大体わかってきた。  どの部屋のしつらえも美しく、調度品のひとつひとつにも高級感がある。……が、人に使われていないせいか、おおよその部屋の家具には分厚い埃が積もっていた。    埃を取って磨き上げたら、きっとどの部屋も美しく生まれ変わるに違いない。そう考えたトアは、とりあえず明日から掃除に勤しむことに決めた。  そして今、トアは火のついたかまどの前に立っている。  アンルが日頃から使っているとあって、キッチンには生活感があった。そして、広い。  赤茶色の煉瓦と、白っぽい色の煉瓦を組み合わせて作られたかまどが壁側に据えてあり、キッチンの真ん中にはどっしりとした木製の作業台がある。また、キッチンの端に並べられた木箱の中には、収穫した野菜が無造作に放り込まれていた。  それらは全て、アンルが育てた野菜だと聞いた時は驚いた。  彼がこの屋敷にやってきたばかりの頃。庭をうろうろしていたとき、にょっきりと生えた果物の木を見つけたという。庭はべらぼうに広いが、その木の周囲は周りよりも柔らかいことに気づいたアンルは、そこで何か食べられる植物を育てようと思い立ったらしい。  半獣人として生まれたせいで仲間から虐げられていた時期のあったアンルは、食うに食えないひもじい幼少期を送っていたらしい。  あたたかい季節はまだよくても、冬になると食べるものは何もない。堪えきれないほどの空腹を抱えながら、草の根を引っこ抜いてかじっていた時期もあったんだ――と、アンルはのほほんとした口調で教えてくれた。  幼いアンルが枯れ草の根を齧っている姿を想像すると、かわいそうすぎて涙が出そうになったけれど、当の本人にとってはさして辛い過去ではなさそうだ。  獣のゆえの強さだろうか。アンルの明るく逞しいところを見るにつけ、トアもしっかりしないければと思わされる。 「ああ……いい匂い」  火にかけている鍋の中から、ほんのり甘い香りが立ち上っている。ヴァルフィリスへの看病の礼として、ホットワインを作ってみることにしたのだ。  今夜はまたしんしんと雪が降っていて、ぐっと冷え込む。吸血鬼がどのくらい寒さに弱いのかはわからないけれど、あたたかいものを差し入れられて嫌な気分にさせることはないだろう――と、悩んだ結果だ。  アンルの言葉通り、キッチンから数段階段を降りた半地下の部屋には木棚が整然と並んでいて、たくさんのワインが貯蔵されていた。  そこにあったのは、ホッツたちが飲み散らかしていたワインの瓶とは比べ物にならないような、美しい装飾が施されたものばかり。勝手に触っていいものなのか迷ったけれど、開封済みの瓶を見つけたので、それを使うことにした。  ホットワインは、司祭が生きていた頃に何度か作ったことがある。『イグルフの厳しい冬は、老体にはひどくこたえる』と苦笑しながら、司祭はホットワインの作り方をトアに教えた。  小さな鍋から香り立つ豊かな香りとともに、弱りゆく司祭の姿を思い出し、トアはちょっと切なくなった。 「……作ってみたものの、今夜は屋敷にいるのかな」  はちみつをひと匙加えてひと煮立ちさせた白ワインに、みかんのような色と形をした果実をスライスしたものをそっと浮かべる。  もともとこの庭に生えていた木をアンルが手入れしてみたら、つやつやしたこの果実が生ったらしい。  果汁をたっぷり含んだ実は、やや酸味の強いみかんに似た味がする。爽やかな酸味の中にほのかな甘みがあって、美味しい果実だ。  出来上がったホットワインをグラスに注いでゆく。ふわふわと湧き上がる湯気を胸いっぱいに吸い込むと、甘さのある芳醇な香りが鼻腔いっぱいに広がった。これは絶対うまいやつだと確信し、トアは思わず笑みをこぼす。  ふとそのとき、玄関ホールのほうから物音が聞こえた。ドアを開閉する音だ。  じっと耳を澄ませていると、大理石の床を踏む小気味いい靴音が足音が、ゆっくりと二階へと消えていく。どうやら、どこかへ出掛けていたヴァルフィリスが戻ったらしい。 「よ、よし、行くか。これを渡して、看病のお礼を言って、すぐに立ち去る。……お守りも持ってるし」  ズボンのポケットのふくらみに目を落としながら、トアは力強く頷いた。  アンルににんにくの特徴を説明したら、家庭菜園でまさに育てているというので歓喜したトアだ。  キッチンに去年の春に収穫してあったものが干してあるというので、ありがたく、それをいくつか頂戴することにしたのだった。 「よし、完璧」  木製のトレイに湯気の立つグラスを乗せ、トアはいそいそとキッチンを出てヴァルフィリスの部屋へ向かった。

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