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86.
その数日後、姫宮は退院した。
まだ安静にしていた方がいいと、入院を延長させようとしていた御月堂を制し、代わりにあるお願いをして、彼と共に車である場所へと向かった。
「退院したとはいえ、完治したわけではないぞ。何も今日ではなくていいだろう」
「いえ。一日でも早く行きたいのです。御月堂様がお忙しい中、無理を承知で申し上げているのは分かっているのですが⋯⋯」
「⋯⋯慶」
「え?」
「私の下の名前だ。そう呼んでくれ」
急に何の話かと聞き返すと、どこか不機嫌そうにそう言って、車の窓の外へ顔を背けてしまった。
瞬かせる。
一応恋人としての契約をしている間柄であるから、恋人らしいことでもしようとしているのか。
そう思った時、頬が緩んだ。
「慶様」
不意に呼んでみた。すると、傍からでも分かるほど肩を震わせて、驚いているような顔を見せた。
「な、んだ」
「ふふ、素敵な名前だなと思いまして」
「⋯⋯用がないのであれば、話しかけるのではない」
「では⋯⋯私のことは、愛賀 と呼んでください」
「愛賀」
「はい」
「可愛いな」
⋯⋯不意打ちを食らった。
徐々に熱くなっていく頬を感じている姫宮に対し、御月堂は余裕があるような笑みを見せてくる。
怒りという感情は一切出てこない。それよりも、知らず知らずのうちに固まっていた体が解れていくのを感じた。
まさか彼はこのことを分かって、わざとそのようなことを言ったのか。
どちらにせよ、嬉しく感じるのだから結果的に良かったといえよう。
「慶様」
「今度はなんだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うほどでもないだろう」
目を逸らす彼の頬がほんのりと赤くなっているのを見つけた。
あなたの方が可愛いじゃないですか。
その意味を込めて、ひっそりと笑みを作った。
「御月堂様。姫宮様。目的地に着きました」
運転手の一言で、緩んだ空気が一気に張り詰めた。
思わず見つめ合う形となった御月堂が頷くと、姫宮も小さく頷いた。
運転手がドアを開けたことに促され、御月堂に続いて、姫宮も降りた。
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