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28 招かれざる客

「幸人、俺に合わせて本当によかった?」  午後四時、輝彦は彼の自宅の最寄り駅のホームで、申し訳なさそうにそう言う。幸人はまた電車に乗るため乗車位置にいるけれど、輝彦の糸は別れがたいのか、幸人の手首に巻きついたままだ。 「いいよ。俺も久しぶりで疲れたし」  本当はもっと遊びたかったんじゃあ、と言う輝彦に、幸人は微笑みかける。だんだん爽やか青年というイメージから遠くなっていく輝彦に、幸人は好感が持てた。外面(そとづら)の笑顔より、こっちの方が人懐こく見えるからだ。 「じゃあ……さ、ウチでちょっと休憩していかない?」  遠慮がちに発せられた声。幸人は遊園地で散々「食べちゃいたい」と言われていたため、ただの休憩じゃないんじゃ、と思って身体が硬直した。それを察した輝彦は、声を上げて顔を真っ赤にしながら両手を振る。 「あ、いやっ。違うから! ただ一緒にいたいだけで……!」  そう言われても説得力はゼロだ。それは輝彦も分かったらしい。戸惑う幸人を見て、しゅん、とうなだれてしまう。  幸人はなんだかそれがおかしくて笑った。すると幸人を手離したくない彼の糸は、幸人の手首から先っぽを、にゅ、と出して尻尾のように揺れる。どうやらとても喜んでいるらしい。笑顔を見せるだけでこんなに喜んでくれるなら、ずっと笑顔でいよう、と幸人は思う。 「別れたくないんだな? じゃあ、もう少しだけ輝彦と一緒にいる」  そう言うと、輝彦の表情がぱあっと明るくなるのと同時に、彼の糸は幸人の顔を撫でまくり、耳をくすぐった。触覚がなくてよかったと、この時ほど思ったことはない。もし感覚があったなら、幸人はくすぐったくて耐えられずに笑ってしまうだろうから。 「じゃあ、ウチに行こう」  輝彦の言葉に頷き、幸人たちは改札を出る。気温はまだまだ寒く、三月なのに全然暖かくならないな、とぼやきながら彼の家に到着した。  しかし、輝彦は玄関ドアの前で止まる。どうしたのだろう、と幸人は彼の顔を覗くと、輝彦の顔が強ばっている。そしてこちらを見て眉を下げ、笑った。 「ごめん幸人、また今度に……」  そう言いかけた輝彦の横で、玄関ドアが内側から開く。遅れて香水の臭いがして、幸人は息を詰めた。 「どこ行ってたの? 何度も連絡してるのに無視しないでよ」  女性の声がする。ドアで女性の姿は見えないけれど、輝彦はあからさまに不機嫌な顔をしていた。彼のこんな顔を見るのは初めてで、そんな表情をさせるこの女性は一体誰なのだろう、と思う。 「……勝手に家に入るなって言ったはずだけど?」 「一人暮らしをちゃんとしてるか、見に来てもいいじゃん。テルくんが悪い女に捕まってないかとか、いろいろ心配なの」  女性はかなり輝彦と親しいようだ。そう言いながら、女性は輝彦の腕を引っ張ったらしい。振りほどいた輝彦は、「連れがいるから送ってくる」と玄関から離れようとした。 「連れ? 女の子じゃなくて?」 「……っ、ちょっと!」  輝彦の制止も聞かず、女性はドアを更に開け、幸人を覗くように見る。綺麗なマロンブラウンの髪を揺らして、ドアから覗いた目は大きく、しっかりとメイクがされていた。そのためかキツイ印象を幸人に与えたが、肌は白く滑らかで、それだけでもとても美人なことは分かる。 「テルくん、お友達は付き合う相手を選びなさいって、いつも言ってるでしょ?」  その女性は声色を変えるでもなく、世間話をするようなトーンで言った。 知らない女性の意見だが、やっぱり周りから見ても自分たちは釣り合わないんだ、と幸人はこっそり視線を落とす。話の邪魔になりそうなので、幸人は帰ることにした。 「輝彦、いいよ。俺帰るから……」  顔を上げて何とか笑ってそう言うと、輝彦は慌てたように「待って」と幸人の手首を掴む。糸も同じように手首に巻き付き、本気で離さないと思っているようだ。 「大体なに? 髪も勝手に染めて。事務所には説明してるの?」 「俺辞めるって言ったよな? この間ので最後だって」  女性の言葉に輝彦がそう言うと、彼女はため息をついた。一体このひとは、輝彦とどういう関係なのだろう、と思っていると女性が再びドアの陰から出てくる。 「テルくんはね、これからモデルで活躍する予定なの。あなたみたいなひとと一緒にいると、色々と悪影響が出るから付き合わないでくれない?」 「母さん!」  輝彦が叫ぶ。女性の言葉に幸人は驚いたけれど、輝彦と彼女との関係にも驚いた。とても大学生の子供がいるとは思えないほど、若くて綺麗なひとだからだ。 「帰れよ。俺はもうモデルはやらないし、幸人を悪く言うならなおさら。親父にここまで迎えに来てもらうから」  そう言って輝彦はスマホを取り出す。輝彦の本気を感じたのか、輝彦の母は語気を強めた。 「ちょっとテルくん! せっかくかっこよく育ったのに、それを活かさないなんて勿体ない!」 「……あ、親父? いま母さんがウチに来てて……」 「分かった! 分かったから電話を切って!」  そう言った彼女は慌てたように一度家に入り、鞄を持って輝彦の家を飛び出した。すれ違う一瞬、ものすごい目で睨まれた幸人は、やはり平々凡々な自分と輝彦が付き合うことは、許されないことなんだな、と肩を落とす。  しばらく輝彦は母親の背中を見送っていた。幸人もその後ろ姿を見ると、彼女の小指からは結ばれた糸と──不倫をしている証拠の、もう一本の糸が出ていた。幸人は思わず視線を逸らす。  輝彦はもう母親が戻って来ないと確信したのか、掴んだままだった幸人の手を引いて家に入った。そしてそのまま、玄関ドアを閉めるなり抱きしめてくる。 「ごめん」  温かい輝彦の体温に安心して、幸人は小さく首を振った。輝彦は直ぐに離れると、上がって、とスタスタと奥へ行ってしまう。けれど彼の糸は幸人の腕に巻き付いたままだ。どうやら彼は駅での会話を守って、話だけをするつもりでいるらしい、と幸人はホッとした。

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