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第19話 モヤモヤと、真実と
「トアー、入るよ!」
ドアがノックされる音が部屋に響いたかと思うと、勢いよく扉が開いてアンルが顔を出す。
ベッドの中で毛布にくるまり、ひたすらに考え事をしていたトアは仰天し、文字通りその場で飛び上がった。
つかつかとベッドに歩み寄ってきたアンルにべりっと毛布をひっぺがされ、トアはバツの悪さを抱えながらアンルを見上げた。
「もう、いい加減起きてきなよ! もう身体は元気なんだろ!?」
「う……うー……それはそうなんだけど」
「トアが手伝うっていうから、わざわざ畑を広くしたんだぞー! このままじゃ新しい野菜の植え付けに間に合わないじゃん!」
「ああ……そうだった。ごめんごめん、起きるから」
「ったくもう」
耳をピンと立てて怒り顔のアンルに問答無用に窓を開け放たれてしまった。びゅうっと冷たい冬の風が入り込み、トアは震え上がったけれど、4、5日閉じこもっていたせいで澱んでいた部屋の空気が一掃されていく。
火が燃え尽き、灰だけが堆く積もった暖炉を掃除しながら、アンルは「薪割りもしなきゃだし、おれは忙しいんだからなー!」とプリプリ怒っている。
「申し訳ない。すぐ起きるよ」
「そうしなよ。お湯でも浴びてスッキリしてきたら? なんかこの部屋どんよりして空気が重いし、掃除しといてあげるから」
「うん、ありがとう」
アンルの言葉に甘えて、トアはシャワーを浴びることにした。
久々にベッドから立ち上がると、一瞬くらりとめまいに襲われる。だが、いくぶん気分はましだし、体力も回復しているようだ。トアは着替えを手に、一枚のドアで仕切られた浴室に入った。
この部屋の浴室は畳一畳ぶんくらいのスペースで、壁に備え付けられた金属のパイプから温泉が出る仕組みだ。現代のシャワーのように細やかな水滴が降ってくるわけではなく、なかなかの水量の水がドバッと降り注ぐといった感じである。
微調整はあまりできないため、勢いよく湯を浴びていると滝行をしているような気分にもなる。とはいえ、コックをひねれば熱いお湯を浴びることができるのは、ものすごくありがたい。
頭から湯を浴びながら顔をこすり、トアは「ああ……生き返る」と野太い声を出した。
ヴァルフィリスと衝突したあの日から数日が経っているが、トアは心労や怠惰のせいで寝込んでいたわけではない。……ただ、あのあとの記憶は曖昧で、ヴァルフィリスに何をどこまでされたのかは、はっきりと思い出すことができないでいた。
——だけど、わかる。咬まれたり、無理やり突っ込まれたりはしなかったってことだけは……
ヴァルフィリスに抵抗していたはずなのに、結局いつものようにトロトロにされてしまった。あの時の自分の情けなさを思い出すと、恥ずかしさのあまり顔から火が噴き出しそうになる。
噛みついてやる! と息巻いていたくせに愛撫を享受して。自ら腰を振っては快楽を求め、舌を伸ばしてヴァルフィリスにキスをねだった。
一度達してしまったあとも、トアは冷静さを取り戻すことはできなかった。
貪るようなキスに酔いしれるうち、萎えかけた性器はあっという間に硬さを取り戻していた。ヴァルフィリスも行為をやめるどころか、善がるトアの脚を開かせて濡れそぼったそれを口淫し、迸ったものを飲み下していたような気がする。
果てのないような絶頂感に意識を飛ばしかけながらも、身体は貪欲にヴァルフィリスからの愛撫を求めていた。うっすらとしか記憶にないのが幸いだが、トアはそのとき、はしたない言葉でヴァルフィリスに先を求めたはずだ。
何度も何度もディープキスをしながら、熟れてとろけきった後孔を指で掻き乱され、腹の奥で爆ぜるような快楽の波に押し流されるまま、恥ずかしい言葉を何度も叫んだような気が——……
「ああああーーーー!! 何やってんだ!! 何やってんだ僕は……っ!!」
思わず壁にゴンゴン頭をぶつけたくなったが、アンルに頭がおかしくなってしまったと思われると困るので、かろうじてこらえた。
湯を浴びながらわしわしと雑に髪を洗い、水音にかき消されることを願いながら「僕のバカ! 何やってんだマジで!! バカなのか!?」と自分を責める。
記憶が曖昧なのは幸いだが、濃厚でいやらしい行為に溺れたせいなのかなんなのか、気づけばトアは高熱を出していて、起き上がることさえできなかった。
はじめは、記憶にはないがそのまま本番に及んでしまい、激しいセックスが長時間に及んだせいでこうなってしまったのかと恐れ慄いた。……が、多少の違和感はあるものの、ヴァルフィリスを受け入れたような痕跡は見当たらない。
じゃあ、血液を大量に吸われたせいで起き上がれないのかとも思ったが……どこにも、吸血の痕跡はなかった。
トアをヘロヘロになるまで追い詰めておいて、結局また血は吸われていない。
