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第34話

ベルに連れられたどり着いたのは庭園の反対側 瓦礫の山で見えなかったそこは、既に火の海で呑まれていた ネルガルに連れられ空から見下ろした時は、何もないただただ広大な大地が広がっていた それが今は端から端まで黒く焦げ、あたりには物体だったであろう何かが、焼け焦げた塊が大量にあった その景色は地獄そのものだ そうだ、ここは魔界 仲間割れによる戦争など、たった一つの日常に過ぎないのだ 穏やかな平穏から一気に現実に引き戻され、リュミエルはショックに震える 「酷い臭いね」 「だから来たくなかったんだ」 固まるリュミエルを置いてベルとアスモデウスはいつも通り会話をしていた そのギャップがまた、リュミエルを混乱に至らしめる 「ああ、ほら、リュミちゃん。あそこ見て」 アスモデウスは遠くを指さす そこには2つの人影が見えた 1人はたたずみ1人は跪いている リュミエルはより鮮明に見ようと目を凝らした それが誰だかわかった瞬間、リュミエルはヒュッと喉を鳴らした 「どうやら、決着がついたみたいだ」 たたずんでいたのは、リュミエルを無理矢理連れ去ったあの赤髪の悪魔 その足元には、片方の翼を失った、黒い悪魔 リュミエルのよく見知った悪魔、ネルガルだった ネルガルは力なく赤髪の悪魔の足元に跪き、起き上がる気配はない そんなネルガルに凍てつくような冷たい視線を向ける赤髪の悪魔 ふと赤髪がリュミエル達に気づく 彼は天使の姿を見ると、わかりやすくニヤリと笑った そして赤髪が何か言った だが遠くてリュミエルには何を伝えたのかわからなかった すると赤髪はガッと音が出そうなほどの勢いで、ネルガルを蹴飛ばす ネルガルは体力を消耗し切っているのか、されるがまま体が宙に飛び、地面にどしゃりと落ちる ぴくりとも動かない彼をいいことに、今度は赤髪はネルガルの髪を鷲掴み、軽々と持ち上げた そして再び天使に見せつけるように、ニヤリと笑うのだ 「はあ、ムカつく奴」 「やぁねほんと、野蛮で」 リュミエルはそれを見て焦るのに、いつも通りの反応の2人は、まるで世間話のように言うのだ ネルガルは未だ動かない されるがままの彼の手足は持ち上げられ、ぷらぷらと揺れている 服から垣間見える彼のたくましい腕からは、赤い血が、何本も線を引いて滴っていた 「おわりかな」 ベルがぼそりと口走る リュミエルはバッとベルを見上げた どうしてそんな風に言うの 助けてよ。でなければ彼はこのまま… リュミエルはベルの服を引いて懇願するように縋るが、2人は変わらず見ているだけだった 「そうだね。助けてあげたいよね。でもダメだよ。あれはネルガルの自業自得なんだから」 「…っ」 わざわざリュミエルをここまで連れてきたというのに、ベルは意地悪くもそう言った どうやらこの2人にネルガルを救う気はないらしい どれほど頼んでも、できない、やらないの一点張りだ なぜなのだ ベルはあんなにも仲良さそうに話していたじゃないか アスモデウスだって、この前ネルガルに死んでほしくないと言っていたじゃないか ネルガルが死にかけても顔色ひとつ変えずにいる彼らが恐ろしく思えてくる その間もネルガルは赤髪に酷く痛めつけられている 赤髪が、高く拳を振り上げたあたりで、リュミエルはついに耐えきれず動き出した リュミエルは思いっきり地面を蹴った ネルガルに引きちぎられた背には自分のものではない翼。 その翼はリュミエルの意思に問題なく反応した 上手く飛べるかとか、間に合うかなんて今更そんなこと気にしていられなかった リュミエルの羽は大きく広がり一振り、バサっと音を立てた その途端リュミエルの体は信じられないそど早く疾走する リュミエルは驚いた 元々飛べた頃よりずっと早い リュミエルは光の如く空を駆け抜け、赤髪の拳がネルガルの元に届く前にたどりつくと、ネルガルを庇うように赤髪の目の前に立ち塞がった 「来たなっ!