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第30話

「はっ、はっ、はっ…」 ネルガルは浅い呼吸を繰り返す とくに疲れているわけでもないのに、目の前の光景を見て、うまく息が吸えなくなる 視界いっぱいに広がる赤い血と、苦しげに身を縮める天使の姿 荒い呼吸を繰り返し、ネルガルは自分の手に握られた物を見る 今は赤く染まる、元々白かったはずの天使の羽 ネルガルの手にあるはずのないそれ あるはずだった天使の背中にはぽっかりと、穴が空いていた 「あ…そんな、まさか俺…リュミエル、リュミエルなぁ、リュミエル…」 ネルガルは小さくなった天使を揺さぶる 天使の目は硬く閉ざされ、開くことはない それでもネルガルは揺さぶった 血がついた手で、天使の肌を触る いつも暖かいはずの肌は冷たく、手足は放り出されて動かない 「…死ぬな、死ぬなリュミエル…」 自分でやったことなのに、ネルガルはまるで覚えていないとでも言うように天使の名を呼ぶ 我慢できなかった あの時、リュミエルの部屋の前の窓が空いていて、間抜けの殻の部屋を見た 2階から落ちた音はしなかったから、リュミエルは飛んで逃げたんだと 気づいた時にはネルガルも飛び出していた 魔界中を飛び回り、やっとのことで見つけた天使を、怒りのままこんな風にしてしまった どんどん息が小さくなっていく 自分じゃどうにもできない でも死なせたくないネルガルは、リュミエルを抱きかかえようとした時、頭上から声がした 「動かさないで」 「……アスモデウス………」 ネルガルは声の方に顔を向けると、そこには髪の長い美女が立っていた アスモデウス、七つの大罪の1人、色欲を司る悪魔 彼女は服が汚れることも気にせず、血だらけのネルガルと天使の前に跪いた 「まだ生かせるわ。私ならね」 「…助けろ、リュミエルを、助けてくれ…」 ネルガルはアスモデウスに縋るように、小さな声で懇願した 俯き、地面に眠る天使の顔を見る アスモデウスはどんどん血の気が引き青くなっていく顔を、優しく撫でた 「契約が必要よ。何をくれる?」 「…ああ、なんでもやる、目でも内臓でもなんでもやるからっ…お願いだ…っ!」 ネルガルは眠る天使の手をギュッと握る その様子を見てアスモデウスは穏やかに微笑んだ …リュミエル…… 熱い、痛い、苦しい 喉からも、背中からも痛みを感じる 僕はもがくが、逃げられない …リュミエル…… 痛みの傍ら、遠くで誰かが呼んでいる 誰、誰なの 誰でもいい、なんでもいいから助けてよ リュミエルは声のする方へ手を伸ばす 助けて貰いたい そう思うのに目の前に現れたのは、リュミエルが1番恐れる人物だった 天界を統べる美しい青年が、リュミエルを見る リュミエルは後ずさるが、それよりも早く青年に追いつかれる 青年は逃げるリュミエルの首をぎゅっと掴みそして 「ルイティス」 「———っっ!!…はっ、はあ、んっはっ」 リュミエルは飛び起きた 慌てて自身の首を触って確かめる 痛みもなく、苦しくもない リュミエルは安堵に似たため息を吐く 僕はいったい、何をしていたんだ… リュミエルは辺りを見渡すが、そこは全く見覚えのない部屋だった 白く穏やかで、高い天井からは無数のレースと、星飾りがぶら下がっていた とてもふんわりとおぼつかない空間だった でも今はそれがなぜか落ち着いた リュミエルが横たわるのは、ベッドと言うよりも大きなクッションのような場所 綿みたいにふかふかとしたそれは、リュミエルの体を優しく包む できるならずっとここにいたい そう思えるほど心地よかったが、ここがどこなのか知りたい リュミエルはゆっくりと起き上がる 頭をレースが掠めて少しくすぐったい クッションの下に降りようと、リュミエルは四つん這いになり移動しようとしたが、視界に何かが入った なに、これ… 白い部屋に似つかわしくない真っ黒な物体は、リュミエルの背から伸びていた 「…っ!」 