32 / 38

第32話

「そろそろ庭園で光を浴びないとね」 「そうね。ずっと籠ってたらキノコが生えちゃうわ」 目の前で2人はそんなことを言う ベルは2杯目、アスモデウスは3杯目、そしてリュミエルはたった今、2杯目の紅茶をベルに淹れてもらっているところだ ここに来て時間も経ち、もうすっかり2人には気を許すようになった 最初は恐ろしかった2人も、こうして毎日お茶を一緒にすれば、案外慣れるものだ ベルの淹れる紅茶も、アスモデウスの作るお菓子も美味しい いつものように菓子を口に詰めていると、庭園と言う懐かしい単語が聞こえてきて思わず手を止めた 「魔界に慣れたとはいえ、天の光は必要でしょ?ね、リュミちゃん」 「…ん…」 ベルにそう言われて、リュミエルはしぶしぶと頷く 毎日果物やお菓子を食べているが、正直それでは足りないことはリュミエルも気づいていた 天使は天の光がないと生きていけない ネルガルと共にいた時は週に一度の頻度で、ルシファーの所有する庭園で光を浴びていたが、今はそれがない このままじゃ力が弱ってしまう それでもリュミエルはまだ外に出ることが怖かった ルシファーの庭園に行くとすれば、少なくともルシファーには会わなければならない 2人に慣れたからと言って、リュミエルが悪魔を嫌いなことは変わらない 行きたくない、会いたくない そんなことを悶々と考えていると、リュミエルを置いて2人が話し始めた 「そういえば例の件はどうなってる?場合によっては避けて行かなきゃ。まだ続いてるかな」 「もう虫の息よ。そろそろ決着がつくわ」 「そう、早く終わればいいけど」 「嫌よ!このままじゃネルガルが負けちゃうわ!」 リュミエルはバッと顔を上げる 久しぶりにネルガルと言う名前を聞いて、2人を見た 「…はあ、アリス…」 「ご、ごめんなさい私ったら…あえっと、リュミちゃんが気にすることじゃないわ。ね?忘れて?」 やってしまった、と言った顔で焦るアスモデウスと、ため息をつくベル 負ける?何の話だ ネルガルがどうしたと言うのだ アスモデウスは隠そうと空笑いをしながら忙しなくクッキーをかじり、ベルも話す気はないのか無言で紅茶を啜っていた リュミエルは俯く 別にネルガルのことなんて気にならない あんな奴嫌いだ そう思いはするも、リュミエルの心は揺れていた カップに入った紅茶のように波打つ心に首を振って誤魔化す もう関わりたくもないのに、知ろうとする理由がない それでも最近、やけに自分の背についた黒い翼に目がいってしまう 動くたびに視界に映る黒は、どうしてもネルガルを連想させる そのたびに、身体中がジンジンと痛むのだ 手も足も、時には刺すような痛みを感じる でもリュミエルの痛みではない 最初は何が何だかわからなかったが、今ベル達の話を聞いてなんとなく理解した どこか遠くで、この翼の持ち主が傷ついているのだ 「…べ、ベルが悪いのよ、私にそんな話聞いてくるからいけないのよ!!」 「はいはいわかったから。今日はお開きにしよう。リュミちゃん、さあ」 子供のように言い訳をするアスモデウスと、それを軽くあしらうベルフェゴール ベルは立ち上がると、リュミエルからカップを取り上げて、寝床へと手を引いた リュミエルはされるがままベルの後をついて行った 頭の中でいろんな感情が渦巻いてまとまらない ネルガルのことはもう忘れると、そう決めたのに やはりリュミエルの頭のどこかで、ネルガルの姿が過るのだ ベルに連れられ寝床に戻ると、リュミエルはモゾモゾとクッションにうもるが、いまいち気分が晴れない そんな気持ちをベルも悟ったのだろう ベルはリュミエルの隣に腰掛けると、リュミエルの額を優しく撫でた 「ネルガルが憎いかい?」 「………」 リュミエルは頷くことはしなかったが、ベルには気持ちが伝わったようで、彼はゆっくり微笑んだ 「ネルガルは君を探しているよ。