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第31話 銀の短剣

 紅い瞳は、すでにジャミルへと向いている。  部屋の床中に散乱したガラス片を踏む音がじゃりりと響くと、ジャミルはギョッとしたような顔で身体を起こし、尻で後退るうち壁に背中をぶつけてしまう。  だが、目の前に立つヴァルフィリスをゆっくりと見上げ……ひきつった笑みを浮かべてこう言った。 「その目の色……!! へぇ、すごいな、本物の吸血鬼だ。伝承の通りだな」 「伝承? へぇ、なんて書いてあったんだ?」  震え声でヴァルフィリスに相対しているジャミルに向かって、ヴァルフィリスは艶やかな微笑みを浮かべて肩をすくめて見せている。いつもと同じように飄々とした口調だが、射抜くような視線はそのままだ。 「血のように赤い不気味な目。残虐かつ凶暴極まりない非情な悪魔。人間に食らいついて血を啜り、咬んだ人間を狂人にしてしまう。ああ……なんて薄気味悪いやつらだろう。お前はその生き残りなんだろう!?」 「そこは否定しない」 「へぇ……ははっ、本当にいたのか……! すごい、すごいぞ……!! お前を殺せば、僕は一躍英雄だな!!」  そう言うや、目を爛々とぎらつかせながら、ジャミルはゆらりと立ち上がった。  そして腰のベルトに帯びていた鞘から、ヴァルフィリスにしかと見せつけるように、ゆっくりと短剣を抜く。  月光を受けてきらめく刀身は白銀色。  混じり気のない、透き通るように美しい剣である。  いつか、オリオドに剣を向けられた時は微動だにしなかったヴァルフィリスの表情が、にわかに険しくなったことにトアは気づいた。  そして、ハッとする。  ――まさか、あれは銀製? 吸血鬼は銀の刃や弾丸で攻撃されると致命傷になるって聞いたことがある……!  前世での記憶の限りだが、吸血鬼は銀を嫌う。  銀には強力な浄化作用があると考えられている。邪悪な存在とされている吸血鬼が銀の刃で傷を受けてしまうと、その傷は治癒せず、そこから徐々に死に至ると――……  混血とはいえ、ヴァルフィリスにも純血の吸血鬼と同じく禁忌なものはある。  にんにくや十字架は平気でも、直射日光を浴びると肌が焼け爛れてしまうらしい。ひょっとすると、銀の刃による攻撃も、ヴァルフィリスにとっては致命的なのかもしれない。  それに、『血の粛清』の記録は図書館にも残っていた。吸血鬼を必殺するものが『伝承』として伝わっているとすれば、ジャミルはその知識を本からすでに得ているとみて間違いないだろう。  だが、オリオドのように訓練された兵士というわけでもなく、ジャミルはただの没落貴族。ブン、ブン! と短剣を振り回す勇ましい音はするものの、ヴァルフィリスは難なくそれを避けている。 「この野郎っ……、ふらふら避けるだけなのか! さすがの吸血鬼様も、銀の剣は怖いのか!?」    声高にそう叫びつつ剣を突き出したジャミルの腕が、ヴァルフィリスのすぐそばを掠めてゆく。するとヴァルフィリスは流れるような動きでジャミルの腕を捉え、そのまま背中のほうへと捻じ上げた。  武器を持ったほうの腕を封じられてしまったジャミルの手から短剣を叩き落とし、掴んだ腕をより強く締め上げる。  悲鳴をあげながら膝をついたジャミルが、血走った目でヴァルフィリスを睨め上げている。 「痛ッ……痛いだろうがっ!! くそ、離せ!! この薄汚い人外が!!」 「薄汚い人外、ね。お前のやろうとしていたことの方が、よほど薄汚いように思えるが?」 「ふん、どこが。あいつが僕に頼み事をしたいというから、その対価をもらおうとしただけだろ!? それのどこが悪い!」 「……」  ジャミルの恨めしげな視線が突き刺さり、トアはびくっと身を固くした。ついさっき襲われかけた恐怖と情けなさが蘇り、悔しさのあまり奥歯ぐっと噛み締める。 「何が対価だ!! 僕を言いなりにしたかっただけだって言ってたくせに……!」 