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第20話 奪われていたもの※

 それからまた数日が過ぎたが、ヴァルフィリスは帰ってこなかった。  彼の身に何か起きてしまったのだろうか。それとも、トアが放った不躾な言葉のせいで、ここにもどってきたくなくなってしまったのか……。  ——『勝手に理想像を作り上げておいて、勝手に失望しているのはお前だろう。……身勝手なのはどっちだ?』  今思うと、まったくもってヴァルフィリスの言う通りだ。  これまでも、彼はそういった偏見の目に晒され続けていたのかもしれない。  ヴァルフィリスが災いを起こしていると信じ込んでいるイグルフの老人たちに『生贄』を送りつけられ、毎度毎度呆れ返っていたことだろう。  そもそも、村に降りかかる災いというものは、ほとんどが人災のようなもの。領主を始め、貴族たちは庶民から取り立てるばかりで、自分たちの享楽にばかりかまけている。  やがて庶民は庶民同士で争い始め、弱者は強者に奪われる。その中でも、もっとも立場が弱いのは孤児たちだ。奪われ、足蹴にされるばかりの子どもたちのひどい現状を目にしてきたからこそ、トアは怒りを募らせていた。  だが、本当に怒りを向けるべき相手は、『悪魔』ではなかった。  彼は真の『悪』から目を逸らせるために、都合よく利用されていただけに違いない。ヴァルフィリスが不在の間、夜中ずっとそんなことを考えていた。  ——また雪が降ってる……  暗い外を眺めながら、トアは窓を叩く湿った雪を数えていた。  するとその時、玄関ホールのほうから微かな物音が聞こえてくる。トアはハッとして、勢いよく部屋を飛び出した。  駆けつけた玄関ホールには誰もいなかったけれど、舞い込んだ冷気とともに吹き込んだ雪で、大理石の床はうっすらと濡れていた。トアはさっと二階のほうを振り仰ぎ、大急ぎで螺旋階段を駆け上がってゆく。 「ヴァル!! ヴァル!! 開けて、開けてよ!!」  ドンドン!! とドアを勢いよくノックするも、返事はない。 『返事がないなら回れ右をしろ』といわれたことは覚えているけれど、ここで黙って引き返すことなどできやしない。  意を決してドアノブを掴み、「入るよ!」と宣言しつつドアを押し開く。  部屋の中は真っ暗だ。もう眠ってしまったのだろうかと一瞬ためらったけれど、無礼を承知でマッチを擦り、ドア脇のチェストに置かれた真鍮の燭台に火を灯した。  小さな灯りが、ゆっくりと、暗闇の中に沈む輪郭を露わにしてゆく。  すると、部屋の中央に置かれたベッドの上で、もぞりと黒い影が蠢いているのが見えた。 「ヴァル……?」  ――あ、あれ……? なんだか様子がおかしいぞ……  はぁ、はぁ……と荒く苦しげな息遣いが聞こえてくる。どこか具合が悪いのだろうか。ようやく薄暗がりに目が慣れてきたこともあり、トアはゆっくりとベッドに近づいてみることにした。  すると、暗い闇の中で、深紅を帯びた二つの眼がぎらりと光った。  これから捕食する獲物を射殺すかの如く鋭い視線に、トアの身体がビクッと跳ねる。 「ヴァル……?」 「……お前、逃げなかったのか……?」  心底意外そうな口調で、ヴァルフィリスがトアを前にして目を見張っている。トアは大きく頷いた。 「逃げようとした……けど、逃げなかった」 「はぁ……馬鹿なやつだ。俺が恐ろしいなら、とっとと逃げればいいものを」  苦しげなため息とともにヴァルフィリスはそう言って、再びどさりとベッドに横たわった。  トアはごくりと固唾を飲み、ゆっくりとベッドに近づいてゆく。すると案の定、ぎろりと睨みつけられた。 「……あと、誰が入っていいと言った」 「ご、ごめん。でも、どうしても謝りたかったから」 「謝る……?」 「あ、あの……だ、大丈夫なの? なんだかすごく具合が悪そ……」  様子を見ようと一歩近づいた瞬間、荒々しく強い力で胸ぐらを掴まれ、そのままベッドに押し付けられた。  気づいた時にはヴァルフィリスに馬乗りになられていて、トアは思わず目を見開く。  はぁ、はぁ、と胸を大きく上下させるヴァルフィリスの双眸が、赤く光を帯びている。まるで、濁った血がぐるぐると瞳の奥で蠢いているような禍々しさを孕みながら。  だが、牙を剥いて目をギラつかせ、今にも襲いかかってきそうなヴァルフィリスの姿を目の当たりにしても、不思議なことにトアは恐怖を感じなかった。  トアを押さえつける手はぶるぶると震えていて、あまりにも苦しげだ。  苦しいのなら楽になってほしい。  自分の血でヴァルフィリスが楽になるのならば、そうしてほしいと素直に思った。  トアはそっと、ヴァルフィリスの頬に手を伸ばした。  びく! と弾かれたように一瞬身を引くヴァルフィリスから目を逸らすことなく、トアは静かな声で囁いた。 「ヴァル……。血が欲しいなら、いくらでもあげる」 「っ……は……?」 「このあいだは、本当にごめん。