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第23話 不穏な予感

 それからまた、ひと月ほどが過ぎた。  深く暗い森の中にある屋敷のまわりはいつも静寂に包まれているが、ここのところ、夕暮れ時になると北の庭から勇ましい掛け声が聞こえてくる。  井戸の周りで畑仕事の後片付けをしているトアとアンルの耳にまでくっきりと聞こえてくる声は、オリオドのものだ。  あの日、ヴァルフィリスと手合わせをしてからというもの、武闘派魂に火がついてしまったらしく、週に一二度という頻度でここを訪れるのである。 「うおおおお!! これでどうだ!?」とか「ぐはぁっ!」とか「このっ!! もっと本気で俺を殴れ!!」などの威勢の良い声が、森の中にわんわんとこだましている。  はじめはイグルフの因習についての調査だといっていたくせに、今は仕事そっちのけでヴァルフィリスに戦いを挑んでいる。といっても、ヴァルフィリスを倒すためという険しい雰囲気ではないため、こうしてトアものんびり野良仕事をしているというわけだ。 「もー、うるさいなぁ。ヴァルのやつ、いつまでも遊んでないでとっととぶっ倒せばいいのに」 「はは……そうだね」  と、ぶつぶつ文句を言っているのはアンルだ。高頻度でやってくるオリオドの存在が迷惑で仕方ないといった顔をしている。トアは苦笑して、鍬を肩にひょいと担いだ。 「ま、そのうちヴァルが追い払うだろ」 「そうだろうけど。あーうるさい」  アンルはオリオドが少し苦手なのだ。「み、耳と、しっぽ……!? なんてことだ、こんなに可愛らしい生き物がこの世に存在するのか……!?」と驚かれ、雑にわしゃわしゃと頭を撫で回されたのが気に食わなかったらしい。  そういうわけで、オリオドが来るといつも仏頂面になる。  毎度毎度ヴァルフィリスにボロ負けして屋敷から追い出されているというのに、オリオドはめげない。来るたびに目を輝かせ、「俺は今まで、あんな戦い方をするやつに出会ったことがない……!! 見たか? あの軽い身のこなし。あの素早さ、そしてあの脚力……!! ああ、血が騒いでどうしようもない!」と興奮しながら屋敷を訪ねてくるものだから、実はトアも引いている。  そして今日もオリオドの相手をしていたはずのヴァルフィリスが、ふらりとキッチンに現れた。  畑の片付けを終え、アンルとともに夕飯の支度をしていたところへ珍しく顔を出したヴァルフィリスに、トアとアンルは揃って目を丸くした。 「ヴァルがキッチンにくるなんて、めずらしいこともあるもんだなぁ」 「水をくれないか。……ああ疲れた、あいつはしつこすぎる」 「あいつ体力ありあまってるみたいだし、ついでに食っちゃえば? そしたらちょっとはおとなしくなるんじゃないのー?」 「いやだね、匂いからしてくどそうだ。そばにいるだけで胸焼けがする」  からかうようにそんなことを言うアンルを相手に、ヴァルフィリスはふんと鼻を鳴らして毒づいた。  どうやらアンルはもともと、ヴァルフィリスの食事方法について知っていたらしい。……知っているなら、早急に教えて欲しかったものである。  トアがよく冷えた水をグラスに満たして手渡してやると、ヴァルフィリスは「助かる」といって、一気に水を飲み干した。 「ずっとオリオドの相手してたの?」 「そうだよ。……あいつ、最近普通に腕を上げてきてて、なかなか勝負がつかないんだ」 「へぇーやるじゃん、オリオド。ヴァルの馬鹿力に耐えられるなんて」  と、何の気なしにオリオドを褒めると、ヴァルフィリスの眉がぴくりと動く。そして、「ふん、俺は気を遣って手加減してやってるんだ。だから余計疲れるんだよ」と言った。 「はいはい、お疲れさん」 「ったく……あいついつまでここに通ってくるつもりだ?」 「ヴァルに勝つまでかもね」  軽口をたたくトアを軽く睨むヴァルフィリスのこめかみには、珍しく汗が浮かんでいる。普段はきっちりと喉元まで留められたボタンは外してあり、息も少し乱れているようだ。  汗を拭う仕草をうっとり鑑賞していると、アンルがさらりとこんなことを言った。 「トア、顔がデロデロしてる」 「えっ!? で、デロデロ……?」 「仲良くなれたのはいいことだけど、堂々とおれの前でいちゃつかないでくれるー?」 「い、いちゃついてなんかないだろ!」  もうひと月もすれば、この土地にも春が訪れる。……が、アンルはいまだお嫁さんを見つけることができていないらしく、最近ちょっぴり苛立ち気味なのだ。  聞けば、ちょっと良い雰囲気だった雌の狼を、別の狼に掻っ攫われてしまったらしい。相手は成熟した雄の狼で、アンルは太刀打ちができなかったと……。 「おれもヴァルに鍛えてもらおうかなぁ……やっぱ強いほうがモテるよね」  スープ鍋をかき回しながら、アンルはため息混じりにそう言った。作業用のテーブルで焼き上がったばかりのパンを切り分けながら、トアは頷く。 「そりゃ、強いに越したことはないんじゃない? 家族ができたら守っていかなきゃだし」 「そうだよな! というわけで、ヴァル、おれにも修行……って、いない!!」  気づけばヴァルフィリスの姿が消えている。こういうときにもあの素早さは役に立つのかと感心するが、アンルは「あいつ逃げやがったなー!」とプリプリと怒り始めてしまった。  とそこへ、今度はオリオドが姿を現す。ヴァルフィリスに投げ飛ばされでもしたのか、腰をさすりながらヨロヨロとキッチンに顔を出し、くんくん、と鼻をひくつかせている。 