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第35話
ふわりと、風がリュミエルの前髪を揺らす
最近はこれが、アスモデウスが現れる前兆とわかるようになった
「リュミちゃん、お菓子食べる?」
振り向くといつものように、アスモデウスが菓子を大皿いっぱいに乗せて微笑んでいた
この光景にも慣れたリュミエルは、アスモデウスから、なんの疑いもなくお菓子の山を受け取った
「じゃあ、私は他の悪魔たちも見なきゃだからもう行くわね」
アスモデウスはリュミエルの様子をチラリと見て、また風と一緒に姿を消した
ベルの姿なんて一度も見ていないし、2人とも随分と忙しいらしい
リュミエルは退屈そうに、菓子を摘むと、目線を下にさげる
そこには、規則正しい寝息を立てる、ネルガルがいた
ネルガルは目を覚ます気配はなく、リュミエルのひざを枕に、心地良さそうに眠っている
まだ昏睡して3日目
目を覚ますのは、あと数日ほど時間が必要だろう
リュミエル達がいるのは、ベルの宮殿だった
今までは知らなかったが、ここは魔界の中で唯一の診療所らしく、癒しの園と呼ばれているらしい
どうりでリュミエルがここにいた時も、妙に落ち着くわけだった
もちろんここにいるだけでは傷は癒えない
ベルとアスモデウスの力があってこそなのだという
とにかく、先日まで勃発していた戦争が終止符を打ち、伴って重症を負った悪魔たちはここに運ばれる
ネルガルもその内の1人だった
ただ、ベルとアスモデウスのたった2人で数百といる悪魔のケアをするのは流石に大変らしい
現に忙しくアスモデウスが動き回り、ベルに関しては姿さえ見ていない
邪魔をしてはいけないと思うのと、ネルガルの側にいなければ、という気持ちが相まって、リュミエルも大人しくネルガルとここに留まっている
「…ま…する、な…」
「……」
ときおり夢でも見ているのか、寝息と共に寝言を呟き呻く彼の頭を、リュミエルは優しく撫でる
ネルガルは寄せた眉をすぅと伸ばして、また規則正しい寝息をし始める
残忍な悪魔が、寝る時はこんなに無防備だなんて知っている天使は、後にも先にもリュミエルだけだろう
許したわけではない
ネルガルはリュミエルの翼を引きちぎったのだから、本当は怖いし、嫌だった
目が覚めたら、いろいろ文句を言ってやるつもりだ
しばらく一緒に寝てやらないし、グリフと仲良くして見せつけてやる
謝られたって、簡単には許さない
だから、
「早く、目を覚まして」
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ネルガルは、誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました
目の前には白い空間が広がっていて、何度もここに来たことがあるネルガルは、ああまたか、と思いながら伸びをする
「…んん…」
ふと、傍から幼なげな声が聞こえた
目をやると、雛鳥のように丸まり、控えめにネルガルに寄り添いながら眠るリュミエルの姿があった
その姿を見て、ネルガルはホッと息をつく
「お前、今喋ったか?」
「…」
穏やかに眠る天使に問いかけるが、もちろん返事が返ってくることはない
柔らかな髪をふわりと撫でれば、くすぐったそうに身じろいだ
ネルガルはリュミエルの体に腕を回し、優しく抱きしめる
しばし感じることのなかった温かな体温に、やっと触れることができてどれほど安堵したことか
「悪かった…リュミエル」
眠っている彼には届くはずもないのに、まるで懺悔するように呟いた
リュミエルの胸元に顔を埋めると、彼の心臓がとくん、とくんと鳴っていた
まるで確かめるように強く耳を押し付ける
規則正しく鳴る心音に心地よさを覚え、ネルガルはまた目を閉じた
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ネルガルが目を覚まして数日後
実にピッタリ一週間も経てば、ネルガルはすっかりいつもの調子に戻って、怪我も回復し1人で歩けるようにまでなった
「いつまでここにいるつもりよ。さっさと出ていって」
ネルガルの調子が良くなると、突然アスモデウスに宮殿から追い出されてしまった
いつも穏やかでニコニコ笑っている彼女が、あんなふうに冷たく言い放つ姿を見て驚いたが、リュミエルには変わらず、またおいで、と優しく言うので機嫌が悪いわけでもなさそうだ
