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第36話

「リュミエル様〜」 「リュミ様!どこにいらっしゃいますか?」 ネルガル城では、使用人たちがリュミエルを呼ぶ声が響き渡る 以前まで使用人までもがリュミエルに関わることは少なかったが、今となってはこれが日常だ リュミエルは使用人たちの声を聞きながら、余裕そうに伸びをする だってここなら、絶対見つからない リュミエルは庭に生える高い魔性の木の上で、優雅に使用人たちを見下ろしていた 「どこにいらっしゃるのか」 「北棟は見たか?」 「いいえ、まだ。そちらも見てみましょうか」 使用人たちはリュミエルの姿が見えないと、しばらく探した後、他の場所へ探しに行った それを見てリュミエルはふぅと息吐くと、まだまだ上へ伸びる枝へと手をかけた 「気をつけて」 一緒に木に登っていたロスに指摘されながらも上を目指す だんだん高くなる目線に恐怖は感じない むしろ風が羽を掠める感覚は、懐かしささえ感じた ギュッギュッと、枝を跨いでついに天辺まで登り着く 広い、広い魔界の景色がいっぱいに映る 相変わらず殺風景で何もない 目を凝らすと、遠くにベルの宮殿やルシファーの城など、建物がチラホラ見える程度 天界はそれほど広くなかったため、ここに来た当時はとても恐ろしかった でも、今はそうではないかもしれない 天界では、ミカエルの宮殿から外に出ることは許されなかった 故に、空を飛ぶことは出来なかったし、元々下手くそだった だから、滅多に飛ぶことはなかった リュミエルの翼は、あっても無くても同じようなものだったのだ それを、ネルガルは自身の翼と引き換えに、リュミエルに自由を与えたのだ 彼の翼を背負った今、この広い魔界の空を、飛んでみるのも悪くないと思うのだ ネルガルの翼も、持て余しては可哀想だし 「いいよ」 リュミエルの気持ちは、傍にいたロスにも伝わったようで、彼はリュミエルの体を支えるように持ち上げる リュミエルの体はふわりと持ち上がり、大きな風に煽られて、服がひらひら舞った 風が心地いい すんと鼻を鳴らして嗅いだ匂いは決して良くはなかったが、なんとなく、自由の匂いがしたのだった ああ、飛びたい、この空を 無意識に広げた翼がふるふると震えている ネルガルの翼も、その瞬間を待ち侘びているようだった 「飛んで」 ロスの言葉をきっかけに、リュミエルは翼を大きく羽ばたかせた バサバサッとけたたましい音を立てながらリュミエルが地に落ちたのは、そのすぐの出来事だった 羽ばたいて飛び出したまではよかったのだが、そう簡単にはいかずリュミエルはバランスを失い、そのまま真っ逆さまに落ちて行った 何せリュミエルの羽と、ネルガルの翼は左右で大きさが全く違うのだ この前は奇跡的に飛べたものの、その奇跡は二度は起こらなかったということだ 「かくれんぼはお終いか?リュミエル」 通常なら、リュミエルは今頃大怪我を負っているはずだろう それでもぴんぴんしていられるのは、リュミエルの真下で待ち構えるように立っていた彼に受け止められたからだ 「お前はほんとに無茶をするな。全く、目を離すといつもこれだ」 そう、ネルガルは呆れを含めた言い方でで不満を漏らす だがリュミエルはそんなことも関係ないように、手足をこれでもかとバタつかせた 暴れるリュミエルにため息を吐きながらゆっくりその体を降ろすと、足が地面についた瞬間、ネルガルから距離を取るようにリュミエルは走り出した 「おい待て、リュミエル!」 もちろんそのまま行かせるわけもなく、ネルガルも後に続く 向かう先はロスがいる場所 木から飛び降りたロスは、すでにグリフに噛みつかれている最中だった 「どうしてあなたは、そう無責任なんですか!リュミちゃんが怪我でもしたらどうするつもりですか」 「ネルガルがいた、大丈夫」 「関係ないです!あなたがちゃんと見てられないなら今すぐ出ていきなさいっ!」 言い争う、と言うよりはグリフが一方的にロスに怒鳴りつけていた リュミエルはその間に入るように、ロスに飛びつく リュミエルが現れたことでグリフはたじりと押し黙ってしまった リュミエルはと言うと、2人の雰囲気をお構いなしに、縋るロスの服の間へ潜り込む おかげでネルガルはそれ以上追うことができず、腕を組んで立ち止まってしまった 「出てこい、なあ、リュミエル」 「ネルガル様も何か言ってください!何故この下賎な犬にリュミちゃんを任せるのですか!?以前の彼の軽率な行動を、忘れたわけではないでしょう」 「そうは言うがな、俺もお前も忙しい。