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第13話 笑顔
ふと我に返った。
どうやら、キャパオーバーを起こして気が遠くなっていたらしい。
ふと視線を巡らせてみると、窓辺に佇むヴァルフィリスの背中が見えた。まだ夜は明けていない。さほど時間はたっていないらしい。
もぞりと起き上がってみると、乱れていた衣服がきちんと元に戻されている。その拍子に毛布がはらりと落ちたことで、胸の上まできちんと毛布をかけられていたのだということにも気がついた。
そして、また首筋になんの痕跡もないことも……。
――また、吸血してない。僕の血、そんなに不味いのかな……
どことなく調子が悪そうだったのにもかかわらず吸血されなかったことに落胆している自分に、トアは内心驚いていた。
ちょっといやらしいことはされたけれど、トアが傷つくようなことは一切されていない。気持ちよくされただけで、襲われたわけでもない。
落ち込む必要がどこにある、安堵すべきじゃないか……と、自分を宥めようとしたけれど、トアの心は翳ったままだ。
ヴァルフィリスに……いや、誰かに求めてもらえることに期待して、勝手に喜びを感じていた。たとえそれが愛情ではなくても。吸血欲や性欲、支配欲といった欲求に突き動かされたものであったとしても、求めてもらえることを期待した。
そうすれば、自分にも価値があるのだと感じることができるような気がしたからだ。
しかし、ヴァルフィリスはトアを求めはしなかった。ただ、戯れのような愛撫を与えただけ……。
――あの小説の中のトアは、僕よりもずっと勇ましかった。……何もできない僕とは違う。
泣き出したくなるのをぐっと堪えて、トアは物音を立てないようにベッドから降りようとした。
すると、微かな空気の震えに気付いたのか、ヴァルフィリスが横顔でこちらを振り向く。
「……どうして、泣きそうな顔をしてるんだ」
「えっ……?」
思いがけない問いかけにトアは戸惑い、みじろぎをやめた。
ヴァルフィリスははだけたシャツもそのままに、ゆったりした歩調でベッドへ戻ってくる。そして、トアのそばに浅く腰掛け、じっと顔を覗き込んだ。
「今、何を考えてる」
「べ、別に……。血を吸われなくて良かったって思ってただけだよ!!」
今胸に抱えている感情を読み取られたくなくて、トアはぶっきらぼうに答えて顔を背けた。すると、すぐそばでヴァルフィリスのため息が聞こえてくる。……子どもっぽい態度に呆れられてしまったのかと思うと、それもまた情けなくて、落ち込んでしまいそうになった。
「良かったと思ってる顔には見えないが」
「そ、そんなことない」
「……つくづくわからんやつだ。礼が言いたいだの差し入れだの……お前は何がしたいんだ?」
ふと、ため息混じりの静かな声でそう尋ねられ、トアはゆっくりと顔を上げる。……そして、目を瞬いた。
瞳の色がさっきよりも数段鮮やかに輝いているように見えたのだ。
さっきよりも燭台の灯が増えたのかとあたりを見回すも、そういうわけでもないらしい。仄明るい中でも、ヴァルフィリスの瞳はハッとするほどの鮮やかななルビー色をしていて、肌の色まで数段明るくなったように見える。
――血を吸ってないのに、なんかすごく元気になってる……? なんで?