「ああ……いい匂いだなぁ。おっ、君たちはこれから夕食か」 「そうだよ! ……ってか、勝手に屋敷の中うろうろすんなよ。帰れ!」  アンルは毛を逆立ててオリオドを邪険にしているが、可愛いのであまり凄みはない。それはオリオドも同じ感想らしく、にっこり爽やかな笑顔を浮かべて「まあ、そう嫌わないでくれよ」と言った。 「それに、ヴァルフィリスのやつが、今夜は大雪が降るから泊まっていけと言ってくれてな」 「あいつって? え? ヴァルがそう言ったの?」  びっくりしてトアがそう尋ねると、オリオドは「ああ、そうなんだ。いつもは庭の外に俺を蹴り飛ばして追い出すくせにな! わはは」と豪快に笑った。  確かに、今日は朝からずっと空が低い。  空気もじとりと重く湿っていて、春が近づいているとは思えないほどに底冷えする一日だった。  ふと窓のほうを見やると、暗闇でもわかるくらいに大きな粒の牡丹雪が降り始めている。たっぷりと湿気を抱え込んでいそうな雪だ。せっかく雪かきをしたのに、またあたり一面真っ白になるだろう。 「確かに今夜は外に出ないほうがいいかもしれない。馬も中に繋いどきなよ」 「ああ、そうさせてもらうよ」  やはり屋根のある場所で休めたほうが馬にとっても居心地がいいだろうということで、古い馬小屋を修繕したのだ。もちろん、主に作業したのはオリオドである。  今、馬小屋には二頭の馬が休んでいる。一頭はオリオドの愛馬・ラシャ。もう一頭は、オリオドがトアに乗馬を教えるために連れてきたおとなしい老馬・ライネルである。  ヴァルフィリスの屋敷とイグルフの村を隔てるこの森のことを、トアは深く巨大な森だと思っていた。  ここへ送り込まれたあの晩、ひどく長い間馬車に揺られていた気がしたのだ。村からここまでの正確な距離もかかった時間はわからなかったけれど、実のところ、馬を使って走れば二、三時間ほどで森を抜けられるらしい。  御者はトアから距離感を奪うために、森の中を蛇行しながらここまで馬車を走らせていたのだ。遠いところへ連れてこられてしまったと思わせることで、子どもたちから逃げる意志を奪うためだろう。 「それで、あんたの調査ってのはどうなってるの?」  ちゃっかり晩餐の席に交ざっているオリオドにパンを手渡し、トアも斜向かいの椅子に腰を下ろした。  ヴァルフィリスは吸血鬼とはいえ混血で、かつて人々に恐れられていたやつらとは違うのだということは、トアからすでにオリオドに伝えてあるのだが……。 「それとなくイグルフの町をうろついて、因習について話を聞いてはいるんだがな」 「町か……」  イグルフ一帯は八割が農村地域で、中心部分に小さな町がある。衣服や靴を売る職人が店を構えていて、通りでは食べ物が露店で売られていた。そのほかには食堂や酒場、そして娼館が一、二軒ずつあっただろうか。 「酒場の一つに若者がたむろしていたから、旅人を装って話を振ってみたんだよ。そしたらトア、君のことを知ってるっていう若者がいたぞ」 「えっ? 僕を?」  驚く僕の目の前に、アンルがスープ皿を三つ(一応オリオドのぶんも用意するらしい)置く。並べててきぱきと料理を盛り付け、「そりゃ、トアにも友達のひとりやふたり、いたんじゃないの?」と言った。 「いや……酒場に出入りするような人とは付き合いがなかったはずだけどなぁ」 「そうなのか? 相手はずいぶん君のことを心配しているように見えたが」 「ええっ? ちなみに……それは誰?」 「ジャミル、といったかな。若者の中心でふんぞり返っていて、ずいぶん偉そうに見えたぞ」 「……ジャミル」  覚えのある名前だ。  ジャミルは確か、教会の図書館に出入りしていた若者のうちの一人だったはず。  ある日、司教様の手伝いをしながら図書館で本を読んでいたトアを、『薄汚い孤児』『施しがほしいなら靴を舐めろ』などといって絡んできた少年たちがいた。  前世を思い出して多少おとなしくはなったが、それ以前のトアもはやられっぱなしが性に合わず、血の気の多いタイプの孤児だった。なので少年たちに向かって『親がいるってだけでえらそうにするな!』などと言い返したのだ。  あわや取っ組み合いの大喧嘩になりかけたところで、ジャミルが止めに入ってきた。  ウェーブした黒髪を肩の辺りまで伸ばし、上がり眉に垂れ目という甘い顔立ち。さすがのように生地の良さそうなものを込んでおり、身なりはよかった。  一見すると軽薄そうな雰囲気に見える男が現れてトアは警戒したが、ジャミルは顔見知りだったらしい少年たちをやんわりと宥め、年長者らしい態度でトアに謝罪をした。  大事にはならずに済んだため一応礼を言ったものの、ジャミルの刺すような視線が少し気になったのを覚えている。  その日以降、ジャミルはひとりでトアのところへ時々やってくるようになった。  自分も本を読むのが好きだからと言って、トアのそばで本を読んで過ごすのである。  図書館や孤児院で立ち働いているとき、ときおり妙に熱い視線を投げかけてくるものの、別に何か悪さをされたこともない。イグルフには珍しくまともな青年なのだろうと思っていたが……。  ――まさかあの人が、あの小説のラストに出てくる田舎貴族……!?  しばらく忘れていたけれど、ここはバッドエンド小説の世界なのだ。  そしてジャミルは、ヴァルフィリスを殺してトアを村へ連れ戻すという役を帯びた、あの田舎貴族の男に違いない。

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