天使!!」 「っ!」 赤髪が嬉しそうに笑う まるでリュミエルがここに来ることを待っていたかのような反応だった 彼が振り上げた拳は止まらない このままでは庇ったリュミエルにその拳が当たるだろう これから来る壮絶な痛みに耐えきれず、リュミエルは一振りの拳で死ぬかもしれない そんな恐怖に身構えリュミエルがギュッと目を瞑ったその時 「俺のモンに、さわんじゃねぇ」 「!?お前っまだ動けっ、ぐっ!!」 低い、唸るような声が耳元で響くと同時に目の前の赤髪が、後ろから繰り出された蹴りをくらう 赤髪は咄嗟に腕をかざして止めたが、苦し気に眉を歪ませると、リュミエル達から距離を取るよう後ずさった と同時にリュミエルの服が、後方に引っ張られた すると体がふわりと宙に舞う 必然的に赤髪と距離を取るような形で、ネルガルに引かれたのだ 呆気に取られ固まっていると、リュミエルの体に、後ろから腕が巻かれる 視線に映るそれは、ところどころから血が噴き出ていて、ダラダラと絶え間なく流れている 痛々しいその赤が、リュミエルの白い服を染めていった そのままギュッと抱かれる 後ろにかかる気配、呼吸、香り。 その全てを感じて、リュミエルの体から冷や汗がぶわりと滲み出た リュミエルを殺しかけた張本人が後ろにいると悟った本能が、逃げろと騒ぐ だが実際に体は恐怖で動かず、指先まで凍ったように固まっていた 代わりにカタカタと体が震え出す 心臓が跳ねる 後ろを振り向けない 体に巻かれた腕を見て、彼の爪は、こんなにも長かっただろうかと、改めて思った この手が、リュミエルの背から羽を… 考えただけで吐きそうになる あの時の記憶がフラッシュバッグのように頭によぎり、リュミエルはより震えた そんなリュミエルの反応を見てか、巻きつく腕の力はより強くなった あ、死ぬ このまま捻り潰されてしまうのでは、とそんな想像をしてリュミエルの体は震えた だが、そんな恐怖とは裏腹に、背後から聞こえる声は弱弱しく、それでいてリュミエルを心配するような優しげな声だった 「リュミエル…ああ、お前なのか?…生きてる、本当に…」 ネルガルはリュミエルの背に頰ずる あれほど冷たかった体温は、今やしっかりと感じられるほど暖かく戻っていた ネルガルは歓喜した 一か八かの選択だった 天使の体が悪魔の翼を無事に受け入れるか、それとも拒否反応を起こして死ぬか、どちらも可能性は半々ほどだった だがあのままでは衰弱して必ず死ぬと聞かされ、ネルガルはその選択を余儀なくされた それでも可能性があるなら縋るしかない リュミエルを生かすために、自身の翼が無くなろうと、どうでもよかったのだ 「…はくっ、ひゅっ」 小刻みに震えるリュミエルに気づき、ネルガルは惜しみながらもリュミエルを離す リュミエルは力を上手く入れられず、その場に崩れ落ちた そんなリュミエルを守るように前に立ち塞がる 身体中が痛い、力もさほど残っていない それでも、まだ戦いは続いているのだ 「リュミエル。危ないから、ベルフェゴールのところに戻れ」 「…っ!ぅ、っ!」 ネルガルにそう言われてリュミエルはハッとする ネルガルの体はボロボロだ これ以上動いたらどうなるかわからない そんな体で、どうしようと言うのか 怖がっている場合じゃない リュミエルを殺しかけたネルガルを、助けると決めたのはリュミエル自身だ リュミエルは震える体を踏ん張ってネルガルの袖を引く 行ってはダメ 何のためにここまで来たと思っているのか 「リュミエル、リュミエル、早く行け」 「何をごちゃごちゃと話している」 そうしてる間にもあの赤髪の悪魔が戻ってくる リュミエルと、立ち上がったネルガルを見て、忌々しそうに顔を歪めた様子は、何よりも恐ろしく、リュミエルの本能が警報を鳴らす 「まさか、逃げようなどと思うなよ?」 