「うるさい! お前のような孤児上がりの馬鹿なガキ、この僕に役立ててもらえるだけありがたいと思……」  次の瞬間、ズン!! と重い音が部屋を震わせた。  瞬きをしたほんの一瞬のうちに、ヴァルフィリスがジャミルの首を掴んで壁に叩きつけたのだ。 「ぐ、はぁッ……!!」  乱れた服のまま、ジャミルはヴァルフィリスに首を掴まれ、身体が浮き上がるほどの力で壁に押し付けられている。苦悶の表情でじたばた脚をばたつかせ、喉を締め上げる手から逃れようともがいている。 「もう黙れ。お前のような下劣な人間の言葉など、聞く価値もない。こいつは俺がもらっていく」 「あは、あははは……ッ!! なんだお前、こんな孤児上がりのガキひとりのために、わざわざ人里まで来たってのか!?」 「ああ、そうだよ」 「へぇ。ふくく……わかる、わかるよお前の気持ち……!! 可愛い顔してるもんなぁ、トアは!! 生意気なくせに馬鹿で、騙されやすくてさ!! こういうガキを言いくるめて好き放題犯すのって、最高だよな!!」  反吐が出るほどに悪辣とした言葉に、ヴァルフィリスの瞳の奥で残忍な光が燃え上がる。  すぅ……と表情を失ってゆくヴァルフィリスの相貌に残忍さが宿り、壁に押し付けられていたジャミルの身体がさらに高く持ち上がった。 「ぐっ……ぐっぅ……や、やめろクソっ……くるし……っ」 「人を殺めたくはない。……だが、お前のようなやつは生かしておく価値もなさそうだな」  ヴァルフィリスは冷え冷えとした美貌は凄絶な笑みを浮かべながら、牙をちらつかせて舌舐めずりをした。  一瞬、淡い陽炎のようなものが、ゆらりとその全身から放たれたように見えた。その途端、悪態を吐いていたジャミルの表情が恐怖に強張り、さっきよりも大仰に暴れ始める。 「ひ、ひぃ……っ! や、やめ……殺さないで……っ!」 「……ヴァル?」  ——ヴァルは、ジャミルを殺そうとしているのか……!?  見れば、ヴァルフィリスの指先には鉤爪さえも出現しはじめているではないか。  あのままジャミルの首を握りつぶしてしまうのが先か、あの鋭い鉤爪によって肉を切り裂いてしまうのが先か……どちらにせよ、このまま放っておいたら、ヴァルフィリスは本当に人を殺めてしてしまうことになる……!  ――いけない……!! それだけはダメだ!!  「ヴァルっ……!! やめて!! やめて!!」  トアは思わず駆け出して、背後からヴァルフィリスにしがみついた。  だが、抱きついたヴァルフィリスの身体はびくともしない。 「そいつがどんなクズでも、殺しちゃダメだ!!」 「……どうして止めるんだ。こいつは、お前を貶め、穢そうとしたんだぞ」 「僕が馬鹿だったのは本当だから!! そいつの言う通りだから!! やめてよ、そんな奴のために、ヴァルが罪を犯す必要なんてないんだよ……っ!!」  悲痛な思いのまま叫んだトアの声が響いたのか、ヴァルフィリスの身体からふと力が抜ける。  ほどなくして、どさ、とジャミルが床に崩れ落ちる音が聞こえてきた。トアはようやくはぁ……と長い息を吐く。 「ヴァル、ごめん。ごめん……! 僕がもっと、ちゃんと後先考えて行動していれば、こんなことにはならなかったのに……!!」 「……今更だな」  冷ややかな台詞だが、ヴァルフィリスの声音は穏やかだった。  腰に抱きついたまま恐る恐る顔を上げると、ヴァルフィリスもまた、トアを横顔で振り返る。その瞳に、いつもと変わらぬ静かな真紅が戻りつつあるのがわかった。  安堵してトアが微笑みかけたそのとき、微かな衝撃とともに、ヴァルフィリスの身体がゆるやかに傾いだ。 「っ……く……」 「ヴァル……? え、ど、どうしたの……?」  がく、とその場に膝をついたヴァルフィリスの向こうに、血まみれの短剣を手に、はぁはぁと息を荒げているジャミルの姿が見えた。 「あは……あはははははっ……!! はは、やってやった。殺してやったぞ!! あははははっ!!」  トアは息を呑み、崩れ落ちそうになるヴァルフィリスを咄嗟に支えた。

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