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第14話 人影

 ヴァルフィリスの屋敷に留まるようになってから、半月ほどが過ぎた。  この数日は天気が良く、肌を刺すような寒さが少し和らいでいた。庭一面を覆い尽くしている雪も、陽の当たる場所はうっすらと地面が見え隠れしている。  アンルの信頼を得ることには成功しつつあるようで、トアは菜園管理の手伝いを頼まれるようになった。  冬だからといって畑の管理を怠るわけにはいかないらしく、大根に似た野菜の収穫であるとか、春に野菜を植え付けるらしい畑の土づくりなどなど、アンルの指導を受けながら泥だらけになって作業をする日々だ。  孤児院にいた頃も、教会の裏で細々と菜園をやっていた。だけど、イグルフの土地は痩せている上、野菜の作り方などを教えてくれる大人もいなかったため、収穫できるものはごくわずかだった。  狼獣人ゆえに鼻が利くためか、野生の勘が働くのか、アンルは誰に習ったわけでもないのに野菜作りにとても詳しい。土の作り方や育て方を彼から学んだ今なら、孤児院の畑をもっとよりよいものにできるのになぁ……と思いながら、今日のトアは、森に面した玄関まわりに積もった雪をかく作業をしている。 「はぁ……疲れた」  日中はあたたかったけれど、夕暮れ時ともなるとぐっと気温が下がってくる。肌感覚での気温は五度以下だ。  だけど、重い木製のスコップでえっちらおっちら雪をすくって隅へ積み上げていく作業を繰り返していたおかげで、汗をかくほど身体はあたたまっている。  ただ、体力がないので骨が折れた。栄養状態はよくなってきたものの、トアの肉体にはまだ年齢相応の筋肉が備わっていはいないようで、アンルのようにキビキビとは動けないのだ。  ――とはいえ、だいぶ元気にしてもらったよなぁ。  一階の窓に映った自分の姿にふと気づき、トアは雪かきの手を止めた。  痩せていた頬には張りが生まれ、顔つきが変わってきた。大きな目がぎょろりと見えて生意気に見られがちだった目つきも、ずいぶん穏やかなものになったと感じる。  根本から毛先まで乾いてばさっとしていた髪も柔らかく、艶が出てきたように思う。こうして見てみると、前世で幾度となく眺めていた『トア』の美少年っぷりにかなり近づいたなと思う。 「最初はガリガリでびっくりしたしなぁ。肥え太れって言われる意味もようやくわかってきたかも」  首に巻いた布で額の汗を拭い、空を見上げる。そろそろ夕暮れ時が近い空は、橙色から藍色への淡いグラデーションに染まり始めていた。  今日も朝から抜けるような青空が天高くまで広がっていて、冴えた空気が清々しかった。夕暮れが近づき、一気に気温が下がってきたけれど、労働によって火照った身体に、胸いっぱいに吸い込んだ清らかな風は心地いい。自然と、口元に笑みを浮かんだ。今日もよく眠れそうだ。 「トアー、お疲れ。雪かきどうなった?」  そこへ、アンルが軽快に駆けてくる。軽く手を上げて「だいたい終わったかな」と言うと、アンルは自分の腰に手を当ててトアの雪かきした場所をざっと見渡し、「うん、まぁいっか!」といって深く頷いた。……どうやら成果は微妙らしい。 「そろそろ夕飯にしよ。今日は鴨を捕まえたから焼いてみた!」 「うわぁ美味そう。すぐいくよ」  夕飯と聞いて、ぐぅぅと腹の虫が鳴いた。  アンルは野菜作りだけでなく狩りも上手だ。時折『お嫁さん探し』のついでに鴨や鹿や猪なんかを捕まえてくる。  ヴァルフィリスはこういった食事をとることがないため張り合いがなかったようだが、今はトアという食客がいるため、アンルはずいぶん張り切って料理を作るようになった。その料理がいつもすこぶる美味いので、ついついがっついてたくさん食べてしまう。トアが順調に肥え太っているゆえんだ。  汗を拭きながらスコップを壁に立てかけて、今日の作業はここで終了することにする。 「トア、すごい汗じゃん! 先にお湯でも浴びてきなよ、汗が冷えちゃうから」 「いいの? やったね!」 「おれ、先に食べて出かけてるかもしれないけど、トアのぶんはちゃんとおいとくからなー!」 「うん、わかったよ」  なんだか少し、アンルはそわそわしているようだ。ひょっとすると、”お嫁さん探し”がうまくいきそうなのかもしれない。  食事の支度をしておくといって、尻尾を元気に揺らしながら先に屋敷へ戻っていったアンルを微笑ましく見送り、トアはうーーんと大きく背伸びをした。  風は冷たいが、雪かきでほてった頬には心地の良い刺激だ。『湯』と聞くだけで、疲れがさっぱりと洗い流されてゆく。  この屋敷の部屋にはそれぞれバスルームがあり、金属製の手押しポンプを押せば少し熱いくらいの湯が豊富に出てくるため、いったいどういう仕組みになっているのかと不思議に思っていた。  アンルがせっせと焚いてくれていたのかと思っていたが、なんと、この土地には温泉が出るというのだ。  イグルフの平原からは十数キロ離れたこのあたりは、背後に切り立った山が迫っている。そこからは先は深い山脈へと地形が続き、そこを越えると隣国だ。  過酷な地形の恩恵のような温泉が、この屋敷では使い放題だ。