ヴァルは子どもたちを助けてたのに、殺しただなんて……ひどいことを言って」 「お前……どうしてそれを」 「アンルに聞いたんだ。……ここに、昔助けた人が尋ねてきたって話を」 「……」  灼眼がわずかに見開かれ、血に濡れたような赤い瞳が揺れる。  自分自身の直感を、もっと信じることができればよかったのにと、改めて後悔が込み上げてくる。『悪魔』として作り上げられたイメージや悪い噂に疑念を抱くばかりではなく、目の前にいる彼そのものを信じることができていれば、ああしてひどい言葉を投げつけることはなかったのだから。  トアは自らシャツのボタンを外してゆき、前を全てはだけてしまうと、顔を横に倒してヴァルフィリスの前に首筋を晒した。 「飲んでよ、僕の血。お詫びにもならないかもしれないけど、ヴァルになら、いいよ」  喰らいつかれた首筋から溢れる鮮血を、ヴァルフィリスに捧げたい。それで償いになるのなら本望だと思った。  だが、小さな舌打ちとともに顎を掴まれ、強引に上を向かされる。  ヴァルフィリスは喰らいつくように荒々しい口付けでトアの唇を覆い、強引に舌を捩じ込んできた。 「んっ、ぅ……ヴァルっ……!」  戯れのようでいて、トアをあやすかのようだったいつものキスとは、まるで異なる激しさだった。  貪るようにトアの口内を舌で掻き回し、戸惑い吐息を乱すトアの呼吸ごと全て飲み込んでしまおうとするかのような、貪欲な口付けだ。 「んっぐ……ン、っ……ぁ、んっ……」  四肢でベッドに縫い付けられ、身動きを封じられながら濃密なキスを受け止めるうち、頭が痺れてぼうっとしてくる。  いつもの巧みさを忘れてしまったかのようにトアを貪るヴァルフィリスの息遣いも、のしかかられる重みも、いつにも増して熱いその身体も、遠く意識の向こうに追いやられてしまっているかのような……。 「ん、ぁ……はぁっ……」  いつしかトアも、自らヴァルフィリスを求めるように舌を絡め、シャツを固く握りしめる。蕩けあった唇から淫らな水音が生まれ、ヴァルフィリスの吐息の音と重なり合い、トアの興奮を煽ってゆく。  だけど……いつまで経っても、ヴァルフィリスがトアに咬みつく様子はなく、覚悟していた痛みは襲ってはこない  ――……また、してもらえないのかな……  触れてもらえた喜びはいつのまにか泡のように消え、トアの全身を落胆が沈めてゆく。  今の自分は、ヴァルフィリスが真に求め、糧にしたいと思えるような人間ではないのかもしれない。……そう思うと悲しくて、熱しかけていた全身からすぅ……と体温が下がってゆく。  すると、ヴァルフィリスはつと唇を離し、顔をわずかに離してトアを見つめた。 「……あれ?」  まただ。また、吸血してもいないのに、ヴァルフィリスの瞳に理性的な輝きが戻っている。  澱んでいた瞳は深紅にきらめき、苦しげだった表情も幾分ましになっているような……。  ぱちぱちと目を瞬き、ヴァルフィリスの変化を観察していると、小さなため息が聞こえてきた。 「……すまない」 「えっ!? な、なにが?」 「がっかりしてるって顔だ。……気に障ることをしたようだ」 「は……? 違う!」  確かに落胆はしたけれど、それはヴァルフィリスが吸血してくれないことに対するものだ。身体を起こし、トアから離れて行こうとするヴァルフィリスのシャツを咄嗟に両手で握り締め、思い切り引き止める。  するとヴァルフィリスは「うわっ」と前につんのめり、ふたたびトアの上に覆い被さる格好になった。 「そうじゃない! 僕はただ、どうして血を吸ってもらえないんだろうって……! 悲しく……なっただけで」 「悲しい? どうして?」 「ど、どうしてって……」  心底『意味がわからない』といった顔をしているヴァルフィリスに、どう理由を説明したものか。うまく気持ちを言語化する自信がなくて、トアはただただヴァルフィリスを見つめることしかできないでいた。  すると、ヴァルフィリスは何かを察したように瞬きをして身を起こす。トアもおずおずと起き上がり、シャツの前を掻き合わせた。 「ひょっとしてお前、まだ気づいてないのか」 「えっ? な……なにに?」 「俺にさんざん奪われたものに、だ」 「奪われたもの? え……その……純潔とか、そういう系?」  そう言ってはみたものの……ヴァルフィリスからじとりと注がれる視線は冷たい。どうやらまったく見当違いな答えだったようだ。  いたたまれなくなったトアは「も、もったいぶらずに教えてよ!」と喚く。  するとヴァルフィリスはひとつ息を吐き、指先でトアの唇に軽く触れた。 「俺が奪っていたのは、お前の生気だよ」 「生気……? って、何?」 「簡単にいうと、お前の命」 「い、命!? それってつまり、僕の寿命、減ってるってこと!?」  血よりよっぽどすごいものを吸われていた――……!? と真っ青になっているトアを見てか、ヴァルフィリスはふっとニヒルに笑った。ゆるやかに首を振り、「違う」と言う。

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