「…ああ」 ネルガルは離れようとしないリュミエルを隠すように立ち塞がる そんな様子さえ煩わしいのか、赤髪はチッと小さく舌打ちをした 「そんなモノのために、命を張るというのか?呆れるな、本当に」 「あんたが手を出さなければ、こんなことしなくてもよかったが」 「お前が悪いのだ。天使などにうつつを抜かすからだ」 ネルガルは先ほどのぐったりとした様子とは打って変わって、赤髪の言葉に強く反抗していた その顔は笑っていた まるでもう心残りはないと、そう語っているように見えた なんとか止めようとリュミエルは力一杯にネルガルの手を引く だがボロボロの体からは信じられないほどびくともしない 「鬱陶しいな、お前も、そいつも」 「同感だ。俺もお前が嫌いだ」 「黙れっ!!」 赤髪がネルガル達に向かって手をかざすと、手のひらからぼぅっと炎が生まれる それはどんどんと火力を増して、ネルガルたちに向かって放たれた ネルガルはリュミエルを抱き込む 炎からリュミエルを守るため、1人であれを受け止める気だ ダメだ あの時と同じように… リュミエルは業火で染まった視界を見て、ふと、ミカエルに喉を焼かれた日を思い出した 想像もできないほどの痛みと、生への諦めを感じてしまった ネルガルは、ネルガルには そんな思いはして欲しくないのに… 「はぁい、そこまで!」 誰かがパンっと手を叩く音がして、それと同時に燃え上がっていた業火が風に吹かれた蝋燭のようにふっと消えた 何事かと、リュミエルはネルガルの腕から顔を出す そこにはネルガルと赤髪の間を割って入るアスモデウスの姿があった 「邪魔をするな!!」 だが赤髪は止まる気はないのか、再び炎をまとい、アスモデウスに突っ込んでくるが、アスモデウスはまるでダンスを踊るようにひらりとかわした 「もうやめましょうよ。気は済んだでしょ?」 「黙れ、邪魔をするな。規則を忘れたのか?」 「古臭いことはいいじゃない。充分楽しんだでしょう?」 赤髪はイラついたようにアスモデウスに唸るが、彼女は全く気にすることなく続ける だが、黙っていないのは赤髪だけではない 赤髪の言葉に反応するようにネルガルが声を上げる 「どけ、アスモデウス」 「ネルガルまで…、残念だけど、ネルガルの負けよ。諦めなさい」 「俺は、まだやれる…ぐっ」 「その体で何を言ってるの。これ以上リュミエルちゃんに迷惑かけないで」 アスモデウスにそう言われると、ネルガルはリュミエルを見やる 不安気にも、ネルガルの服の袖を掴むその手は絶え間なく震えている 思い出したかのように、ネルガルはリュミエルを抱き寄せた 「…リュミエル、ああ、こんなに痩せちまって…」 抱き寄せた感覚が前より細くなったことに気付いたのか、心配そうに言った後、 リュミエルの頭を撫でる 何が何だかわからないリュミエルはそれをただ受け入れるしかない リュミエルはただ混乱していた ここに、この魔界を統べる悪魔達が3人もいる うち1人はまだ納得が行かないのか、未だ戦闘体制でネルガルに牙を向くのだ 「勝手なことをぬかすな!俺はそいつに…」 「遊び足りないなら、僕が相手をしようか?」 それまで事の流れを眺めていただけのベルが割って入る その瞬間、空気が張り詰める感覚がした 「あんたが俺の?」 