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ぶどう狩り◆モブ視点◆ 終
梨を食べたあと、天音くんが「もう食べれない……」とギブアップした。
主任と天音くんは、お持ち帰り用の箱に食べられなかったリンゴとプルーンを多めに、そして梨とぶどうも詰めていく。
家族連れは、二kgギリギリまで持ち帰ろうと必死で、計りのコーナーには大行列ができている。
一人暮らしの私たちは、少しだけ詰めてすぐに出口へと向かった。
集合時間までお土産コーナーを物色するため、先輩とは別行動を取った。
「あのっ」
瓶詰めの果汁ジュースを眺めていたら、今日一日ですっかり覚えた、あの可愛い可愛い声が聞こえてきた。
声のほうを見ると、天音くんがすぐ横でニコニコと嬉しそうに私を見ていて心臓が跳ね上がる。
推しが私を見てる! 真横で! 笑顔で! ……はぅっ!
「あの、さっきはありがとうございました!」
ペコっと頭を下げるその仕草も、やっぱり天使のように可愛い。
「あ、いえいえ……そんな……っ」
「それであの、お名前を聞き忘れてしまって。あ、俺の名前は――――」
「し、知ってます。天音くん、ですよね?」
「え、あ、知ってたんですね……! もしかして……冬磨が会社で『天音が~』って話してるんですか……?」
「……そ、そう、ですね」
盗み聞きですが……っ!
「うわ……そうなんだ……っ。そっかぁ……」
ぽぽっと頬を赤く染める天音くん……可愛いですっ!
「それであの、お名前教えていただけますか?」
「い、いやいや、私の名前なんてそんな……っ、モブAとでも呼んでいただければ……っ」
自虐的にそう言うと、天音くんがパッと可愛く微笑んだ。
「もぶえさん! えっと、名字ですか? 下の名前……かな?」
モブAが、まさかの『もぶえ』という名前になってしまった……っ。
「え……っ、と、な、名前……?」
「そうなんですねっ。もぶえさんかぁ」
モブAを名前と勘違する天音くん……本当に可愛すぎです……!
「もぶえさん……って漢字はどう書くんですか?」
「えっ、と……ひら、がな……?」
「ひらがなかぁ!」
はぅ……可愛い……っ!
主任が羨ましくなってきた。もう天音くんを小さくしてマスコットにして持ち歩きたい……っ!
なんてバカなことまで考え始めてる私……ヤバすぎる……。
「あ、あの、天音くん……」
「はい?」
「私たち、同い年なので、敬語じゃなくていいですよ」
「え、本当? 同い年なんだっ。ていうか冬磨、そんな事も話してるんだ」
いえ、それも盗み聞きです……!
……ってこれダメだ。ダメなやつだ!
主任が女と仲良く話してるなんて思われたらダメだよね?
これはちゃんと訂正しないとだ……!
「あの、えっとその……私に、ではなくてですね……」
「え?」
「佐竹さんと話してるのが……聞こえてきて……ですね」
「あ、そっか、佐竹さんと話してるんだぁ。そっかそっかぁ、納得っ」
「ごめんなさい……」
「え、どうして謝るの? もぶえさんは何も悪くないのに」
「でも、盗み聞き……だし」
「聞こえてくるんでしょ? それ、盗み聞きじゃないよ。だから気にしなくて大丈夫」
ふわっと優しく天音くんが微笑んでくれる。
「あ……ありがとう」
「ううん」
ホッとして天音くんと笑い合ったとき、「天音」と主任の声がして、天音くんの笑顔が弾けた。
「冬磨」
「そろそろ集合だ。行くぞ」
「あのねっ、もぶえさんが砂糖漬けを教えてくれたんだよっ」
「……もぶえさん?」
主任が首をかしげて私を見る。
お前、そんな名前じゃねぇだろ、と目が訴えてくる。
ダメだ……主任なら「もぶえ」が「モブA」だと気づきそう……!
そんなの恥ずかしすぎる……!
「お、小田切主任、あの、みんなもう集まってますよ、行きましょう!」
「ああ、ほんとだ。行くぞ天音」
「あ、うん」
主任に背中を押されて歩き出した天音くんがこちらを振り返り、すぐ後ろを歩く私を見て、またニコっと微笑んだ。
はぅ……天使の笑顔……っ!