にもかかわらず、トアは体力の全てを失ってしまったかのようにぐったりと疲労し、とろとろと眠ったり、微睡の中でぼんやりと起きたり、ということを繰り返すことしかできなかった。
ひょっとして、ヴァルフィリスはトアの精液を糧にしているのかもしれない——……と、ふと思いつき、いつか読んだ体液摂取系のヴァンパイアものエロ漫画を思い出してはまた熱が上がり、再び眠ったりもした。
そして、眠ると悪夢を見ることもあった。
ヴァルフィリスが小さな子どもの肩を掴んで首筋にかぶりつき、喉を鳴らしながら血を飲み下している。
か細く頼りない子どもの身体は、あっという間に萎んでかさかさに乾き、とうとう砂のように消えていってしまう。そんな悪夢だ。
嬉々として吸血するヴァルフィリスの表情は不思議と見えず、暗い影のようになっていた。
その深い闇の中、二つの目だけが真っ赤にらんらんと発光していて、とても不気味で……。その夢を見るたび、トアはうなされながら飛び起きるのだった。
シャワーという名の滝行をしながら、トアはゆっくりと頭を振る。
——早くここを出たほうがいい。ヴァルフィリスが戻る前に……
なんとなくだが、今はこの屋敷の中にヴァルフィリスの気配を感じない。確信はないけれど、そんな気がする。
一応アンルに確認してみようと考えながら、麻のタオルで頭を拭いながら浴室を出ると、アンルはちょうど、部屋のテーブルに料理を並べているところだった。
気遣わしげなような、訝しげなようなアンルの眼差しに、トアは小首を傾げた。
「ん? どうしたの?」
「……トア、大丈夫? なんかずっと叫んでたみたいだけど……」
「えっ。うそ、聞こえてた?」
「丸聞こえ。……ヴァルと一体何があったんだよ」
「うう……」
なんでもないよ、と笑って見せようとしたけれど、こわばった頬の筋肉は、トアの思うように動いてはくれない。ひく、と顔を引きつらせたトアを見て、アンルはあからさまに訝しげな顔をした。
「あいつとけんかでもした?」
「……けんか、ってわけじゃ」
「ヴァルはまた出掛けてっちゃったけど、あっちもなんか元気なかったし。けんかしたのかなって思ってたんだけど」
「元気がなかった……?」
ふと、ヴァルフィリスの悲しげな目を思い出し、ちくりと胸が痛んだ。鋭い棘が、心臓に突き刺さったかのように。
——あの表情はなんだったんだ? どうしてあんなに悲しそうな顔をしてたんだろう。
だが、同時にヴァルフィリスの冷めた視線や、冷たい嘲笑を思い出してしまうと、恐れと悲しみ、そして怒りがトアの胸を締めてゆく。
トアはのろのろと視線を上げ、アンルに尋ねた。
「アンルは、ヴァルのことが怖くないの?」
「怖い?」
アンルは『生贄』ではないから殺される心配はないのだろうし、半獣人ということもあってヴァルフィリスに近い存在だ。だけど、ヴァルフィリスのおこないを知りつつこの屋敷に留まっているのか否かということが、どうしても気に掛かる。
だが、アンルは小首を傾げつつ、あっけらかんとした口調でこう言った。
「おれは怖くないけど? トアは怖いの?」
「……怖いよ」
「え、そうなの? しょっちゅうイチャイチャしてたし、仲良くなったんだと思ってたのに」
「い、いちゃいちゃなんてしてない!! あれは……そういうんじゃなくて」
きょとんとした顔でトアを見つめるアンルから目を逸らし、トアはぐっと体側で拳を握り締めた。
「そりゃ、最初は怖かったよ? でもあいつ、結構紳士的っていうかか……僕を看病しちゃうような優しいようなところもあるし、悪いやつじゃないのかもって思おうとしてたんだけど……」
言葉にするうち気が重くなってきて、だんだん声が低くなってゆく。
先を促すように言葉を挟まないでいるらしいアンルの視線を頬に感じながら、トアはさらに続けた。
「でも……これまでここに連れてこられた『生贄』の子どもたちのこと、聞いてみたんだ。……そしたら」
「そしたら?」
「お前もそのうち同じ道を辿るんだから知らなくていい、って言われたんだ。自分は紛れもなく『悪魔』だって……」
そうだ。それはつまり、ゆくゆくトアはヴァルフィリスに殺されてしまうということに違いない。
ここで過ごすうちに体調もよくなり、骨っぽかった身体は健康的な丸みを帯び始めている。トアが『美味そう』になるのを待って吸血することが、やはりヴァルフィリスの目的に違いない。
この間も吸血されなかったのは、トアにまだまだ栄養が足りてないからなのかもしれない。美味い血を吸うためにトアを飼っているだけ。いやらしい行為の数々は、トアを精神的にここに縛りつけるためか、もしくは、ヴァルフィリスの戯れにすぎないのだろう。
――やっぱり、ヴァルが戻る前にここから出よう。……明日、夜が明けたらすぐにでも。
トアが逃げ出す可能性を察したヴァルフィリスが、今夜のうちに戻ってきて襲いかかってくるかもしれないが、夜の森はさすがに危険だ。