暇なやつなどコイツしかいないだろ。それに、リュミエルもコイツに懐いている」 「な、懐いてなどいません!…ね?リュミちゃん、出ておいで…?」 ネルガルの言葉に慌てて返すと、グリフはリュミエルに両手を広げて自分の元に来るようジェスチャーする それにリュミエルは悩んだ グリフは嫌いじゃない。むしろ勉強を教えてくれるから結構好きだ それでもロスの懐から出られないのは、ネルガルと顔を合わせたくないのともう一つ、そうもロスに強く当たらなくてもいいじゃないか、とリュミエルは不服に思っていたのだ グリフは何故かロスに厳しい ロスは気にしているように思わないが、グリフは明らかに毛嫌いしているようで、いつもロスに暴言を吐いている あまり見ていて気分が良いものではない リュミエルは悩んだ末に、結局ロスの懐から出ることはなかった それに、ネルガルもグリフも落胆するが、グリフは諦める気はないようだった 「…リュミちゃん、お菓子をあげるから、出ておいで?」 「っ!」 お菓子は、魔界ではなかなか食べることができない 理由は植物が極端に少ないため、材料が入手しずらいのだ ベルの宮殿ではお菓子の達人、アスモデウスがいたため、たらふく食べることが出来ていたが、こちらに帰ってきてからはなかなかその機会はなかった 甘い、美味しいお菓子 釣られるには充分すぎるものだった 「今日は、雫花が咲く日。見に行く?」 菓子に釣られてロスの懐から顔を出した時、まるで張り合うようにロスに問われて固まる 雫花とはなんなのか、気になる でもお菓子も食べたい 雰囲気的にどちらも一緒に、ということはできなさそうだ どうしたものか ロスかグリフ お菓子か花 この機会を逃したら、と思うとやはりどちらも捨てがたい リュミエルは二つの誘惑に右往左往としていると、冷めた目で見ていたネルガルが間に入ってきた 「おいもういいだろ、リュミを困らせるな」 「ですが…っ!」 「もう時間も遅い。菓子も花も明日にお預けだ」 ネルガルにそう言われて気づく 辺りはすでに暗くなっており、ぼんやりと霧も立っていた 夜になると悪魔や魔獣が活発になるので、そろそろ部屋に戻らなければいけないようだ 菓子も花も気になっていたが、それを今日中にすることは難しくなってしまった リュミエルはしょんぼりしながらも、いつも通りロスと共に部屋に向かおうと彼と手を繋ぐが、その手を無理矢理ネルガルに引っ張られた 「今日は、俺に付き合え」 「っ!?」 リュミエルが反応する前に、ネルガルは素早くリュミエルを担ぎ上げた 「ゔー!、うっ」 「動くな、落ちるぞ」 リュミエルはバタバタと羽を揺らしてみたが全く意味はなく、ネルガルが離してくれることはなかった その様子を見つめるロスは名残惜しそうに、グリフは羨ましそうな目で立ちすくんだままで、助けてくれない ネルガルの長い足では、2人はすぐに遠くなる 少し距離が空くと、またグリフがロスに向かってぐちぐちと文句を言い始めたのを見ては、そのうちリュミエルの暴れる気も失せてしまった 大人しくなったリュミエルを連れて行くのは、行き慣れた浴場だった 脱衣場でネルガルは己の服と、リュミエルの服を乱雑に、でも丁寧に剥ぎ取ると、有馬を言わせない素早さで浴場に放り込んだ それでも暴れるリュミエルを固定し、湯をかけ、体を洗っていく 木を登ったり、庭を走り回ったりしてついた汚れたは、ネルガルによって綺麗に落とされたのだった 「まだ拗ねてるのか?」 浴槽に入る頃にはリュミエルも諦めがつき、ガッシリ横抱きで固定されながら、湯に浸かる むくれるリュミエルに頬擦りながら聞いてきたネルガルに、リュミエルは鬱陶しそうに顔を背けた 「悪かった、お前を傷つけて、怖い目に合わせたりして…ついカッとなっちまったんだ。お前に裏切られたと思って。もう、あんなことはしない」 「………」 その言葉は、もう何度も聞いた リュミエルは反応することなく、顔を背け続けた 一体リュミエルが何に怒っているのか、ネルガルは全く理解していない 確かに羽をもがれたときは、それはそれは痛かった 皮膚と神経が剥がれていく感覚は、今でも鮮明に覚えているほど、耐え難い苦痛だった だからネルガルはその事を必死に謝っているのだろう でも、リュミエルが気にしているのはそこではない 「ごめんな、綺麗な翼だったのに…」 変わらない態度のリュミエルに構わず、泣きそうな顔で黒い翼を撫でた そういう本人の背には、もう翼すらないと言うのに、彼はまだ、リュミエルの背を撫でるのだ 違う、そうじゃないのに 