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42 ◆敦司視点◆後編

 退勤時間ピッタリに、俺は会社を出た。  あの男を待ち伏せするならマンション前しかない。  先週遭遇した時間を考えれば、今から行けば待ちぼうけを食うことはあっても取り逃すことはないだろう。  早足で地下鉄に乗り込んだ。二駅が長い。降りてからは小走りになった。俺もたいがい過保護だよな……。  男のマンション前で待機する。  今日はまっすぐ帰って来いよ。絶対にっ。  ……美香、間に合うかな。  先週の遭遇時間に迫ってきた。まだ過ぎたわけでもないのに俺は焦る。天音、バーには何時に行くんだろ。聞いとけばよかったっ。  早く来いよ早くっ。イライラしだしたその時、角を曲がってこちらにやってくるあの男が見えた。  よしっ!  思わずガッツポーズをしたが、美香がまだ来ない。  美香頼むってっ。  男は俺の存在に気づいて一瞬足を止め、すぐにまた歩き出す。  黙って通り過ぎるかと思えば、俺の目の前で男が立ち止まった。あまりに予想外でさすがに驚いた。 「……天音、元気?」  感情が読み取れない。どういう気持ちでそれ聞いてんだ?  男は俺を天音のセフレだと思ってるはず。それでも気になって声をかけずにはいられなかった、そういうことか?   「気になる?」  意味深に聞き返してやると、失敗した、というように苦虫を噛み潰したような顔をした。 「……なんか用?」  マンションの前であきらかに待ち伏せしていた俺に、男が聞いた。  ないなら帰るぞ、そういう空気をただよわせる。  そこに、タイミングよく美香が男の背後で手を振ってやってきた。 「敦司っ。外で待っててくれたの?」 「美香」  俺も笑顔で美香に答えて手を振った。  美香はチラッと男を見て「どうも」と会釈をするだけで俺を見る。 「知り合い?」 「うん、まあね」  美香がイケメンを前にどう反応するかと若干心配したが、予想通りだった。やっぱ俺を選ぶくらいだから美香は面食いじゃねぇんだな、と納得しながら苦笑する。  男は美香を、怪訝そうに眉を寄せて見ていた。  よしよし。 「あ、この子、俺の彼女」 「……は?」  男は、地の底からわき上がるような低い声を発して俺を睨む。  美香がいれば話が早いと思ったんだ。大正解だ。  たとえ俺たちの関係がセフレだと思っていても、俺に彼女がいると知ればこういう反応になると思ってた。  天音の本命が俺だと思って切ったなら余計にな。   「あ、えっと、はじめまして」    美香があいさつをするも、男は殺気立った顔で俺ににじり寄ってくる。   「お前、どういうつもりで天音を――――」 「あっ、待って、ストップ! 美香は天音のこと何も知らないから、ストップ」    どう考えても説明の足りない俺の言葉。それでも『知らない』という言葉から、俺が指しているのがセフレではなくゲイのことだと理解したのか、男はすぐに口をつぐむ。   「え? 私、天音くんは知ってるよ?」    なに言ってるの? という顔できょとんと俺を見る美香に、俺は笑いかけた。   「ああうん、そうだったよな? 美香、先に家行って待っててくれるか?」 「……うん、わかった」    俺から鍵を受け取って、美香は男にもう一度ペコッと頭を下げるとアパートに入って行く。  聞こえると困るからしばらく待って、俺は口を開いた。 「あのさ。天音が自暴自棄になってんだわ。あんた止めてやってくんねぇか」 「……なに……自暴自棄?」  俺に食ってかかろうとしていた男は、天音が自暴自棄だと聞いた瞬間、殺気が消えて眉が寄った。  思った通りだ。この男は天音を本当に大切に思ってる。  自分の気持ちに気づいてないだけじゃねぇのかな。  どこまで本当のことを話そうかと悩んでいたけれど、これは丸々話しても大丈夫じゃね?  いや、危険……かな。  でも、大丈夫な気がするんだよな。 「今日、バーに行ってくんねぇか? 天音を止めてくれよ」 「何を、止めるんだ?」 「あんたには関係ねぇ話だとは思うけどさ。本当のビッチになればあんたのそばに戻れるかもって、マジでビッチになろうとしてんだ。バーでとっかえひっかえするつもりらしい」 「……なんの、話だよ。本当のビッチって」  男の瞬きが多くなった。 「俺のそばに戻れるって……なに」  脳みそグルグルしてんだろうな。そんな顔をしてる。  でも、不快という顔じゃない。  一か八か……賭けてみるか。  天音……勝手にすまんっ。 「あんたを本気で好きな天音のことなんてもうどうでもいいかもしんねぇけどさ。