一回血を吸われたら死んでしまうのか、吸血鬼に咬まれたらどうなるのか、わからないことだらけだ。こんな危険なところで、これまでのようにのほほんとここで過ごしていていいわけがない。
――アンルに森の外まで送ってもらえたら、なんとかなるかもしれないけど……
むっつりと黙り込み、再び考え事に沈んでいると、トアの目の前にどんと椅子が置かれた。
テーブルの皿の上にはこんがりといい色に焼けたパンと野菜スープが置かれ、その周囲にはみずみずしい果物がたっぷりと並んでいる。
こんなにも思い悩んでいるときだというのに、食欲をそそる香りに鼻腔をくすぐられ、トアはごくりと生唾を飲み下した。
「美味しそう……」
「まぁ、とりあえず食べよ! 腹が減ってるから悪いことばっか考えちゃうんだぞ!」
「う、うん……いただきます」
木製テーブルの上には、ふたりぶんの食事が並んでいる。トアが臥せっているあいだ、アンルはひとりで食事をとっていたのだろうか。
美味いものを食べているとだんだん気は紛れてくるものの、ヴァルフィリスとのやりとりをきれいさっぱり忘れることができるわけもなく、やはりため息がとまらない。
すると、元気のないトアを見かねたらしいアンルが、手にしたフォークを小さく振りながら頬杖をついた。
「ま、おれに言えることがあるとすれば……そーだなぁ」
振り回していたフォークでぶすりと果物を刺し、大きな口でぱくりと頬張る。トアはさほど期待せずに、スープを少しずつ口に運びながら、アンルの言葉を待った。
「トアがくるちょっと前……ええと、まえの冬が終わってあったかくなったころかな。人間がふたり、ここにきたんだ。男と女」
「えっ? そ、それ……誰?」
上の空でスープを口に運んでいた手をぴたりと止め、トアはアンルにそう尋ねた。
「おれはしらないやつだったけど。女のほうがさ、昔ヴァルフィリスに助けてもらったんですって、言ってて」
「た……助けてもらった?」
「そう。子どもの頃、『生贄』としてここに連れてこられたんだって、言ってた」
「え……!?」
アンルいわく、女のほうはイグルフの出身で、十年ほど前に『生贄』としてこの屋敷に連れてこられたという。
当時十二歳だった彼女はヴァルフィリスの姿を見て恐怖し、腰が抜けて口をきくこともできなかった。このまま殺されてしまうのだと絶望して泣き続ける彼女に、ヴァルフィリスは彼女にあたたかい衣服と食べ物を与えた。
そして、数日のうちに、王都近郊にある海辺の街へと連れていったという。
そこは都会で、これまでに見たことがないほどたくさんの人が行き交う港町だった。どこへ売られてしまうのだろうかとビクビクしていたようだが、ヴァルフィリスが彼女を預けた先は、イグルフとは比べ物にならないほど環境のいい孤児院だった。
彼女はそこで安全な暮らしを得、さらには教育を受けることもできた。
そして今、こうして伴侶と出会い子どもを身籠ることさえできたのだと、アンルに語ったのだという。
「そのときはヴァルはまたどっかいってて、ここにいなくてさ。手紙を渡しておいてくれっておれにたのんで、帰ってったんだよね」
「へ……。それって。じゃあ、ヴァルは……」
――……殺していない? これまでの子どもたちのことも、そうやって助けてたのか……!?
凍えて小さく縮こまっていた心が、雪解けのようにほどけてゆく。
ヴァルフィリスは『悪』ではない。
ここへ連れてこられた子どもたちに手を差し伸べ、彼らを生かすための道を作っていたのだ。
――僕は、なんてひどいことを……!
「ど……どうしよう。僕、ヴァルに謝らないと」
「そっか、やっぱりけんかしてたんだ」
「ひどいこと言っちゃったんだ……どうしよう。ヴァルはいつ帰ってくる?」
「まあ、いつもの調子なら数日のうちに戻るんじゃないかなぁ。わかんないけど」
「数日……」
後悔に苛まれ、ぶるぶると震える手を握り締める。
——そうか、だからあの時、ヴァルはあんなに悲しそうな顔を……
ずっと気に掛かっていた事柄の答えがわかり、トアはますます罪悪感に苛まれた。今すぐ顔を見て謝りたかったけれど、ヴァルフィリスは不在で、もどかしい。
「まぁ、ヴァルが自分のこと話さなすぎなのもよくないよね。かっこつけてんのかなんなのか知らないけど」
アンルは腕組みをして頷きながら、トアを見つめてニカっと笑う。そしてトアを慰めるように、ぽんぽんと肩を叩いた。
「ま、そのうち帰ってくるだろうからさ。トアは元気になっときなよ。おれが美味いもんいっぱいつくってあげるから」
「うん……ありがとう、アンル」
アンルの気遣いが心に染みる。
トアは木製のスプーンをしっかりと握りしめ、野菜スープをもりもりと食べ進めた。
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