リュミエルは驚きで息を呑む リュミエルの右側の羽は綺麗さっぱりなくなっていた 代わりに白い羽毛ではなく、コウモリのような艶のある黒い翼になっていた そして、この翼の真の持ち主を、リュミエルは知っている それを見てリュミエルは思い出す ああ、そうだ 僕はネルガルに…! 「…ひゅっ…ひゅっ…」 思い出してしまうと、体が恐怖で震えてくる うまく呼吸ができなくて、酸欠で頭がクラクラと回ってくる ちかっ、ちかっ、と目の前が明るくなったり暗くなったりと繰り返す 気づけばリュミエルの体は、再び柔らかなクッションに包まれた 起きては、眠ってを何度か繰り返した 頭が痛くて、体が怠い 羽がないことに気づいてからは、背中が痛い ジンジンジクジク波のように痛みが流れてくる その度にリュミエルは目を覚ますのだ でも時々、痛みが嘘のように消えることがある その時は何故か、誰かが背中を撫でてくれたような気がしたのだ 背後に気配を感じる 自分じゃない誰かが、リュミエルの痛みを慰めるように撫でてくれるのだ 暖かな手。誰なんだろう 薄い意識の中、その姿を見たいが、起きることができなかった リュミエルはその手の温もりを感じながら、いつまでも眠っていたいと思った 喉が渇いたな リュミエルはむくりと起き上がる あれからどれくらい経つだろうか 断片的な意識ではわからない だがリュミエルの喉の渇きが、相当の時間が経っていることを表していた リュミエルは床に足をつく ひんやり冷たい大理石の床は、寝起きの熱った体を刺激し、一層目が覚めた リュミエルは徐に自身の背中を見やる やはり自分の羽が悪魔の翼に入れ替わっているのを見て、夢じゃないんだ、と落胆した あの時のネルガルは本当に恐ろしかった ネルガルとはずいぶん一緒にいたせいで、リュミエルは勘違いしていたのかもしれない 彼は悪魔だ 獰猛で、残酷な、黒い蛇の悪魔 夢だと思いたいが、背につく黒い翼がリュミエルの考えを否定する こんなもの、穢らわしい リュミエルは自身の背につく黒い翼に手を伸ばす つるりとしたそれは羽毛とはまったく触り心地が違った 「いゔっ」 試しに少し引っ張ると、背中に激痛が走る 本当に繋がってしまっているんだと、リュミエルは実感がわく なぜ背中にこんなものつけたのか 侮辱しているつもりなのだろうか リュミエルの中でふつふつと怒りが湧いてくる 羽を引っこ抜いたくせに、挙句こんな馬鹿げたものをつけるなんて…っ! なかば自暴自棄だった リュミエルは怒りのままに翼を強く握る またもリュミエルの背中に痛みが走ったが、それでもリュミエルは力を抜かなかった 引き抜け、こんなもの。引き抜いてしまえ 意を決してリュミエルが自身の背中から翼を引き抜こうとしたその時 「クゥーン…」 リュミエルはハッとして、視線を翼から足元に移す そこにはいつの間にか、黒い大型犬がリュミエルの足の間に挟まっていた 右前足がない この子は、ロスだ どうしてここに? 「くぅん、きゅ、くぅ、くぅ」 尻尾と耳を下げ、悲しそうに鳴きながらリュミエルの足に擦り寄ってくる なんとなく、翼を引き抜くのを止めるよう言っているような気がして、リュミエルは翼から手を離した するとロスは鳴くのをやめ、リュミエルの腿に顎を乗せると、上目遣いで見てくる リュミエルはなんとなく安心感を覚えて、彼の頭を撫でる 嬉しそうに尻尾を振っているのを見て、リュミエルはだんだん落ち着いてきた そうだ。喉が渇いたのだった リュミエルは思い出すと、クッションからゆっくりと立ちあがろうとするが、足に力が入らない なんとか立ちあがろうと奮闘していると、遠くでパカっ、パカっ、と音を鳴らし何かが近づいてくる気配がした 「メェー」 なんだろう 奥からレースを掻き分けて出てきたのは、首の長い羊のような生き物 フワフワの毛と硬いヒヅメを持っており、歩くたびに軽快な音がなっていた リュミエルは初めて見るその生き物に警戒したが、ロスが普通にしているのを見て敵意がないと判断した 「ンメェー」 「…?