現代を知るトアとしては本当に天国で、バスタイムはまさに至福のときである。  屋敷内に湯を引く作業もアンルがこなしたのかと思っていたが、アンルがきた頃からすでにその仕組みは出来上がっていたという。ひょっとしてヴァルフィリスがやったのだろうか。  ……とはいえ、あのヴァルフィリスが金属パイプを肩にかついでDIYをしている姿は、どうやっても想像しにくい。  濃灰色の煉瓦造りの壁を見上げる。尖った屋根の向こうに夕陽が沈みかけているらしく、いつしかトアは陰の中に佇んでいた。やはり、夕暮れ時が近づくと不気味さが増す。  見上げた先にあるのは、ヴァルフィリスの部屋のバルコニーだ。部屋にいるのかいないのかわからないが、背の高い窓を覆うカーテンはぴったりと閉じている。  ――なんでだろう。僕はあいつを、そんなに悪いやつだとは思えないんだよな……  ”残虐非道な冷酷攻め”というイメージを抱いていたけれど、トアを介抱したり、時折皮肉めいた笑顔を見せてみたり。なんだかんだといって、トアを扱う手つきが優しかったり……ヴァルフィリスと関わってみて、意外に思うことがたくさんあった。  気を抜けば、『本当は優しいやつなのかも』……と、時々思ってしまいそうになる。  だが、そのたびに自分の甘さを戒めねばならない。  ヴァルフィリスは『悪魔』なのだ。看病や優しいキスの裏にはきっと、トアを絆して籠絡しようとする魂胆があるに違いない。  アンルを使ってトアを健やかに肥え太らせようとするのもきっと、血液の味を良くするために違いない。吸血鬼であるヴァルフィリスが、わざわざトアを生かす理由など、それ以外なにがあるというのか。 「それに……まだ何もわかってないし」  瀟洒な洋館の内部については、”掃除”を名目にあちこち調べて回ってみたが、ここへ送られてきたはずの生贄の子どもたちの姿は見つからなかった。  最後の生贄がここへ送られたのは、確か十年前だ。ここで暮らしていないということは、うまく逃げ出せたのか、それとも……。  ――ヴァルフィリスが殺した?   『悪魔のもとへ捧げられた生贄は二度と戻らない』……そういう事実があるからこそ、ヴァルフィリスはイグルフの民に恐れられ、不吉の象徴とされてきた。 「でも……。あいつがそんなことするとは思えないんだよな……」  そう独りごちてみて、トアはぶんぶんとかぶりを振った。  ちょっと優しくされたからといって、ヴァルフィリスが『善』だとは限らないのだ。イグルフの孤児たちは皆貧しく、優しさに飢えている。そういう子どもを油断させて食い尽くす『悪魔』だという可能性は、まだまだ拭いされていないのだから。  気になることはもうひとつ。  広い広い屋敷の中、簡易ベッドが数台並び、古い薬棚や医療器具が仕舞われた部屋がある。使われなくなって久しいようで、家具や道具類はうっすらと埃をかぶっていた。  ここにはかつて、医師を生業としていた人が住んでいたのだろうということは予想がついた。かつてこの屋敷で昔暮らしていたであろう人々の痕跡を見つけ、何かヒントを得たような気分にはなったけれど、結局なにも紐解かれてはいないのが現状で、ただ疑問は深まるばかり。   「実は地下への隠し階段があるとか? まだまだ調べることが山積みだな……」  だが、また腹の虫が鳴き、トアは一旦考えることをやめた。こちらから接触しなければ、ヴァルフィリスはトアの前に現れないことがわかってきたため、呑気にうーんと伸びをする。  瀟洒なデザインのアイアンフェンスの向こう側には、今日も森がうずくまっている。アンルからは「けっこう物騒だからひとりで出歩かないほうがいいよ」と言われている鬱蒼とした深い森だ。豊かに生い茂る木々のせいで地面にはあまり日が差さず、昼間でも薄暗い。夕暮れ時などはものすごく不気味だ。 「……ん?」  じっと目を凝らす。  柵の向こう側、木々の隙間で、何かが動いたように見えたのだ。  ――誰だろう。あいつが帰ってきたのか?  逃げるべきかと身構えたものの、まだ太陽は山の端に見え隠れしていて、世界を橙色に染めている。  吸血鬼といえば夜の住人だが、ヴァルフィリスはどうなのだろう。太陽光を浴びると灰になってしまうとか、そういう危険性はあるのだろうか?  目を凝らしてみるも、遠くに見えた人影は、ヴァルフィリスのものではないようだ。  じっと様子を窺ううち、人影はますます距離を縮めてくる。むこうはこの屋敷を見て歩調を緩めることもなく、一定の速度で接近してくる。  道に迷った旅人が目標物を見つけて意気揚々と駆け寄ってきたのか、それとも、目的があってここを訪れようとしているのか、判然としない足取りだ。  ――誰だ……? まさか、また新しい生贄が送られてきた……?  そんな予想に反して、こちらへ向かって軽快に栗毛の馬を走らせてくるのは、質素な身なりをした大柄な男だった。ヴァルフィリスでもなく、新たなる生贄候補でもない大人がやってきたことで、トアの全身は緊迫した。  隠れたほうがいいのか、それとも、どんな用件でここへやってきたのか確認すべきかどうかと迷ううち、男の視線がトアを捉えた。

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