あんたのせいで天音が(けが)れるのは我慢できねぇんだわ。俺が言っても聞かねぇし。頼むから、天音を止めてくれ」  男が瞬きも忘れたように俺を凝視した。 「……今、なんて言った? 俺を……」 「あんたを本気で好きな天音のことなんてどうでも――――」 「違う。天音は俺のことは好きじゃない。目を見ればわかる。いつも俺に興味もなさそうな目をして……。っつうか天音が好きなのは――――」 「天音は演劇部だったんだ」  男の長そうな熱弁を俺はさえぎった。  男は、それががどうしたという顔で俺を睨む。 『いつも俺に興味もなさそうな目をして』って、すごい悲愴感が漂っていた。ほらな、やっぱりだ。  あんた、絶対天音のこと好きだろ。早く気づけよ。 「それも演技力抜群。あんたが好きだってバレないように必死でビッチの演技してた」  この話を聞いても、とても信じられないという顔をしてる。 「けど、最中の時だけは、どうしても演技ができないって言ってたけどな」  男が驚きの表情で目を大きく見開いた。 「演技……。ベッドの中は……本当の天音……?」  男の目から殺気が完全に消えた。  どこかうろたえている感じだ。 「そうだよ。先週あんたが見た、俺と一緒の天音が本当の天音。あんたの知ってる天音は、ビッチを演じてる天音だ」 「俺の前では……演技してた……?」 「そう」 「なんで……」 「あんた、自分に本気の奴は相手にしないんだろ? だから天音は必死で演技してたんだよ。絶対にバレないように」  まだ信じられないという表情で、男は片手で顔を覆い、はぁ、と深く息をつく。 「先週見た天音が本当の天音って……。演技ってまさか……最初から?」 「そうだよ」 「もしかして、口調も?」 「それは知らねぇけど、そうかもな。天音がどんなビッチ天音をやってたのか俺は知らねぇ」 「……てかさっきからビッチってなに?」  顔を覆っていた手を下ろして男が問いかける。 「なにってだから……」 「天音は、ビッチを演じてた?」 「だから、そうだって」 「……天音がビッチって」  ふはっと男が吹き出した。 「もー……ほんと可愛い」  もしかしてビッチだと思ってなかった? 「なんだ。初めてだって気づいてた?」 「初めて?」 「天音がほんとは初めてだって」  男の瞬きがまた増えた。  初めてだとは気づいてなかったんだ。  言っちゃったけど……ま、大丈夫だよな。  っつうか、早く好きだって自覚しろ。 「あんたが初めてだったんだよ。てか、天音はあんたにしか抱かれてねぇよ」 「は……いや、それは……ないだろ……」 「先週のあれ、大変だったぞ。シャワー貸せ、ローションあるかって。風呂場で『どれくらい広げればいいのかわかんない!!』って叫び出すしさ」  男の目がふたたび見開いて、うなだれるようにうつむく。 「それ……マジなの?」 「マジだよ」 「…………嘘だろ……」  と、また手で顔を覆った。 「まぁ、あんたにとってはセフレの一人かもしんねぇけどさ。でも、天音は――――」 「俺だって天音だけだ」 「え?」 「もうずっと……天音だけだよ」  顔は見えないのに、声だけで天音への想いが伝わってくる気がした。  この男に会う前は、ちゃんと誤解をとけば、天音を助けに行ってくれるだろうと思ってた。  天音が幸せなら、また関係が戻ってもいいだろうとも思ってた。  会ってからは、早く好きだって気づけよ、早く自覚しろ、と思ってたのに。  なんだよ、もうとっくに両想いなんじゃん。  え、まさか俺、恋のキューピットやっちゃった?  そこで俺は、ハッとして腕時計を見た。天音、もうバーに行ってるかな。 「それなら早く天音を止めに行ってくれ」  男が顔を上げて俺を見返す。  ガラッと表情を変え、少し深刻そうな顔を見せた。 「天音、バーに行くって?」 「うん。たぶん今日から毎日。ほっとけばビッチまっしぐら」 「わかった。必ず止める」 「……ああ、頼む。あー……マジよかった」  心底安堵した俺は、全身の力が抜けて膝に手を付いた。 「教えてくれて、ありがとな」  俺の肩をポンと叩いて、男は大通りに身を向けた。走り出そうとして、すぐにまた俺を振り返る。   「あー……のさ。天音のキスマークってもしかして……」 「ああ、あれは俺じゃねぇよ?」 「……じゃあ誰?」 「それは天音に聞いて」  吹き出しそうになりながら俺は答える。  天音、聞かれたらなんて言うんだろ。面白そうだからあとで聞き出そう。  

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