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第16話 鉤爪と剣
オリオドも、突如音もなく現れたヴァルフィリスの姿に呆気に取られている。だがその表情が、みるみる驚愕を表すものへと塗り替えられていった。
「あ、赤い瞳……人外か!? 貴様が『悪魔』だな……!!」
素早く間合いを取り、ヴァルフィリスを睨め付けるオリオドの表情には、明らかな攻撃性が揺らめいている。
まさかバトルが始まってしまうのか!? と緊迫するも束の間、ヴァルフィリスはトアの腰を抱く腕から少し力を抜き、聞こえよがしなため息をついた。
「やれやれ、物騒だな。お前が引き入れたのか? トア」
唐突に名前を呼ばれ、こんな時だというのに心臓がきゅんと跳ね上がる。ばっと後ろを振り仰ぐと、フードの陰になったヴァルフィリスと目が合った。
「どうなんだ」
「ち、ちがう。……この人、イグルフの因習について調査しにきたらしくて」
「調査? なんだそれ」
ヴァルフィリスが訝しげにオリオドを見据える。すると、オリオドはびしっとヴァルフィリスを指差し、正々堂々たる口調でこう言った。
「貴様がイグルフの悪魔だな!? 孤児たちを生贄として捧げさせ、その血肉を喰らっているという!」
「血肉を喰らうだぁ? はっ、馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しいとはなんだ!! 実際、貴様のところへ送られた孤児たちは皆、誰一人村へ戻っていないというではないか!!」
「戻ってこないから俺が喰ってるって? ふん、短絡的にもほどがある。もっと想像力ってもんを働かせてみたらどうだ」
「なんだとう!?」
とんとんと自らのこめかみを叩きながら、飄々と嫌みめいたことを言うヴァルフィリスを相手に、オリオドが真っ赤になって怒っている。
そのやりとりを聞き、トアははっとした。
――想像力。確かに僕も、子どもたちが戻らないから、ヴァルフィリスがどうにかしてしまった……って思ってる。
だが、それは違うのだろうか? もしそうなら……ヴァルフィリスが手をかけていないとしたら。
――『悪い奴じゃないのかも』っていう僕の直感は、間違いじゃない……?
そうであって欲しいという気持ちがむくむくと胸の奥から湧き上がり、トクトクと早鐘を打ち始める。
早くその真相を突き止めてしまいたいと気がはやるが、オリオドとの問答はまだ続いている。
「じゃあ、その少年はなんだ!! イグルフから送られてきた孤児なのだろう!?」
「お前には関係ない。答える義理もないな」
「ぐっ……」
細い唇にうすら笑みを浮かべながら質問をかわしまくるヴァルフィリスの態度に、オリオドは鼻の穴を膨らませ、さらに苛立ちを募らせているように見えた。
そろそろふたりの間に入って場をとりなさなくては……と思ったその時、スラリと金属が擦れ合う音が微かに聞こえた。
鈍い光を湛えた銀色の鋭い刃が、まっすぐこちらに向けられている。
「ちょっ……!! あんた、なにする気だよ!!」
刃渡り1メートルほどの細身の剣が、ぴたりとヴァルフィリスの鼻先に向いている。ゾッとしたトアは思わずヴァルフィリスの腕から飛び出し、ふたりの間に立ちはだかった。
「なにやってんだよバカ!! そんなものしまえ! まずは僕の話を聞けよ!!」
「バ…………まぁいい。さぁ、君はそこをどいていろ。まずそこの悪魔ときちんと話をしなくてはいけない」
「どう見ても話をしようって態度じゃないだろ!!」
「いいぞ、俺は構わない」
「はい!?」
今度は背後から、ヴァルフィリスの気軽な返事が聞こえてくる。背後を振り仰ぐと、ヴァルフィリスはばさりとマントの裾を翻し、顔を陰らせていたフードを潔く外した。
日光に当たって平気なのかとギョッとしたものの、いつしか空はすっかり藍へと色を変えている。
ほっと胸を撫で下ろすトアの腕を掴み、ヴァルフィリスはぐいと後ろへ引き下がらせた。まるで、トアを背に庇うように。
そして、一歩オリオドのほうへと進み出る。
「ちょっ! ヴァル……!? なにやってんだよ!!」
「こうでもしないと、あの男はここから出ていかないからな」
「そうかもだけど、危ないって!」
「危ない? ふん、そういうことはあの男に言ってやれ。怖いなら、お前は屋敷の中へ戻ってろ」
「そういうことじゃなくて!」
まっすぐに刃を向けてくる相手とすんなり分かり合えるわけがない――そう説得しようとした瞬間、オリオドが動いた。
銀色の光がヴァルフィリスの胸元へ一直線に走ったように見え、トアは思わず目をつむった。
が、聞こえてきたのはヴァルフィリスの悲鳴などではなく、オリオドの「くっ……この、人外め!!」という憎々しい声音だった。
「あ……っ」
顔を上げると、素手でオリオドの剣を受け止めているヴァルフィリスの姿が目に飛び込んできた。
ヴァルフィリスの胸元を狙って突き出された刃の切っ先が、白い手の中に握り込まれているのだ。トアは目を丸くした。
「す、素手で剣を……!?」
「く、そぉぉ……っ!!」
すると、オリオドは素早く剣を引き、今度は真上からヴァルフィリスに斬りかかった。