心で思いはするものの、それを伝えようとはしない この気持ちは彼には理解出来るはずがない 彼は悪魔だ 残酷で、無慈悲な、悪魔なのだ それでも彼を恐ろしいと感じなくなってしまったのは、彼が持ち得る底なしの素直さに気づいてしまったからだ わかっているからこそ、それを酷く寂しく思ってしまうのだ リュミエルは考えを振り払うと、焦ったさに徐に振り返り、ネルガルの頬を思いっきりつねってやった 「いてっ」 彼の頬はリュミエルの手によって引き攣り、口が大きく歪む 唇から覗く白い歯は、ガタガタだった むしろポッキリと半分に折れているものさえある きっと、サタンとの戦闘の際に折れてしまったのだろう それを見てリュミエルはまた嫌な気持ちになる どうしてあんな無謀なことをしたのか あんなことしなければ、事がこんなに大きくなることはなかったのに 複雑な想いが押し寄せ、眉を顰めるリュミエルとは対照的に、ネルガルは嬉しそうに顔を綻ばす よほどリュミエルが反応してくれたのが嬉しいのだろう それもそのはず、あの件以来、リュミエルは徹底的にネルガルを避けていたのだ 「リュミ、リュミエル」 「んっ…」 ネルガルは歪んだ唇から舌を覗かすと、そのままリュミエルの唇へと押し付けた かぶりつくようにリュミエルの唇が奪われる リュミエルは慌てることも拒むこともせず、ただそれを大人しく受け入れた 恐怖からではない 初期には感じなかった、彼への哀れみと同情心の末に起きた結果だった 彼の長い舌は躊躇なくリュミエルの口内に押し入る 歯列をなぞり、舌を絡ませ、リュミエルの口の中をまるで探検するようにぐるぐると暴れ回る 「んっ、んっ」 口内の愛撫は止まることなく、仰け反るリュミエルの背をネルガルはガッチリと囲い込み離さない 久しぶりのそういった行為にリュミエルが耐え切れるわけもなく、塞がれた口からは、しきりにくぐもった声が漏れ出ていた 「ん、…うっ!」 突然リュミエルの口にピリッとした痛みが走る 同時に鉄の味が広がり、ネルガルも慌てて顔を離した どうやらネルガルの歯がリュミエルの唇を切ってしまったようだ 欠けたまま放置された歯はギザギザしていて、場所によっては針のように尖ってしまっていた 「リュミっ、悪い、そんなつもりじゃないのに…俺またやって…ごめん、ごめんなリュミエル」 大した傷ではない それでもぷつっと切れたリュミエルの唇を見て、ネルガルは過去の光景がフラッシュバックでもしたのか、これでもかと慌てふためく 「お前を傷つけないって決めたのにな…早速これで、情けない」 「………」 ネルガルは泣きそうな顔でリュミエルの唇を撫でる こんな弱気なネルガルを見るのは初めてで、いつも自分勝手な行動をするネルガルの姿はそこにはなかった リュミエルよりも怯えた顔をするものだから、どちらが被害者かわからないくらいである 揺れる瞳とカチリと合う どこか怯えたような、まるで叱られた子供のように なんとなく既視感の沸いたその顔に、リュミエルは釘付けになってしまった 彼の言葉は、もうわかる 最初こそ途切れ途切れだった魔界語は、もうすっかり理解できるようになった だから、ネルガルの伝えたいことは、よくわかる でも、ネルガルは? ネルガルは、リュミエルの伝えたいことがわかっているのだろうか 否、そんなはずはない 言葉どころか、声すら出せないリュミエルから伝えられるのは、ほんの一握りの表現だけ 種族も違えば、言語も違う ネルガルはそんなリュミエルから意図を汲み取ろうと努力していたのは、わかる 対してリュミエルは、ネルガルを知るどころか自分のことを伝えようとしただろうか もし、もしだ リュミエルがいなくなってしまったことで、ネルガルが不安に思ってしまったのなら 彼に疑心を抱かせてしまったのなら それは少し、リュミエルの責任でもあるのだろうか 「リュミエル…?」 未だ眉を寄せるネルガルの首に手を回す 言葉が使えないのなら、態度で示すのが当然であろう リュミエルは困惑するネルガルにグッと顔を近づけると、そのまま唇に触れるだけのキスをした ちゅっ、と小さなリップ音が響く 一度顔を離すと、目を見開くネルガルの姿が視界いっぱいに広がった それがなんだか可笑しくて、リュミエルは穏やかに頬を緩めると 『笑って』 いつもの身勝手なネルガルに戻って欲しい リュミエルは彼に伝わるよう、ゆっくり丁寧に口を開閉した 静かな浴場の中に、バシャンと一際大きく水音が響いた

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