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第11話 吸血鬼ににんにくは効かない

 だが、ドアをノックしても返事はない。  トアは手元にあるホットワインに目を落とした。今は湯気が立っているけれど、しんと冷えた廊下でずっと待ちぼうけしていては、せっかくのワインが冷めてしまう。  ――あ。棺桶で寝てるから音が聞こえないのかな……  棺桶かどうかは置いておくとして、もう眠っている可能性はある。わざわざ寝ているヴァルフィリスを起こして襲われるリスクを高める必要はないような気はするが、早めに看病の礼は言っておきたい。トアは律儀なほうなのだ。 「……どうしようかな」  ホットワインは作り直せばいいけれど、ヴァルフィリスが屋敷にいるタイミングがいまいち掴めないこともあって、確実なタイミングを逃したくないという気持ちもあった。  ――覗いてみるだけ。もし棺桶で寝てたら、今夜はもう引き下がることにしよう。  そう心に決め、トアはドアノブを掴んだ。 「……失礼します」  真っ暗だろうと予想していた部屋の中は、蝋燭のほのかな灯りで橙色に染まっていた。もう少しだけドアを開け、そっと部屋の中を覗いてみる。 「う、わぁ……!」  目に飛び込んできたのは、壁一面を覆う大きな本棚だった。こんなにもたくさんの書物を見たのは初めてだ。思わず感嘆の声が漏れ、吸い寄せられるように部屋の中へ滑り込む。  金色の燭台の置かれたチェストの上にトレイを置き、ふらふらと本棚へ近づいてゆくと、古い紙の匂いとインクの匂いがないまぜになったかのような独特の香りが、鼻腔いっぱいに広がってゆく。教会の書架で司祭様の手伝いをしていたときに手に取った本たちとは、比べ物にならないほど状態がいい。  そしてふと、どっしりと重たげなカーテンのかかった窓の手前に、大きな机が据えてあることにも気づいた。ふらりと歩み寄ってみると、開かれた大判の本がいくつも重ねて置かれ、試験管のようなものも並んでいる。トアは目を瞬いた。 「なんだこれ、何か実験でもしてるのかな。難しそうな本ばっか……」 「おい、誰が入っていいと言った」 「!!」  机の端に積み上げられた分厚い本の背表紙に指先を滑らせていたそのとき、背後からヴァルフィリスの声が聞こえてきた。びっくりしすぎて息が止まる。  バッと後ろを振り返ると、吐息がふりかかるほどの距離にヴァルフィリスが立っていて、それにもまた仰天した。しかもヴァルフィリスは風呂上がりのように髪が濡れ、どことなく気怠げな目をしていた。肌は青白く、顔色が悪い。  いつもはきっちりしている襟元ははだけ、黒いズボンに白いシャツを羽織っただけという格好だ。否応なしに、しなやかな首元から綺麗な稜線を描く鎖骨へと視線が吸い寄せられてしまう。  芸術作品のように丹精な陰影を描く胸筋と腹筋が美しく、見惚れてしまう。こんな時だというのに、「着痩せするタイプなんだなぁ」と、頭の片隅でトアは思った。  不意打ちのセクシーにうっとりしてしまっていると、白いシャツに覆われた腕が伸びてきて、壁ドンならぬ本棚ドンをされた。トアは思わず息を呑み、恐る恐るヴァルフィリスを見上げる。 「あっ……あの、ごめん! 返事がなかったから」 「返事がなければ回れ右をしろ。まったく……何しにきた」 「勝手に入ったのは悪かったよ。ただどうしても、お礼を言いたくて」 「お礼?」  眉を寄せ、怪訝そうな表情でトアを見つめる赫い瞳の美しさに、気を抜けばまた囚われてしまいそうになる。トアはサッと目を逸らして、チェストに置いたホットワインを指差した。かろうじて、まだ微かに湯気がたちのぼっている。 「今夜は冷えるみたいだし。……あったまると思って、差し入れ」 「差し入れ? ……俺に?」 「アンルが、キッチンにあるものならなんでも使っていいって言っ……て」  不意にぐっと顎を掴まれ、無理やり上を向かされた。突然の強引な仕草に目を見張るトアを、ヴァルフィリスは醒めた瞳で見下ろしている。  そこはかとなく酷薄にも見える眼差しに震え上がっているトアの怯えに気づいたのか、ヴァルフィリスはふと目から力を抜き、いつものように皮肉っぽく唇の片端を吊り上げた。 「……あの日の続きをしにきたのか?」 「はっ? ……ど、どういう意味?」 「身体が動くようになったから、改めて俺を殺しにきたんだろ? ああ……あのワインに毒でも盛ったか」  ヴァルフィリスは薄ら笑みを浮かべ、そんなことを言ってのけた。一瞬、なにを言われているのかわからなかったけれど、徐々に徐々に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。 「ち、違うよ! 僕はただ、あんたが看病してくれたから、その礼を言いに……!」 「本当に? あの時みたいに俺を誘惑して、隙をついて殺そうとでも考えてるんじゃないのか?」 「なっ……」  目を見張っているトアの頬を、長い指がす……と指の背でてゆく。そのもどかしい感覚に、トアはびくりと身体を固くした。  恐怖のせいもあるかもしれない。だがそれ以上に、そうして肌に触れられるだけで、初めてここへきた日に与えられた快楽を思い出してしまう。  ヴァルフィリスはトアの反応を窺うようにじっと瞳を見据えたまま、撫で下ろした頬から顎へと指先を滑らせた。くいと顎を掬われて顔を上げさせられたかと思うと、今度は彼の親指が、トアの下唇を押し撫でた。  唇はこんなにも感覚が鋭敏だったのかと驚いてしまうくらい、ヴァルフィリスに触れられた場所は、確かな熱を持ちはじめている。だが今は、その快楽に身を委ねてしまうわけにはいかない。   礼を言って帰るだけのつもりだったのに、大量の本に惹かれて部屋に入ってしまったのは失策だった。けれどトアには、隠し持っているお守りがある。ごくりと息を呑み、ポケットに手を突っ込んだ。 「さ、さ、さわるな!! 礼を言いにきただけって言ってるだろ!」  頬の熱さには気づかないふりをして、トアは手の中ににんにくを握り締め、印籠を掲げるがごとくヴァルフィリスの鼻先に突き出してやった。  ……が、ヴァルフィリスは心底訝しげな顔をしているだけ。悲鳴を上げ、怒り狂いながらトアから離れることもなく、訳がわからないといった表情でゆっくりと目を瞬いているだけだ。 「なんだこれ」 「えっ。いや……にんにく、平気なの?」 「はぁ……つくづくわけのわからんやつだ。まさか、こんなもので俺をどうにかできるとでも思ったのか?」 「うぁっ」  ぐっと手首を掴まれた拍子に、ころりとにんにくが床に転がる。……どうやら、ヴァルフィリスにはまったく効果がないらしい。

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