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第30話 どうして

「な、なんだお前、どうやって入っ……!?」  突如二階の窓を突き破って現れたヴァルフィリスを前にして狼狽えていたジャミルが、トアの身体の上からふっと消えた。  次の瞬間には、壁に叩きつけられ、その場にずるずると崩れ落ちてゆくジャミルの姿がトアの視界に飛び込んでくる。  ヴァルフィリスがジャミルを殴り飛ばしたのだ。……あっという間の出来事で、呆然としてしまう。  だが、じゃり、と靴底がガラスを踏み砕く音が響き、トアはハッと我に返った。  押さえつけられていた重みとおぞましいほどの恐怖が消え、手首を縛られたままトアはベッドの上で身体を起こした。  薄暗い部屋の中、視線でとどめを刺すかのような鋭い表情でジャミルを睥睨していたヴァルフィリスの視線が、流れるようにこちらを向く。  無言で歩み寄ってきたヴァルフィリスに手首の戒めを解かれると、トアは思わず黒いマントを握りしめた。 「ヴァル……なんで!? どうしてここにいるんだよ!?」 「胸騒ぎがして屋敷に戻ってみたら、アンルからお前の姿が見えないと聞いて。……まさかとは思ったが、こんな、馬鹿なことを」 「っ……」  ヴァルフィリスの瞳の奥には、燃え盛るような激情が揺らめいている。自分が起こした行動が浅はかだったという自覚があるからこそ、トアの目にはそれが激しい怒りによるものに見えた。  だが、あそこで何も行動を起こさなかったら、いずれあの屋敷は襲われていたんだ! ここは、あの小説の中の世界なんだから——……!! と、叫んでしまいたかったけれど、トアは何とかその台詞を喉の奥へ引っ張り戻す。 「ごめん……でも! こうでもしないと、ヴァルはずっと悪いやつだって誤解されたままなんだよ!? ヴァルは何も悪いことなんてしてないのに……!!」 「無駄だ。おおかた、『悪魔』の毒にあてられて、気が触れたと思われるに決まってる。実際そうだったんだろう?」 「っ……でも、やってみないとわからないじゃないか!」 「わかってないのはお前のほうだ!!」  必死さを含んだ強い口調に気押されて、トアはビクッと震え上がった。  そのまま引き寄せられ、強く強く掻き抱かれ、トアはヴァルフィリスの腕の中で目を見張った。 「馬鹿なことをするな!! 俺はお前を、危険な目に遭わせたくないんだよ!」 「危険かもしれないけど……!! でも、きっと大丈夫だよ。きちんと話をすれば、少しずつ理解を得られるかもしれないし……!」  ぴく、とヴァルフィリスの肩が揺れた。  ヴァルフィリスは間近でじっとトアをまっすぐに見据えながら、硬い口調でこう言った。 「そんなに簡単に済むことだと思ってるのか? お前の言葉ひとつで俺を……『吸血鬼』を忌み嫌う人間たちの理解を得ることができるとでも?」 「それは……」 「村の老人たちは、俺が『血の粛清』をまぬがれて生き延びた吸血鬼だと薄々わかっていたんだろう。だから、村に危害を及ぼさないように、お前のような子どもを俺に投げ寄越すんだ」 「でも! ヴァルは混血で、あいつらとは違う! 吸血なんかしないし、すごく優しいじゃないか!」  トアのその言葉に、ヴァルフィリスの顔が苦しげに歪む。それは怒っているようにも見え、胸を締めつけられるほどに悲しげな表情にも見え……トアは思わず、ヴァルフィリスのシャツをきつく握りしめた。 「……純血の吸血鬼どもが犯した殺戮の数々を、俺はよく知ってる。過去のこととはいえ、人間たちは俺を許しはしないだろう」 「過去……そうだよ! もう過去だ! それに、ヴァルはその毒に苦しむ人を救ってるじゃないか!」 「この程度で贖い切れることじゃないんだ。……それに俺も、純血種の奴らが憎い。父と母を殺したあいつらのことを、心底軽蔑している」 「っ……」 「人間が俺たちのことを許し、理解しようとするとは思えない。それに俺は、許されたいとも思わないんだよ」  その言葉とともに痛いほどの力で肩を掴んでいた手からするりと力が抜け、ふたたび、ぎゅっと両手を握りしめられる。  まるで、トアに縋るように。刃を素手で受け止めてしまえるほどの力を持っているとは思えないほど、優しい力で。 「俺のために、お前が危険な目に遭う必要なんてないんだ」 「ヴァル……」  出会ったばかりの頃は表情を窺い知ることのできなかった深紅の瞳に、今は焦燥や必死さのようなものをはっきりと感じ取ることができる。  だが、救われたことに安堵する以上に、トアの胸には焦りが渦巻いていた。  ヴァルフィリスを殺そうと息巻いている若者たちが階下にいるという状況。そんな敵の本陣に、当の本人がたった一人で斬り込んできたようなものだからだ。  いますぐここから逃げるにしても、ジャミルにはヴァルフィリスの姿を見られてしまった。気絶している間に逃げることができたとしても、状況は同じ……いや、むしろ悪くなっている。 「もう……どうして助けに来ちゃうかな……」  黒衣に顔を埋めながら、トアは呻くようにそう言った。 「僕がいなくたって、ヴァルは別に”食事”に困るわけじゃないじゃないか。僕はここに帰ってこられないかもしれないけど、説得がうまく行けばヴァルはまた静かな暮らしを取り戻せるんだよ? なのに、なんでわざわざ、僕なんかを助けに来ちゃうんだよ……っ!!」  喉から搾り出すようにそう訴える。すると、ふわりと背中にヴァルフィリスのマントが羽織らされた。  涙を堪えて見上げた先にあるのは、ヴァルフィリスのニヒルな笑みがあった。 