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64.
私にここまでのことをして頂かなくても、と言葉が出そうになったが、代わりに。
「ありがとうございます」
「いいえ」
にっこりと微笑むと、扉が閉じられた。
瞬間、小口は持っていた携帯端末のライトを付けると、「ここにいましょう」と奥の角を案内した。
「服に紛れていれば、すぐに見つかることはないでしょう」
「はい」
体操座りでいたいところだが、今の体では出来るわけがなく、正座を崩した体勢で小口と共に身を潜めた。
途端、部屋の外から、何を話しているかは分からないが、安野らしい声と奥さんの雅らしい声が飛び交っているのが聞こえ、顔を青ざめた。
自分のことを捜している。自分にそこまで何の用があるというのか。
声を聞いただけで、あの時浴びせられた言葉を思い出してしまい、吐きそうになった。
耐えなくては。ここで自分が耐えないと、安野達の努力と、そして、お腹の子が脅かされかねない。
自分に言い聞かせるように、耐えろと心の中で念じていると、手にそっと手が乗せられた。
その時になって、自身の手が震えていたことを自覚させられる。
「大丈夫。姫宮さまはひとりじゃない」
いつになく真剣に言う小口に目を見張っていたが、やがて小さく礼を言った。
自分よりも小さな手を包み込み、ひとりではない存在を感じていると、外の雑音が少しも気にならないような気がした。
「⋯⋯姫宮さまはどうして、代理出産をしようと思ったのです?」
繋がっている手を見つめていた時、不意に何ともないように訊かれ、顔を上げた。
「⋯⋯いきなり、どうしたのです」
「気晴らしに訊いてみただけです。言いたくないのでしたら、聞かなかったことにしてください」
「⋯⋯」
代理出産をしている理由。
金銭面というのもあるが、一番は守りたかったものを守れなかったあの頃の幸せを、他人を通じて感じていたかったから。
始めた当初はそうだったが、今はその僅かな希望でさえも消えようとしていた。
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