彼女をこんな態度にさせるなんて、いったい何をやらかしたんだと訝しげにネルガルを見やると
「俺のせいじゃない」
なんて言って詳細は教える気は無いようだ
とにかく、宮殿を追い出された今、2人が向かうべきなのはネルガルの城なのだが、あいにくネルガルは片方の翼がなくて飛べず、かといってリュミエルがネルガルを抱えていくのも困難だ
歩いて帰るのも遠すぎる
それならばと、リュミエルはネルガルの手を引いてベルの元へ向かった
以前、ベルとアスモデウスは翼を持たないが故、馬に乗って移動していた
それを思い出し、馬を借りて帰ろうと考えたのと、ここを離れる前に一度挨拶がしたいと思っての行動だった
これがまた不思議で、会いたいと思った矢先、それを見て取るかのようにベルはリュミエルの前に現れるのだ
「僕をお探しかい」
ちょうどその場からベルを探しに行こうとしたところで、後ろから声をかけられ、振り向けば予想通り、ベルがそこに立っていた
ついこの前まで毎日ティータイムを共にしていたし、別れ際はあの恐ろしい後ろ姿が最後だったので、とても心配していたのだ
一週間ぶりの再会にリュミエルはなんだか嬉しくなり、思わず彼に駆け寄って思いのままにぎゅっと抱きついた
突然のことにベルは目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに笑ってリュミエルを抱き止めた
「おやおや、ずいぶん可愛くなって」
「はっ!?お、お前らいつの間に…」
「そりゃぁ、君がリュミちゃんをほったらかしている間、僕たちとずっと一緒にいたもんね」
「それは…仕方なく…」
「楽しかったよね。あんなことやこんなこと、一緒にしたもんね」
「…リュミエル。戻ってこい、おい、リュミエル」
ベルの意味深な言葉に、ネルガルは慌てた様子でリュミエルを呼び戻そうとする
実質、ベルとアスモデウスとしたことなんて雑談する茶会か、昼寝の添い寝くらいしかしたことないが、慌てふためくネルガルを見て、いい気味だ、とリュミエルも彼にべっと舌を出した
初めて見た行動に驚くのと、拒絶されてショックを受けるのとネルガルは大変そうだったが、そんな彼を無視してリュミエルはベルに向き直った
「ん、ん」
「うん?馬を貸せって?」
「何でわかるんだよ」
それに関してはリュミエルも同感だ
ネルガルを始め、ルシファーやアスモデウスともあやふやなやりとりが多いのに、ベルだけは鮮明に意思疎通ができるのだ
魔界語、天界語関係なくこれほど会話ができていることから、彼は思考が読めるんじゃないかと勝手に思っている
そうじゃないと説明がつかないのだ
と、そんなことは今はどうでもよくて、馬のことが彼に伝わったのならそれで良いのだが、なぜだかベルは不思議そうに首を傾げた
「なぜ馬が必要なんだい?」
「忘れたか?俺はもう飛べないんだ」
「それはわかるけど。迎えなら来ているでしょう?」
ベルがそう言った瞬間、頭上でバサっと何かが羽ばたく音と同時に、突風のような強い風が吹き荒れた
「ほら、来たよ」
「迎えって、こいつかよ」
頭上から現れたのは、大きな翼の生えた獣のようなもの
上半身は鳥のようなのに、下半身は力強い獅子の体、背中には大きな翼が生えており、それが羽ばたく度に突風が巻き起こる
獣を見て、ネルガルは明らかに嫌そうな顔をした
リュミエルも威厳のある巨体に後ずさるが、そんな2人を気にしてか、してないのか、ベルはさあ、と獣に乗るよう促した
「まあ、歩くよかマシか?」
そう言ってネルガルは獣に近づくと、まずはリュミエルを抱え上げて乗せると、その後自分も獣に飛び乗った
獣はネルガルが乗った瞬間、グルル、と多少唸ったが、暴れるそぶりは見せない
獣の毛並みは整っていて触り心地が良く、恐る恐る撫でてやると、喜んでいるのか軽く尻尾を振っていた
「世話になったな」
「本当に。次はないよ」
「わかってる」
2人は軽く会話を終わらせると、ベルはリュミエルに向き直った
「リュミちゃんも、またおいで。サタンには僕から言っておいたから、もう心配ないさ」
そう言ってベルはリュミエルに手を振った
サタンとは、あの赤髪のことだろうか
詳しくはわからないが、ベルがそう言っているのだから、本当に不安要素は無くしてくれたのだと思った
