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第6話

 しかし到着後――その後の一年と少しの間、全ては杞憂だったと俺は思った。身なりを整えられ、温かい食事を与えられ、文字や礼儀作法をナイトメア伯爵家の使用人達に教わり、何かできるようになればジェフリー様が褒めてくれるという生活が始まったからだ。  マリアの体も順調に良くなっていく。  そして入学時期が迫ってから、俺は改めて妹の事を皆とジェフリー様にお願いし、そうして三年間の、全寮制の執事養成学校へと進学した。  知らない事ばかりで戸惑いもあったが、俺は決して気弱では無かったし、貧民街育ちでどちらかと言えば気性も荒かったので、特に虐められる事もなく、また、ジェフリー様にご恩を返したいという思いもあったから、優秀な執事になるべく、勉学に励んだ。  そうしていると三年間などあっという間で、十九歳になったその年、俺はナイトメア伯爵家へと就職する事になった。きちんと卒業し、執事としての資格を得た。  俺はだいぶ背が伸びていた。  己の金色の髪を指先でつまみ、姿見の前で真新しい執事服を確認する。  なんだか誇らしい気持ちで、俺はジェフリー様と再会する事になった。 「おかえり、エドガー」  出迎えてくれたジェフリー様は、俺よりも僅かに背が低く見えた。  なにより驚いたのは、三年間一度もお会いしていなかった事もあるのだろうが、ジェフリー様が一切歳を取っておられないように見えた事でもある。俺と同じ歳くらいにしか見えない。  幼少時の出会いから思い起こせば、もう二十代半ば以降のご年齢だと思うのだが、ジェフリー様は非常に若々しい。だが俺は些末な年齢について考える事はすぐにやめた。優しい言葉に嬉しくなって、笑顔を浮かべてしまった。 「今夜はゆっくり話が聞きたい。僕の部屋へ」 「畏まりました」  こうしてその日の夜、俺はジェフリー様の執務室へと招かれた。紅茶の用意をして壁際に立った俺を見ると、ジェフリー様が優しい眼をした。 「君も座って」 「ですが――」 「主人の命令が聞けないかな?」 「優秀な執事は、主人が罪を犯すことがあれば、聞かずに止める者だと俺は学びました」 「エドガーが俺の正面に座る事は、罪となるのかな?」 「そ、それは……」 「いいじゃないか。座るように」  押しきられて腰を下ろした俺は、この夜、沢山の学園生活の記憶を語った。  こうしてはじまった新たな日々、俺は執事として充実した日々を送っていった。  特に料理には、こだわった。  ジェフリー様は、俺を執事に、というだけでなく、食事をお願いしたいと話していた。俺はそれを忘れた事が無かったからだ。  約二年、そうして経過し、俺は二十一歳になっていた。  そこで、その夜ジェフリー様に聞いてみた。ジェフリー様は、度々俺を執務室に招いて会話をする事をお好みになっていたから、機会はいくらでもあった。 「ジェフリー様、僭越ながら」 「うん?」 「その――お食事の件なのですが、ご満足いただけておりますか?」 「ああ、正直空腹で大変でね」 「っ、では、量を増やす事に致しましょうか?」 「シェフの料理には、十分満足している。変更の必要は無いかな」 「? では、茶会時の菓子類などでしょうか?」 「そちらも十分足りている」  吹き出すように笑ったジェフリー様を見て、俺は意図が掴めなくなった。  分からない事は、率直に聞くに限る。 「ジェフリー様は、何をお望みなのですか?」 「何だと思う? 僕の食欲を満たしてくれるものなんだけど」 「お望みのものを、必ずご用意させて頂きます。お申し付け下さい」 「本当に用意してくれるのかな?」 「勿論です!」  俺が少し強い声で言うと、ジェフリー様が両頬を持ち上げた。それから羽ペンを置くと立ち上がり、傍らに控えていた俺の前に立った。俺よりもやはりわずかに背が低い。  しかし不思議な威圧感がある。俺はそれを、貴族特有の身のこなしが生む、洗練された空気なのだろうと判断していた。  一歩、ジェフリー様が俺に詰め寄る。距離が近い。  思わず俺は仰け反った。すると背中が壁に当たった。  だが、ジェフリー様はそのまま俺に顔を近づけ、そして綺麗な唇を舌で舐めてから、俺をじっとのぞき込んできた。 「僕は最初に会って味見をし、次に会ってもう少し味見をして、その後も一貫して――ずーっと、エドガーを食べたかったんだけど?」 「……え?」 「僕の姿かたちが変わらない事……老化しない事を、君は不思議には思わなかったの?」 「そ、それは……」 「僕はね、夢魔という種族なんだよ。人間ではない」 「夢魔……?」 「ヒトの体液を糧にして生きる、具体的に言えば精液を食すなどして、飢えを満たす存在なんだよ。そして僕は、味見をしてエドガーの事が非常に気に入った。以来ずっと、エドガーの事が食べたくて仕方がなかったんだ。いつも飢えている」  呆気にとられて、俺は目を見開いた。 「ご、ご冗談は――……」 「まぁ、信じられないのは分かるよ。では、君が受け入れられる言葉で話そう。エドガーは非常に魅力的で、僕は君を抱きたいと思っている。そう言う意味で、君に飢えている。これなら理解できるかな?」 「っ」  ジェフリー様が、長い指先で、俺の顎を持ち上げた。 「僕が望んでいるのは、君だよ。エドガー、本当に僕の望むものを用意してくれるのならば、今後は毎夜、僕の寝室へ来てくれるかな?」 「……」 「返事は?」 「……っ、そ、その……そんなのは、執事の仕事じゃな――」 「そうだねぇ、その通りだ。別に君が嫌だと断ったからと言って、今更追い出したりもしないし、マリアの事も保証するよ」 「!」 「ただ、僕は最初に伝えた通り、エドガーには食べるものをきちんと提供してもらいたいと考えている」 「……その……考えさせて下さい」 「いいよ。入浴してくるといい。僕は寝室にいるから、そこで答えを待っている。嫌ならば、明日の夜、それも無理ならば、明後日の夜にでも。僕は常に、寝室で君を待つよ」  そう言って笑ってから、ジェフリー様は俺から体を離した。俺はへたり込みそうになる体を制して、気づくと足早に、その執務室を後にしていた。  地下にある自室へと戻り、俺はへたりこんだ。両手で唇を覆う。  頭の中がごちゃごちゃで、考えがまとまらない。  最初は――裏切られた、というような思いがした。ずっと俺をそういう目で見ていたのだろうか、だとか、泣きたくなりながら息をするのに必死になった。結局その夜、俺はジェフリー様の寝室にはいかなかったが、眠れぬ夜を過ごした。

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