肩口から袈裟斬りにしようと考えたのだろう。が、ヴァルフィリスは身軽にひらりと身をかわして剣先を避けると、まるでダンスのステップを踏むかのようにオリオドから距離を取る。
そして、ズボンのポケットに手を突っ込んで小首を傾げ、オリオドを挑発するように薄笑いを浮かべた。
「立派なものを持っているくせに、大したことないんだな」
「なんだとぉ……!? こ、この悪魔……っ!!」
「こいよ、俺から話が聞きたいんだろ? お前が勝ったら、なんでも話してやる」
そう言って、ヴァルフィリスは手のひらを上に向け、指先でちょいちょいと手招きをして見せた。ヴァルフィリスの表情や仕草にむかっ腹を立てたらしいオリオドの顔が、みるみる憤怒の表情に染まってゆく。
そこから一方的なオリオドの攻撃が始まったわけだが、ヴァルフィリスは切っ先が鼻先を掠めるほどの距離で、難なく攻撃から身をかわした。
まるで舞を舞っているかのように身軽に、ときにひらりと後ろ宙返りをしては、音もなく地面に降り立つ。
明らかに常人離れした動きだ。いつしか冷静さを欠いてしまったらしいオリオドの攻撃はトアの目から見ても粗くなっている。剣を突き、振り下ろすたびに風を切る音だけが虚しく響いていた。
「くそっ……ちょこまかと!! ええい、お前も攻めてきたらどうだ!!」
やがて、いくら攻めても無駄だと悟ったのか、オリオドは息を切らせながら手を止めて、ヴァルフィリスをギロリと睨め付けた。
「そうして逃げているばかりじゃ、この俺は追い返せないぞ!! 本気で来い!!」
「……へぇ? 本気を見せれば、お前はここから出ていくんだな?」
ヴァルフィリスは好戦的な笑みを浮かべ、妖しく目を細めた。
身に纏っていたマントの裾を翻し、白いシャツに包まれた両腕をあらわにする。貴族然とした品のいい衣服に身を包んだヴァルフィリスは、いつもと変わらぬ涼しげな佇まいだ。しかし……。
「……えっ」
骨が軋むような微かな音とともに、ヴァルフィリスはすっと腕を持ち上げた。するとその白い手から……ほっそりと知的な指先から、するすると爪が伸びはじめ、禍々しく鋭い鉤爪が姿を現したのだ。
同時に、ヴァルフィリスの瞳がぎらりと赫い光を帯びる。薄暗闇の中、唇の端を吊り上げてにやりと笑うヴァルフィリスの横顔は、あまりにも邪悪に見えた。
その姿を目の当たりにしたオリオドもまた全身を緊迫させ、身を低くして剣を構える。恐れているのかと思ったけれど、オリオドの顔に浮かんでいるのは好戦的な笑みだ。大きな目を爛々と輝かせ、「いいねぇ……そうこなくては」と唇を小さく舐めた。
「後悔するなよ」
ヴァルフィリスの低い呟きがわずかに空気を揺らしたかと思うと、その姿がゆらりと消えた。
跳躍とともに振り下ろされたヴァルフィリスの鉤爪を、オリオドの剣が受け止める。薄暗がりの中で火花が散り、金属が擦れ合う音があたりに響いた。
「軽い軽い!! こんなもんか、悪魔の力ってのは!?」
鋭い喝とともに、オリオドはヴァルフィリスの鉤爪を弾いた。押し戻されたヴァルフィリスはそのままひらりと後ろ宙返りをしてオリオドから距離を取り、再び目にも留まらぬ速さで斬りかかってゆく。
ふたりの視界にはお互いしか映っておらず、戦いがヒートアップしてゆくのが傍目にもわかってトアは焦った。
このままでは、どちらかがひどい怪我を負うに違いない。
果たして怪我で済むのだろうか。ヴァルフィリスのあの鉤爪で切り裂かれたら、いくら頑丈そうとはいえ、オリオドはどうなる……?
――ヴァルフィリスに、人を傷つけてほしくない……!!
「や……やめろ!! ヴァル、やめろよ!!」
思わず口をついて飛び出した叫びに、ヴァルフィリスの瞳が揺れる。
そのままばっと素早い身のこなしで後ろへ飛び退ったヴァルフィリスに向かい、オリオド「うおおおおお!!!」と雄叫びを上げながら猛然と突っ込んできた。
だが、ヴァルフィリスはその攻撃を受け止めることはなく、オリオドの胸元をげしっと長い脚で蹴り飛ばした。
「うごっ!!」
そのまま後ろへ吹っ飛んだオリオドの体躯は門扉を押し開き、ここへ乗ってきた栗毛の馬の足元へごろごろと転がった。ぶるるる、と馬が迷惑そうにいななく声が暗い森の中に響く。
すぐさま飛び起きたオリオドのほうへ、ヴァルフィリスがゆっくりと歩み寄ってゆく。よもやとどめでも刺すつもりなのだろうかとヒヤヒヤしたが、ヴァルフィリスは半開きになっていた門扉をぴったりと閉じ、ガシャンと冷ややかな音を立てて錠を下ろした。
「ここはお前のような奴が来るところじゃない。もう二度と近づくな」
鉄柵の向こうでまだ何やら大騒ぎをしているオリオドにすげなく背を向け、ヴァルフィリスは屋敷へと歩を進めてゆく。マントで再び全身を隠し、早足に。
「ば、ヴァル……!」
思わず呼び止めると、ヴァルフィリスは少しばかり歩調を緩めた。が、こちらを一瞥することはなく、そのまま扉の中へと姿を消してしまう。
その背中を追って、トアもまた屋敷の中へと駆け込んだ。
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