「お前を犠牲にして、俺だけが静かに暮らす? ……ふん、そんな滑稽なことがあってたまるか」 「え……?」 「トアが現れるまで、俺の暮らしは平穏そのものだった。……だけど、お前は俺の前に突然現れて、逃げるどころかわざわざ自分から俺に関わってくるし」 「ヴァル……?」  ヴァルフィリスは呆れた口調でそんなことを言うと、ため息をつきながら肩をすくめた。 「お前は俺を殺すつもりだったんだろう? なのに、勝手に俺を信じてみたり疑ってみたり、何を奪われているかわかっておきながら、あいもかわらずあそこに居座って、一方的な俺の行為を受け入れて……本当に、やることなすこと意味がわからない。お前のような訳のわからない人間は、初めて見たよ」 「な、何が言いたいんだよっ!」  改めて指摘されてしまうと、ぐうの音も出ない。    口をへの字にしているトアを見てか、ヴァルフィリスは眉根を上げて、優しく微笑んだ。 「……俺は、感情を言葉にすることに慣れてない。ずっと一人だったから、そんなことをする必要もなかったからな」 「う、うん……」 「だからうまくは言えないが……お前と出会ってから、ここが騒いでどうしようもないんだよ」  ヴァルフィリスは自らの胸に手を押し当て、そう言った。その仕草に、どきりと心臓が跳ね上がる。  トアを見つめるヴァルフィリスは無言だが、唇はなにやら物言いたげだ。まるで、心の中に彷徨う感情にあてはまる言葉を探しているかのように。  トクトクと高まる鼓動に身を委ねながら次の言葉を待ち侘びる。すると、ヴァルフィリスは噛み締めるようにこう言った。 「……俺は、お前を手放したくないと思ってる」 「へ……っ?」 「お前を糧としているのは事実だが、それだけじゃない。俺は……」  長い指が頬に触れ、どきりと心臓が跳ね上がる。  トアを見つめるヴァルフィリスは無言だが、唇はなにやら物言いたげだ。まるで、心の中に彷徨う感情にあてはまる言葉を探しているかのように。  トクトクと高まる鼓動に身を委ねながら次の言葉を待ち侘びる。すると、ヴァルフィリスは噛み締めるようにこう言った。 「お前が可愛くて、たまらないんだ」 「か、かわ……?」 「だいたいこの俺が、ただの”栄養源”と思ってる相手に、あんなにしつこくベタベタするわけないだろ」  いつも通りの斜に構えたような口調だが、ヴァルフィリスの表情は柔らかく、それでいてどこかせつなげだった。  熱い眼差しとともに告げられた言葉が、トアの心にゆっくりと染み込んでいく。  嘘のように優しい台詞が、まぎれもなく自分に向けられたものだと理解できるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。  呆然としているトアの頭を撫でるヴァルフィリスの顔も、じわじわと気恥ずかしげなものになっていく。 「そ……そうだったの?」 「……ああ、そうだよ」 「う、うわ……ほんとに?」  つい何度も確認してしまうトアのしつこさに耐えかねたのか、ヴァルフィリスは白い頬を薔薇色に染め、無言でこくりと頷いた。  呆然とヴァルフィリスを見上げていたトアの両目から、また新しい涙がぼろぼろと溢れ出す。  涙とともに、押さえ込んでいた気持ちまでもが溢れ出す。トアは小さく嗚咽を漏らしながら、ヴァルフィリスに心のうちを明かした。 「……ヴァルが好きだ」  ずっと秘めていた感情が、とうとう言葉となって放たれる。  背中を包み込むマントをぎゅっと握りしめながら、とめどなくこみ上げる気持ちを、トアはとつとつと言葉に乗せてヴァルフィリスに伝えた。 「ヴァルの”食事”のたび、いつも苦しかった。ヴァルにとってはただの”食事”だとしても、僕は違う。本当の意味でヴァルに求めてもらえたらどんなにいいだろうって思ってた」 「……トア」 「そりゃ、最初は怖かったよ。殺せと言われていた相手だし、僕自身、ヴァルのことを信じきれなかったところもあった。でも……でも、ヴァルは優しい人だ。僕がこれまでに出会ってきたどんな人よりも、優しい人だった」  ぽろぽろと頬を転がり落ちてゆく涙をヴァルフィリスにぐいと拭われたかと思うと、そのまま強く抱きしめられる。  抱き留められ、慣れた体温と匂いに包み込まれながら、トアはヴァルフィリスの背中に両手を回してしがみつく。制御不能となった感情は涙と嗚咽に姿を変え、幼子のようにトアを泣きじゃくらせた。 「一緒にいたいよ……ずっと。僕は、ヴァルと一緒にいたい……っ」 「……つくづくわけのわからないやつだ。どうして、よりにもよって俺なんかを」 「うるさいな……っ! 誰を好きになろうが、僕の勝手だろ……!」 「まったく」  ため息混じりの小さな笑みが、ヴァルフィリスにしがみついたトアの耳元をかすめてゆく。  泣き濡れた顔を上げてみると、目の前にほころんでいるのは、ヴァルフィリスの幸せそうな微笑みで——……  だがそのとき、床に倒れ伏していたジャミルが呻く声が聞こえてきた。  弾かれたように声のしたほうへ目をやると、床に這いつくばったジャミルが身じろぎをし、ゆっくりと身体を起こそうとしている。ゾッとしたトアは無意識に、ヴァルフィリスの腕を握りしめていた。 「……話の続きは後だ」 「ヴァル……!」  袖を掴んでいた手をそっと外されたかと思うと、ヴァルフィリスがトアのそばから離れてゆく。追い縋ろうと伸ばした手は、ヴァルフィリスに届くことなく空を掴んだ。

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