集合場所で点呼が終わり、帰りのバスも行きと同じ席に座るように指示が出ると、女性陣からのブーイングがひどかった。
幹事の人も予想通りという感じで完全無視。
その結果、案の定というか、先輩と私がギロリと睨まれる。
でも気にしない。推しと一緒のバスに乗れるんだ。いくらでも睨まれていい!
すぐ近くにいる天音くんが、クルンと私のほうを見た。
「もぶえさん、また一緒のバスだねっ」
「……っ、え」
知ってたの?
私、行きのバスから天音くんに認識されてたんだ……!
「行くぞ天音」
「あ、もぶえさん! 先に行ってるね~」
「あ……うん……」
さすがに後ろを振り返るのが怖い。
女性陣が皆、私を睨んでる。背中に刺さる視線が痛い。
でも皆さん、気づいてくださいっ!
もはや名前でもなんでもないですよっ!
モブAですよ……っ!
「ちょっと、何、もぶえさんって」
隣に立つ先輩が、笑いをこらえながら聞いてくる。
先輩が笑っててホッとした。先輩の推しが天音くんじゃなく主任でよかった。
「えっと……それより後ろが怖いんで早くバスに乗りませんか」
「じゃあバスで詳しく教えてね」
「それは無理ですよ。隣に天音くんがいるので」
「ええ? 休み明けまでおあずけ? やだー」
「それより早く乗りましょう。私たちの推しが、またイチャイチャしてますよきっと」
「きゃっ、そうね! 乗ろう乗ろう!」
帰りのバスも、私たちにとっては最高のパラダイスだった。
主任と天音くんの無自覚イチャイチャを存分に堪能できた。
途中、スマホのメッセージアプリで『もぶえ』のいきさつを先輩に話し、肩を叩いて大笑いされた。
でも、「もぶえさん達、なんか楽しそうだねっ」という天音くんのふわふわ可愛い声が聞こえて、私のいたたまれない気持ちがあっという間に吹き飛んだ。
「もぶえさん、またね~!」
大きく手を振って主任と帰っていく天音くんに「うん、またね!」と答えながら、本当にまた会えるのかな……と寂しくなった。
写真くらい撮らせてもらえばよかった。
会うことも顔を見ることもできない人が推しになってしまった……。
うぅ……泣きそう……。
◇
週が明けて、月曜日の朝。
いつものように出勤すると、なんと小田切主任が私に声をかけてきた。
「おはよう、モブ、Aさん?」
主任がにやっと笑う。
い……今、はっきりモブAって言った!
しかも「モブ」と「A」に間まで開けて……!
羞恥で顔が熱くなる。すると主任がふはっと笑った。
「やっぱモブAで合ってんのか。てかなんでそんな呼び名になったんだ?」
「……えっと……冗談、というかなんというか、名乗るほどの者じゃないですって意味で自虐的に言ったんですが……名前と勘違いされてしまって……」
「ふはっ。さすが天音」
くすくすと楽しそうに笑う主任……朝から眼福……っ。
「砂糖漬け美味かったよ。天音が、もぶえさんにちゃんとお礼伝えておいてってさ。サンキューな」
「あ、いえいえそんなっ」
「天音がさ。友達ができたって喜んでんだ。もし次会うことがあれば、そんときはちゃんと名乗ってやってよ、西原」
う、うわぁぁ……っ! 主任に名前を呼ばれたのは初めてだ……っ。
「は、はい、もちろんです!」
「んじゃ、それまではモブAだな?」
「えっ、……か、勘弁してください……っ」
「ぶはっ」
吹き出して笑いながら、「じゃあ、今日も一日頑張れよ、モブAさん?」と言って、主任は自席に向かった。
うわーん! これ絶対にずっと言われ続けるやつだーーー!!
今までは挨拶程度だった小田切主任と、こんな風に話せるようになれたのは嬉しいし夢みたいで幸せだけど、周りの目がナイフのように突き刺さってくるし、なんせモブAだし……っ。
私は羞恥と絶望で、パタンと机に突っ伏した。
その後、私が社内で『もぶえ』という別名で呼ばれ続けるようになったのは言うまでもない……。
終
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日前に、イラストに冬磨×天音のLINE風会話を更新しております。くだらない内容ですが、そちらもよろしければちらっと覗いてみてくださいませ(*^^*)
今回は、ぶどう狩りモブツアーにご参加ありがとうございましたꕤ*.゜
次はたぶん……マスターの日常……かな?|-・。)ソォー…
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