、うっ」 謎の生き物はリュミエルに近づくと、そのままズンズンとリュミエルの胸元に頭をぶつけてくる 撫でろということだろうか その子の頭をやんわり撫でると、リュミエルの手はふわふわな毛に覆われていき、その子も気持ちよさそうに目を細めた しばらく撫でてやると満足したのか、その子はするりと立ち上がる 「メェー」 まるでついて来いと言っているように見えるが、リュミエルはまだ上手く足が動かない なんとか立ち上がれたと思ったらふらりと体が傾いた 倒れるっ! そう思ったが、リュミエルの体を謎の生き物が支えてくれたため転ぶことはなかった 「くぅ、クゥーン」 「メェ、メェー」 その様子を見ていたロスが心配そうに鳴くが、謎の生き物はそれを宥めるようにまた鳴いた 喋っているのだろうか 不思議に思いながらも、その子は前に進むので、リュミエルもそのまま捕まりながらゆっくり歩いた しばらく歩けばすぐにレースを抜ける 目の前に広がるのはだだっ広い空間で無機質だが妙に落ち着く リュミエルは歩き出そうとするが、突然足元で何かが横切り、驚きそちらに目を向けた 「……?」 そこにいたのはまたも、綿毛のようにフワフワとした小型の生き物だった ロスに教えてもらった浮きくらげと似ているが、この生き物は頭から長い耳が生えており、床をぴょんぴょんと跳ねるように移動する こちらに敵意はなく、リュミエルの足元で無造作に飛び回るのだ それだけでなく、その広い空間には見たこともない生き物達が沢山いた リュミエルは驚いたが、彼らは大人しく、皆穏やかに過ごしている 気になるが、ずんずん進むロス達について行くと、中央にぽっかりと空いた大きな穴を見つけた そこには水が張っており、人工的な池が作られていた しゃがみ込み水を両手ですくい、溢れないようゆっくりと飲んでいく 渇いた喉を冷たい水が通って心地が良かった もう一度、水を飲もうと両手を入れた時、水の中で何かが動いた とても素早い速さで水の中を泳ぐそれは、ツルツルとしていて翼のようなものが生えている 不思議な形だった もっとよく見てみたい そう思いリュミエルがじっとその生き物を見ていると反対側で軽やかな声がした 「池に落ちないようにね」 「…っ!?」 リュミエルは突然の気配に、バッと頭を上げる 視線の先には、リュミエルがいる池の反対側に美しい女性が立っていた 「それは魚よ。あなたの隣にいるのはアルパカって名前なの。私が創ったのよ、可愛いでしょう?」 リュミエルは女性をまじまじと見つめる とても美しい、天使のようだ だが、女性の頭には天使にはないものが付いていた 羊のようにくるんと回った、立派なツノが両耳の上にバランスよく生えている 悪魔だ 「はっ…かひゅっ…」 気づいた瞬間、リュミエルの体が震え始める 呼吸が乱れる中、彼女から逃げようと後ずさる あの赤髪の悪魔は、誘拐した あの低級悪魔共は、喰い殺そうとした ネルガルは、リュミエルの、羽を奪った 彼女が恐ろしい また何かされるんじゃないかと考えてしまう そんなリュミエルの反応を見て、彼女は困ったように笑った 「あら、ごめんなさいね。びっくりさせちゃったわよね。待ってて、ベルを呼んで来るわ」 彼女はそう言うと長い髪をなびかせてどこかに行ってしまった 目の前から悪魔がいなくなってやっと、リュミエルの震えは治った あの悪魔、ベルを呼ぶと言っていた ベルはとても変な悪魔だが、この前話したあたり敵意はない だが怯えない自信はない 今リュミエルは悪魔をトラウマとして認識し、無条件で恐ろしいと感じてしまう ベルが来たところで、また体が震えるだけだ リュミエルはまた、あのレースだらけの寝ぐらに戻る 今度は1人ではなくロスと、アルパカと呼ばれた生物と一緒に眠った この子達は暖かく優しい リュミエルは安然の中眠りについた

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