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第17話 身勝手な理想

「待て、待ってってば!! ヴァル!」  天井の高い玄関ホールに、トアの声がこだまする。運良く、ヴァルフィリスはまだ二階へと消えていってはいなかった。  ホールの中ほどに佇むのは、すらりとした黒い影。もう一度「待ってよ」と声をかけると、ヴァルフィリスはトアを横顔で振り返った。 「なんだよ」 「っ……ええと」  呼び止めたものの、そこから先に言葉が続かず口ごもってしまう。  すると、ヴァルフィリスはため息をつき、くしゃりと前髪をかきあげた。 「……せっかく助けが来たのに、追い払って悪かったな」 「え?」 「あの様子だ。あいつはまたここへくるだろう。その時はあいつとイグルフへ……」 「まっ……待ってってば!!」  ヴァルフィリスもオリオドも、こちらの意志に関係なく話を進めようとする。たまりかねたトアの声が、天井の高い玄関ホールに反響した。 「ひとつ、教えて欲しい」 「……何を?」 「これまでにここへ連れてこられた生贄の子どもたちは……どうなったの?」  これまでの逡巡が嘘のように、トアの口から飛び出した質問は直球だった。オリオドの問いに対して『馬鹿馬鹿しい』と答えていたヴァルフィリスの言葉に縋るように、トアはさらに食い下がる。 「僕も正直、あんたが子どもたちをどうにかしてるんだと思ってた。でもここで過ごすうち、あんたがそんなことをするようには思えなくなってきて……もどかしいんだ」 「……」 「教えて欲しい。あんたが……ヴァルが、生贄の子どもたちをどこへやったのか」  イグルフの人々に『悪魔』と呼ばれるようなことを、本当にしているのか。  もし、ヴァルフィリスが『悪』なら『悪』だと、はっきりと教えておいて欲しい。  そうでないと、意味もわからないまま与えられる優しさに少しずつ絆されかかっている自分を、止めることができなくなってしまう。その前に、突き放すなら突き放しておいて欲しかった。  トアの声音にはぐらかしようのない真摯さを感じ取ったのか、ヴァルフィリスはゆっくりとトアに向き直った。  ヴァルフィリスがゆっくりとまばたきするたび、今もなお表情の読めない深紅の瞳が、燭台の灯を映して揺れている。  ドクン、ドクン、と心臓の音がやけに大きく響いて聞こえる。トアはグッと拳を握りしめた。  すると、気だるげなため息が聞こえてきた。 「お前がそれを知ってどうする」 「……えっ」 「どのみち、お前もあのガキどもと同じ道を辿るんだ。そのとき自ずとわかることだろ」  冷ややかに突き放すような、醒めた口調だった。  それはまるで、悪いほうの想像を肯定するかのような冷徹さを含んでいるように聞こえ、トアは震えた。  ヴァルフィリスは『悪』ではないかもしれない――そう淡い期待を抱いていただけに、冷血な視線がトアの胸を深く抉る。同時に、ぞわぞわと足元から這い上がってくる恐ろしさに足が竦んだ。  ――ヴァルフィリスが、子どもたちを殺した。やっぱり、噂通りだったのか……  ショックのあまり言葉が出ない。  震える唇を引き結ぶと、ヴァルフィリスを見上げる目の奥がじくじくと熱くなってきた。  気を抜けば、膝が萎えてその場に崩れ落ちてしまいそうだ。だがトアは両脚に力を込め、静かに燃え上がる怒りにまかせて、ヴァルフィリスを睨め上げた。 「そっか、やっぱり。……あんたはしょせん、『悪魔』だったんだな」 「……なにをいまさら」 「生贄の子どもたちどこへやったんだ!? お前が吸血して、全員殺したのかよ!?」 「……」 「どうなんだよ! 答えろよ!!」  ずっと腹の奥に燻らせていた疑惑が爆発し、トアは尖った声でヴァルフィリスを責め立てた。だが、トアを見下ろす赫い瞳はどこまでも凪いだまま、ひとひらの動揺さえ窺えない。  