最初こそ悪魔は怖い、恐ろしいと考えていたが、今や何の疑いもなくベルを信用していることに、自分でも驚いていた
それほど、心を許したのだろう
別れるのは惜しいが、きっとまたすぐ会える
リュミエルは控えめにベルに手を振りかえした
挨拶が終わったことを察してか、獣は力強く羽ばたいた
一瞬揺れて体が傾くが、すぐにネルガルが支え直してくれるため、落ちることはないだろう
リュミエルは最後にまたベルに手を振った
彼も微笑んで、見送ってくれた
このところ、いろんなことがいっぺんに起こって大変だった
思い返せばどれもめちゃくちゃだ
勘違いして羽を引きちぎるのも、リュミエル1人が原因で戦争を起こすのは、今後はなしにしてほしいものだ
だが、決して悪いことばかりではないだろう
一連の出来事のおかげでリュミエルもいろいろ学んだ
あんな体験をしてしまっては、もうリュミエルに怖いものはないだろう
今では悪魔に過剰に怯えることもなく、堂々と前を向いて歩けるようになった
信頼している者が傍にいるのだから、何も恐るることはないのだと、そう思えるようになったからだ
風が強く吹いて、リュミエルの体は耐えきれず後ろに傾いた
だが落ちることはない
そこにはリュミエルを後ろから支える、黒い悪魔がいるからだ
彼はリュミエルを支えながら、どさくさにリュミエルに抱きついてくる
正直ムカつくところもあるが、今だけは、許してやることにしよう
獣の翼は思ったよりも早く、ものの数十分で城についた
懐かしい雰囲気に思わず力が抜けるのは、リュミエルだけではないはずだ
獣はゆっくりと降下し、揺れないよう慎重に地に足を降ろした
2人が降りやすいようにわざわざ屈んでくれて、なんて紳士なんだろうとリュミエルは感心する
「もう戻れ、グリフ」
ネルガルは降りると、獣にそう言い放った
その言葉を聞き、獣はグルルと一声唸ると、大きな翼を一振り。
たちまち風が巻き起こる
リュミエルは咄嗟に目を瞑り、目を開けた時にはそこに獣の姿はなく、代わりにぜぇぜぇと息を荒くしたグリフがそこに立っていた
「はぁ、はぁ、あの人は、相変わらず悪魔使いが荒い…」
「苦労だった」
「本当ですよ!?全く、あなたって人は…」
「説教は後でいい。腹が減った」
まさか、グリフがあの獣だったなんて信じられず、唖然とするリュミエルを置いて、2人はいつも通り会話をするので、聞くにも聞けない雰囲気だ
「ああ、リュミちゃん!よかった、よがったよぉ」
「ん、ふぅっ!?う、う!」
「おい、リュミエルが潰れる」
「よかったねぇ、すごく心配したよぉ」
獣の姿から人型に戻ったグリフはいつもの気弱そうな雰囲気に戻ってしまい、途端にリュミエルに抱きついた
大粒の涙を流しながら強い力で抱きしめるグリフから、苦しそうにもがくが離してくれない
呆れたネルガルが引き剥がしてくれるまでその状態はしばし続いた
グリフにも会ったのは久しぶりだった
1週間前にネルガルの城に戻った時も、慌てて飛び出したものだから、顔も見れなかった
これほどまで心配してくれているなんて嬉しい限りだが、なかなか泣き止まない彼に少し引き気味だ
「お帰りなさいませ」
グリフの手を引いてなんとか城に入ると、大人数の使用人がズラリと並んでネルガルたちを出迎えた
久しぶりの主人の期間に喜びもせず、いつも通りの調子の彼らに冷たいな、なんて思うのも束の間、リュミエルと目が合った瞬間、悪魔たちがふにゃりと口元を緩めた
彼らはいつも機械的で、笑っているところなど見たことなかったリュミエルは驚いた
多少の違和感がありつつも、また前の生活に戻れるのだと、リュミエルは安堵する
攫われた時はどうなることかと思ったが、リュミエル、ネルガルともに誰も欠かすことなくここに戻ってくることができた
痛いことも、怖いことも一通り経験したリュミエルだったが、ただ怯えるだけではないこともしっかり覚えている
また平穏な暮らしが続くだろう
しばらくは、このまま静かにしていたいものだが
その時の、リュミエルは呑気にそんなことを考えていた
何も知らないリュミエルは、また新たな問題が迫っているなど、考えもしなかったのだ
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「もう時間がない。天使たちが来る」
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