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第31話

ふと、意識が浮上してリュミエルは目を覚ます どれくらい眠っていただろうか リュミエルはこれまで何度も寝ては起きてを繰り返したが、とくにすることもなく、池に水を飲みに行き、そして眠る あれ以降あの悪魔は現れていない リュミエルにとって悪魔の認識はかなり恐怖に近い この後も誰にも会わず、穏やかに過ごしたい そう思っていたのに 「やあ、起きたんだね」 「…っ!」 突然声がして起き上がる そこにはかつて、ネルガルと共にいたベルフェゴールが、リュミエルの隣に座っていた リュミエルは後ずさる もう痛いのは嫌だ。悪魔は嫌いだ。 リュミエルの頭には、悪魔からされた仕打ちが思い出された 皆狂ったようにリュミエルを傷つける 意思疎通などできない 悪魔は皆、醜い怪物だ きっと、目の前にいる悪魔も一緒だろう リュミエルは精一杯ベルから距離を取ると、己を守るために睨みつける ベルはリュミエルを追いかけるわけでもなく、その姿を見てフッと笑って見せた 恐ろしい紋様が、ベールの下で蠢いた気がした 「天使の回復力はすごいね。羨ましいよ」 「…はっ、はっ…」 「大丈夫だから。ほら、喉乾いたでしょ?」 そう言ってベルが差し出したのはコップ並々に入った水だった リュミエルの喉がゴクリと鳴った 差し出されたコップから、ベルに目線を移す 手には白いレースグローブがつけられて、黒い紋様は見えない 爪も短く、細い指 リュミエルはスッと手を差し出す 恐る恐るコップを受け取るリュミエルだったが、ベルはとくに気にすることもなく隣に居座り続ける 警戒しながらも飲んだ水は普通で、何か入っているようにも見えない 喉を通る気持ちよさから、思わず全て飲み干してしまった 「おー、よしよし。かわいいねぇ」 「メェー」 「………」 空になったコップを握りながらベルを見る ベルはアルパカの顔をぐしゃぐしゃと撫でており、一見乱暴な手つきに見えるが、アルパカは気持ちよさそうに目を細めていた しばらくしてリュミエルが水を飲み終わったことに気付いたのか、貰うよ、と再び手を差し出した リュミエルはまた怯えながらコップを手渡す 結露で濡れたコップは、ベルのレースグローブにシミを作っていく それでも嫌な顔一つせず、ベルは受け取ったコップを傍にいたロスに渡す ロスはコップを咥えるとどこかに消えてしまった リュミエルはその様子をじっと見ていた 不思議だ。彼には恐怖を感じない 角や牙がないから? 表情も見えず、ミステリアスな雰囲気なのに、いつの間にかリュミエルの緊張は消えていた 「あれから2ヶ月も眠っていたんだよ。ほんと、死んだかと思ったね」 「…!」 2ヶ月と聞いて、リュミエルは驚愕する 自分ではそんなに時間が経っているなんて知らなかった 「背中の翼もくっついたね。よかった」 そうだった リュミエルは自分の背を見る 夢であって欲しかったが、リュミエルの背にはしっかりと黒い塊がついていた 力を入れてみると、ばたばたと動いた 前は混乱して引き抜こうとしたが、ベルの言った通り神経からくっついているのだろう もう取ることはできそうにない 「そんな悲しそうな顔しないで。ネルガルも君のためにしたことだ」 「……」 ベルはそう言ってリュミエルの背につく黒い翼を撫でる こんなに至近距離にいても嫌な感じはしない ベルには空気を絆す、不思議な力でもあるのではないだろうか 他の悪魔より、リュミエルはベルに気を許したと言ってもいいだろう ベルが撫でると、その感覚がしっかり伝わるのに、自分の翼じゃないと思うと複雑な気持ちだった 「どうか許してあげて欲しい。あの子もまだ未熟なんだ」 ベルはそう言うが、許す許さない以前に、リュミエルはもう悪魔は怖い 許したところで何になると言うのか もう、できることならネルガルには会いたくない 彼を見ると、かつてリュミエルが天界から去る原因となった、ミカエルと姿が重なる 脳が痺れるような恐怖を忘れられない それと同じ恐怖を、ネルガルにも感じると言うのに、それに耐えられる自信などない ここに、ずっといたい 「ほら、疲れたでしょ?もう寝なさい」 ぽんっと肩を優しく押され、リュミエルの体はふかふかのクッションの中に埋まる その瞬間、我慢していた眠気が一気にリュミエルを襲う 「また明日、ここに来るから」 ベルはリュミエルの頭を優しく撫でた 心地よい、少し冷たい手を感じながら、リュミエルは再び眠りについた —————————————————— 「今日は気分転換に、一緒にティータイムでもどうかな」 数日経った今では、毎日顔を出すベルにもう不信感は感じない 彼は毎日寝床にいるリュミエルを連れ出すためにと、ベルはそんなことを提案してきた 正直リュミエルも同じ景色に飽きていたところだが、それよりも恐怖が勝ち、未だ池以降の場所には行けていない でも、ベルフェゴールが一緒なら 彼はあまり強くは見えないが、7つの大罪の一員であり、あの凶悪なネルガルと対等に話せるくらいの力を持っているはずだ 共にいれば危険なことにはならないだろう そう思いリュミエルはベルの手にそっと自分の手を重ねた リュミエルはアルパカの背に乗って移動する その横に寄り添うようにベルは歩く いつも従者に担がれている彼が、自分で歩いているところを見るのは初めてだ 不思議そうに見ていると、ベルは視線に気付いたのか、リュミエルの方を見た ベールがかかっているのでしっかりとは見えないが、きっと、微笑んでくれているんだと思う 「ほらあそこ。