見つかってあげるかどうかは君が決めなさい」 「…?」 彼の言っていることはよくわからない リュミエルは首を傾げるが、ベルは構わず頭を撫でた 「さあもう休みなさい。明日は庭園に連れて行ってあげるから」 ベルはそう言って、行ってしまった 残されたリュミエルはまたクッションに顔を埋める 背につく黒い翼が目につかないように深く深く顔を埋めた 「私、悪くないもん…」 「そうだね、僕が悪かったよ」 ベルは再びティールームに戻ると、そこには変わらずテーブルに腰掛けるアスモデウスの姿があった アスモデウスはベルを見ると頬を膨らませた そんなアスモデウスを宥めるように、ベルはまたイスに座る 冷め切った紅茶を一口啜り、穏やかにまた紅茶を注いだ 「戦況はどうなってるの?」 「サタンの圧勝よ。ネルガルが宣戦布告したあの日、サタンが軍を引き連れて押し寄せてきたのよ」 「さすがのネルガルも、軍を相手しながらサタンとは張り合えないか」 「サタンったら卑怯よ。たった1人に何千の悪魔を引きつれるなんて」 「仕方ないね。ネルガルは軍を持っていないから」 「ベルが助けてあげればいいじゃない。あの子、このままじゃ死ぬわ」 「兄弟喧嘩に首を突っ込むわけには行かないよ…それに、ネルガル自身が決めたことだから。邪魔するのは良くないしね」 納得のいかない様子のアスモデウスはヤケになってケーキを口に放り込む アスモデウスも口では言うが、あの2人の間に水を指すことは良くないことを理解しているのだ だからこそ何もできないことに、もどかしそうに、フォークを咥えるのだ 「…まさかネルガルがリュミちゃんを傷つけるなんて思わなかったわ。すごくラブラブだったのに…」 「僕らもよく夫婦喧嘩するけど、あれは喧嘩にしてはやり過ぎだね」 「バチが当たったのよ、でもネルガルには死んでほしくないわ」 「まあ、もう少し待てばよくなるさ」 リュミエルがいないこの場では、2人は隠し事せず気楽に話せるが、その空気は決して穏やかではない しばらく2人の話題は暗い内容が続いた 各々気持ちを曝け出すが、それも当事者からしたらただの戯言にしかならない 今後リュミエルとネルガルがどうなるか、2人にもまだ、わからないのだ 一方その頃、魔界の一角では2人の悪魔が激戦を繰り出していた 煙が燻る空、転がる死体、赤く染まった地面 その様子は地獄そのものだった 「そろそろ諦めたらどうだ?ネルガル」 「………」 空には赤髪の悪魔が翼を広げ飛んでいる 彼が見下ろす先には、血溜まりに佇むもう1匹の悪魔がいた だが悪魔の片方の翼はなく、腕もボロボロで使えそうにない それでも悪魔は赤髪に怖気ることなく、睨み返す 鋭い眼光が、赤髪を捉えて離さない 鋭い蛇のような眼には、怒りと憎しみが こもっていた 赤髪もそれを感じとったのか、彼もまた悪魔を睨んだ どちらも譲る気のない威圧感は、周りの空気さえも震わしていく 2人とも諦める様子はない しばらく睨み合いが続いた どちらが先に動くか伺っているようだ 一見黒髪の悪魔はもう息も絶え絶えで、勝算などないように見えるが、それでも先手を打ったのは黒い悪魔の方だった 彼は床を蹴った 翼がなく、飛ぶことすらできないのに、脚力だけで赤髪の元まで軽々飛んだ ひゅんっ、と空気を割く音とともに、2人の距離は一気に縮まった 黒髪は腕が使えないと、今度は足で蹴りを入れた 赤髪はそれをなんなく避けると今度は彼から攻撃が繰り出された 「哀れな愚弟め、今楽にしてやるさ」 瞬間、辺りは一気に火の海に飲まれた 空気を呑み込み、全てを燃やし尽くす烈火は、赤髪の悪魔の魔力で生み出されたものだった その場はすぐに赤く染まり、2人の姿は見えなくなる それでも烈火の向こう側で、けたたましく何かがぶつかり合うような音は絶えず響いていた 彼らはまだ戦っている 天まで登る高い日の中で、それでもなお止まることはなかった

ともだちにシェアしよう!