「ネルガルよりかは手応えあると、思うけど」 赤髪は少したじろいだ だがその理由はリュミエルにはよくわからない ベルはリュミエルと同じくらい小柄で、強さの象徴のツノや翼を持っていない 大柄な背と、整ったツノ、立派な翼を待ち合わせた赤髪と、ベルでは張り合わないように思えた だがそんなリュミエルの考えとは裏腹に、意外にも赤髪はすぐには了承しなかった その顔はどこか怯えたような表情だった 赤髪だけでない ベルの言葉を聞いて、ネルガルはリュミエルの抱く力を強め、アスモデウスも不安気な顔をして体を強張らせていた ベルが赤髪の元へ近づく 美しい半透明のベールが蝶のようにひらひらと風になびいて、美しかった リュミエルは見惚れるように、その姿に夢中になった だが、どこか様子がおかしい 突然ベルの背中がメキ、メキと音をならす 同時に中からベールが押し上げられるように膨らんでいく ぼこ、ぼことベールの中で何かが蠢いていた リュミエルは何事かと目を凝らす だが、その正体を確認する前にネルガルに目を塞がれた 「見るんじゃない…壊れちまう…」 リュミエルにそう言った声は、どこか震えていた そして肌に突き刺さる威圧を感じ、リュミエルも只事でないことを本能で感じた だがどうしてだろう 目を逸らしたいのに、なかなか意識を外すことができない ネルガルの指の間から覗き見たベルの姿は、もはやリュミエルの知っている姿ではない 背の真ん中がパックリと裂けており、その割れ目から何かが這い出ていた 黒く、悍ましい物体だが、不思議なことに実体がないように思う 見てはいけない、目を逸らさなければ そう思うのに、視線はベルから出てくる"何か"に釘付けだ キーンと耳鳴りが鳴る 呼吸が止まる 乱れるのではなく、一切吸いも吐きもできなくなるのだ 苦しく、頭も痛い。 必死に口をはくはくと開閉するが、だがどうにもリュミエルの体は言うことを聞かなかった 「ル…リュ…エル!…しっか…しろ…っ!」 すぐそこにいるネルガルの声さえも遠くに感じた リュミエルの目はすでに暗闇にあるというのに、ベルフェゴールのあの姿が変わらずそこにある 記憶に無理矢理ねじ込まれたような、忘れられないあの姿… リュミエルは体を襲う嫌悪感に耐えきれず、ぷつり、と意識を落とした リュミエルが目を覚ましたのはそれから数時間後だった その時には騒動は収まっており、ふかふかのネルガルの寝室のベッドで目を覚ました だがそこにネルガルの姿はなかった 慌ててそばで見守ってくれていたロスに話を聞くと、あまりに傷が多いため、ベルの元で治療を受けているそうだ 悪魔の回復速度は早く、遅くても1週間で歩き回るくらいにはなるだろうと、ロスは言った その話を聞いてリュミエルは肩の力を抜いた ネルガルが死ななくてよかった 元よりそのために彼に会いに行ったが、赤髪の気迫を前にして、もうダメかも、なんて思ってしまったこともあり、深く安堵したのだ 同時にリュミエルは懐かしさを覚える 久しぶりのネルガルの寝室は、記憶通りで変わったものはないことに、妙に心が温まった 「君が、気絶したのは、ベル様の魔力に当てられたから。でも、もう大丈夫」 ロスは事の成り行きを話してくれた その言葉でリュミエルは最後のベルの姿を思い出す 記憶にモヤがかかってうまく思い出せないが、気絶するほどだから相当恐ろしいものだったのだろう 無理に思い出す必要もないためさほど気にすることはなかった 最初こそ渋っていたが、結局ネルガルを助けてくれたのだ リュミエルが彼らを怖がるのはお門違いだろう 「明日、会いに行く…?ネルガルのところ」 リュミエルがその言葉に頷くと、もう話は済んだのか、ロスはリュミエルをベッドに押し込み、部屋を出て行った その後、リュミエルも体を休めるべく目を瞑るが、なかなか寝付けなかった そわそわと寝返りを打ったりして時間を潰す ネルガルは大丈夫だろうか そんな気持ちが、リュミエルの頭の片隅に絶えずあった

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