その静けさが余計に悲しく、トアは固く拳を握り締めた。 「何か特別な事情があるんだって……、本当は、優しいところがあるんじゃないかって思おうとしてた自分が、バカみたいだ……!!」  そう言い終わるか終わらないかのうちに、ヴァルフィリスは一瞬にしてトアとの距離を詰めてきた。   ぎょっとして後退りかけたトアを逃すまいとするかのように荒っぽい手つきで顎を掴み、酷薄な目つきでトアの瞳を覗き込んでくる。  冴えざえするほどに静謐な表情とは裏腹に、深紅の双眸のその奥で、ゆらりと昏い光が揺れた。 「おめでたいやつだ。……特別な事情? 本当は優しい? この俺が?」 「っ……だって、僕を看病したり、僕の世話を焼いたりしていたから……!」 「たったそれだけのことで俺を信じたのか? ……哀れなものだな」  ヴァルフィリスは半月状に目を細め、トアを心から憐れむように薄笑みを浮かべた。  きつく掴まれた顎が痛い。骨から微かに軋む音さえ聞こえてくる。容赦のない力とともに嘲笑を注がれて、竦み上がるような恐怖に全身を支配されそうになる。  だが、黙ってはいられない。トアはヴァルフィリスの手首を両手で掴んだ。 「哀れだと……!? 身勝手に人の命を奪っておいて、よくもそんなことが言えたな!!」 「その台詞、そっくりそのままお前に返すよ」  ヴァルフィリスの手首を捕まえていた手を逆に掴み上げられたかと思うと、ぐいと有無を言わさぬ強い力で引き寄せられた。吐息が触れるほどの距離で、男にしては赤い唇が笑みの形にしなり、そこから鋭い牙が白くきらめく。 「勝手に理想像を作り上げておいて、勝手に失望しているのはお前だろう。……身勝手なのはどっちだ?」 「っ……痛」  ゾッとする間もなく、すぐそばにある談話室に引き込まれ、トアは寝椅子の上に乱暴に押し倒された。最初の夜と同じように。  だが、あの時よりもずっと、今はヴァルフィリスのことが心底恐ろしくてたまらなかった。  そして同時に、ひどく憎い。  ヴァルフィリスは子どもたちの命を奪った『悪魔』だ。そして、ゆくゆくはトアのことも——……  いや、そんな猶予はないかもしれない。  今からトアは吸血され、殺されてしまうのかもしれないのだ。命の危機を察した途端全身から血の気が引き、今更のように大暴れをしようとするけれど、ヴァルフィリスの手はびくともしない。 「離せ!! 離せよっ……!! この悪魔、僕に触るなっ……!!」 「ははっ……こんな時でも、お前は本当に威勢がいいな」  ヴァルフィリスは片手でトアの布ベルトを引き抜き、両手首を一括りに縛り上げた。自由を奪われたことでさらに恐怖が増し、とうとう強がる余裕が消え失せてしまう。  怯えた目でヴァルフィリスを見上げたとき……ふと、トアは違和感を抱いた。  これからトアを殺すつもりで冷笑を浮かべているはずのヴァルフィリスの瞳の奥に、いいしれぬ深い悲しみのようなものが揺らめいているように見えたのだ。  怪訝に思ったトアは身じろぎをやめ、探るように深紅の瞳をじっと見つめる。……だが、ヴァルフィリスはそれを嫌がるように目を伏せると、しゅるりと自らのタイを解き、トアの目を覆い隠してしまった。 「なっ……何すんだよ!! 外せよっ……!!」 「俺の何を勝手に想像していたのかは知らないが。……そうだよ、俺は紛れもなく『悪魔』だ」  耳のすぐそばで低くそう囁かれ、トアはぴたりと身動きをやめた。  これからいよいよあの鋭い牙で首筋を噛まれ、そこから溢れ出した鮮血を思うさま啜られてしまうのだろうか。流れ出した血は止まることなく全て吸い尽くされ、そのまま命を奪われてしまう……?  シャツが引き裂かれる音、ボタンが床に飛び散る音が鼓膜に届き、トアはいよいよ身を固くしてその時を覚悟した。

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