リュミちゃんのために準備したんだよ」 ベルが指さすのは一際明るい照明がつき、壁がガラス張りで外の景色が見える場所だった 近くに危険な生き物がいないことに、リュミエルはホッとした 依然足元には不思議な生き物達がわらわらと集まっているが、今のところ危害を加えられたわけではないので、おそらく安全だろう 「ロス、降ろしてあげて」 「はい」 アルパカから降りるのを苦戦していると、いつのまにか人型になったロスに抱き上げられるように降ろされる いきなり背の高い男が現れ驚いたが、それがロスだと知っていたためか、それほど怖くはない 流れるようにイスを引かれて、リュミエルをそっと座らせた 背の高い彼を見上げると、犬型の時同様、優しげな瞳がリュミエルを見下ろしていた その間にもベルは紅茶をカップに注いでリュミエルの手前に置く 鮮やかな赤い紅茶からは、少し甘酸っぱいラズベリーのような香りがした 「お菓子もあるから、たくさんお食べ」 まるで孫を甘やかすように次から次へと洋菓子を並べていく ケーキやクッキー、見たこともないスイーツが目の前に並んでいく リュミエルはその一つをおそるおそる口にした 瞬間、リュミエルの口の中に甘味がふわりと広がる とろけてなくなるそれらは、今まで食べた食べ物の中で1番美味しかった しっかり咀嚼して飲み込むと、次に紅茶のカップを一口仰いだ 口の中の甘味をリセットするすっきりした味わいと、少しばかりの苦味で、また甘いものを食べたくなる   一口、一飲み。 まるで2ヶ月分を取り戻すように、リュミエルは目前のスイーツに釘付けだった ベルはそんなリュミエルを愛おしそうに見ていた 紅茶を飲むために、顔にかかったベールは取り払われていた ベルは優雅な所作でカップを仰いだ 薄い唇は、赤い紅茶で少しばかり色づいているような気がした 「まあ!もう動いて大丈夫なの?」 しばらくそんな穏やかな時間を過ごしていると、突然、2人以外の声がしてリュミエルはイスから飛び退いた 見るとそこにはあの時池で見た羊角の女の悪魔がいた いきなりベル以外の悪魔の気配を目の当たりにして、リュミエルの心臓がバクバクと音を鳴らす そんなリュミエルの姿を見て、羊角の悪魔は申し訳なさそうに言った 「あらまぁ、ごめんなさい。私また驚かせちゃって…」 「おはようアリス。もう用事はいいの?」 「ええ。暇ならベルも見てくるといいわ。今が1番面白いわよ」 「気が向いたらね。僕はこの子とのティーで忙しい」 ベルは羊角からリュミエルに目線を移す リュミエルはティーテーブルの下で身を隠すようにうずくまっていた 羊角は面白い物でも見るように、淑やかに笑う その動作さえもリュミエルは肩をビクッと震わした 「羨ましいわ。もう、嫉妬しちゃう」 「それって僕に?それとも天使に?」 「どちらもよ!私抜きで仲良くしないで欲しいわ」 「なら今夜は僕が付き合ってあげる」 「あら、あなたから誘うなんて珍しい…わかった。待ってるわ」 軽い会話が終わると羊角の悪魔は消えていった そのことにリュミエルは安堵する リュミエルはベルにまたイスに座るように言われ、大人しく座ることにした まだ心臓が跳ねているが、目の前のスイーツ達を残すのも勿体無い気がして再び食べ始める その切り替えの速さにベルは微笑むと、2杯目の紅茶を注いでまたカップを傾けた 「彼女はアスモデウス。僕の妻だ」 「んっ!?んぐっこほっ」 「おっと、大丈夫?ゆっくり食べなさい」 リュミエルは飲みかけたクッキーが喉に詰まりそうになった つ、妻だって? リュミエルが驚くのも無理はない だってベルの背丈はリュミエルよりも少し小さいくらいで、まるで子供のようだ それに比べてアスモデウスはその2倍ほどの背丈で、夫婦として釣り合うようには見えない それにベルが男だなんて知らなかった もともと中性的なベルだったが、顔立ちがとても華奢であったためにベルは女性だと思い込んでいたのだ でも、妻と言うことは、やはり男なのだろうか ちらりとベルを盗み見るが、やはり端正な顔はとても美しく、とても男性とは思えない 「おかわりはいかが?」 やはり見ていたことに気づかれてしまい、ベルはティーポットを手に取った リュミエルは慌てた様子でおずおずとカップを手渡す ベルはカップを受け取ると鮮やかな紅茶を注ぎ入れた リュミエルははっとする すっかりベルに絆されてしまっている ネルガルの城で会った時も、彼からはいいしれない不思議な雰囲気を纏っていた 他の悪魔達とは違う 彼といるとどこかズレた世界にいるようだ ベルなら、大丈夫、かも リュミエルは受け取ったカップをカタンとソーサーに置いた ガラス張りの外を見ると、そこは紛れもない魔界の姿だった どこまでも暗く、分厚い雲が覆っている 晴れた天界とは大違いだ それでも、今のリュミエルにはもう、魔界は慣れ親しんだ場所となってしまった ここで生きていけたのは、憎くとも信頼する、ネルガルのおかげだったとふと思い返す 彼は今、何をしているのだろうか

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