だが、ヴァルフィリスのその一言で、ようやくここへやってきた目的を思い出した。
トアはベッドに座り直し、ぺこりと小さく頭を下げる。
「あの、ありがとう。僕が熱出したとき……看病してくれて」
「……え?」
「嬉しかった。ああやって優しく世話してもらったのは初めてだったから。……アンルにも、あんたにも、ちゃんとお礼をしたかったんだ」
「……」
「言いたかったのは、それだけ」
トアの言葉をおとなしく聞いていたヴァルフィリスの目が、わずかに見開かれる。面と向かって礼を言われることに驚いているのか、どこか意外そうでいて、無防備な表情だ。
そのまま無言でじっとトアのことを見つめるものだから、どういう顔をしていればいいのかわからなくなってしまう。
瞬きするごとに深紅の瞳が妖しく揺れるさまはやはりとても美しく、つい、照れ臭くて目を伏せた。
そっけない感謝になったけれど、きちんと言葉にすることができてホッとした。ここに長居する必要がなくなったため、トアは部屋を出て行くべく腰を浮かせた。
すると、トアを引き止めるように、ヴァルフィリスがこんなことを口にした。
「……必要ない、礼なんて。お前が気を失ったのは俺のせいでもあるわけだし」
「え……? な、なんで?」
「なんでって……」
会えばいつも軽口をたたいてトアを小馬鹿にしたようなことを言うくせに、ヴァルフィリスが珍しく口ごもっている。
何か物言いたげな様子が気にかかり、その先が知りたくて気持ちが逸った。なにか、とてつもなく大事なことを言い出すのではないかと……。
期待を募らせるうち、どんどん前のめりになっていたトアの額で、ぱちんと衝撃が弾けた。
またデコピンをされたらしい。
「いったぁ!!」
「ま、わざわざお前に教える必要はないか」
「は……はぁ!?」
突然の痛みに額を押さえ涙目になっているトアに、いつもの皮肉っぽい笑みが向けられる。ついさっき垣間見えた素顔らしい表情が嘘のように、悪魔めいた微笑だった。
もう一押しすれば何か掴めそうだったのに、するりと逃げられたようなもどかしさを感じて、トアはむくれた。
「そこまで言っといて教える必要がないとか、なんなんだよ。気になるだろ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
「まぁ……お前がもっと肥え太って、美味そうな身体になったら教えてやるよ」
「またそれ!?」
トアが前のめりになっていきり立つと、ヴァルフィリスは「本当に威勢がいいな」と、軽く肩を揺すって可笑しげに笑っている。その笑顔の眩しさに、トアは内心「うっ」と詰まった。
ヴァルフィリスが言いかけた言葉がすごく気になる。トアの気絶の原因が自分のせいとは、いったいどういうことだというのだろう。
だが、こうしていろんな表情を見せられてしまうと、こちらも毒気が抜かれてしまうというものだ。
いまだ拭えない疑惑があるというのに。肌を触れ合わせ、言葉を交わすうち、ヴァルフィリスを疑い、恐れる感情が薄れてしまいそうになる。
――ストレートに聞けば済むことなのに。『生贄の子どもたちをどうしたんだ』って。……でも。
聞いてしまえば、ヴァルフィリスが『悪』だと確信を得てしまう。そうなってしまうのが、なんだか無性に怖かった。
今なら、逃げようと思えばいくらでも逃げることができる。体調はすでに回復しているし、もしアンルに道案内を頼むことができたなら、イグルフに帰ることだってできるだろう。
だけど、もっとここにいてヴァルフィリスの本質を確かめたいという気持ちが、トアの胸の奥に生まれ始めていた。
――もっときちんと小説を読んでたら、ヴァルフィリスの事情をあらかじめ知っておくこともできたんだろうに……
後悔先に立たずとはまさにこのことだ。うとうとしながら読んでいたせいで、肝心かなめの部分を読み飛ばしてしまっているのだから。
とはいえ、気がかりなことをそのまま放置して逃げ出すことはできない。
トアは意を決して、ヴァルフィリスにむかってこう言い放った。
「ああわかったよ! お望み通り、もっと肥え太ってやる。それまでずっとこの屋敷に居座ってやるからな」
「ふん、好きにしろ」
シニカルに鼻で笑うヴァルフィリスは憎たらしいが、なぜだか胸の鼓動はトクトクと速いままだ。
そのとき、つと彼が指差したほうを見て……トアは小さく「あ」と言った。
窓の手前にあるヴァルフィリスの机の上に、空になったグラスが置かれている。どうやらホットワインを飲んでくれたらしい。むかむかと苛立っていたのが嘘のように、気持ちがふわりと浮き上がってゆく。
「ホットワインは初めて飲んだが、悪くない味だった」
「あー……そう。ふうん……よかったね」
頬が緩んでしまうのを隠すべく、トアはあえてそっけない口調で返事をした。本当は胸の奥がむずがゆくなってしまうほど嬉しいのだが、それがヴァルフィリスに伝わってしまうのは癪なのだ。
「でも、冷めちゃってただろ。時間も経ってたし」
「かまわない。冷めてるほうがいいんだ」
立ち上がったヴァルフィリスはグラスの縁に指を滑らせ、肩をすくめる。
そして軽い口調で、「俺は猫舌だからな」と言った。
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