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第37話

「時間がない」 カチャンとティーカップをソーサーに置いた音と共に、ベルの声が広い空間に響く まるで虚空のようにも思えるほど、広く暗いその空間は、まるで人気がないように感じるにも関わらず、そこにはベル以外にももう1人の人物が存在した 「…何をそんなに焦っている…」 小さく、か細い、老いぼれた声だが、何の音もしないその場所では、ハッキリと聞こえるほどだった 「…ルシファー、貴方ってどうしてそんなに呑気にしていられるのか、僕は不思議でたまりません」 「…何が気に入らないのだ。これでも私は魔界の王ぞ。お前にとやかく言われるようなことを、私はしたのか?」 ベルの顔は相変わらずベールで覆われていて見えないが、声だけでも伝わるほど、ベルはわかりやすく呆れていた そんなベルにルシファーは納得のいかないような声をあげた もっとも、ボロボロの四肢がベッドに放られている今、抗議するような激しい行動は不可能であるから、精一杯言葉で伝えるしかなかったのだ 「あのねぇ、貴方みたいなのが王だから、こんなことになってるの。今回の兄弟喧嘩も、貴方が無闇に首突っ込むから激化した」 「私が悪いのか…?」 「そのせいで各軍の半分以上が壊滅。負傷者は後を絶たない。切り札のネルガルは重症。貴方も…そんな姿になってしまった。今や魔界は全く調和が取れてない。どれもこれも貴方が統制を怠ったのが原因では?」 ルシファーの態度に苛立ちが募ったのか、捲し立てるように言うと、ベルは再びカップを口に運んだ ベルの言葉に何一つ反論できないルシファーは押し黙ってしまう これほど不満を垂らしているベルを見るのは珍しい よっぽど気に入らないことがあるのか、あるいは彼を焦らせている何かがあるのか 「ふむ…全くもってお主の言う通りだが、何をそんなに焦っているのだ?こんなこと今まで何度もあっただろう」 「前回、僕が言ったこと覚えていますか?リュミエルは、火種になると」 「そんなこともあったな」 「何か、胸騒ぎがするんですよ。次の天使との戦争、今までのお遊び程度では済まないと」 ベルはふぅ、とため息を吐く まるで言い切った、みたいな雰囲気を醸し出しているが、ルシファーには全く伝わっていなかった つまり、戦争に備えて力を蓄えるべきだと言うことは理解できたのだが、結局その胸騒ぎの原因は何なのか、戦争で何が起こるのか、肝心なことは教えてはくれないのだ 昔からベルの言葉はいつも曖昧で、確信から少しズレたような言い方をする それがただの癖なのか、何か意味があるのか、ルシファーにはまだわからない 「とにかく、一度皆と話し合いましょう。今後のことについて」 「…もうよい、お主がそう言うんだったらそうなのだろう。好きにしなさい」 ルシファーは半ば投げやりになりながらも、ベルの言葉に了承した ベルは話がつくとすぐに立ち上がる 数歩歩くと、何もなかったそこに一つの扉が現れる ベルは足早に扉を潜ると、扉を閉める前に一言、思い出したかのようにルシファーに言った 「ああそう言えば、ネルガルの翼、リュミちゃんにあげちゃいました」 「…い、今…なんと…?」 「悪魔と天使の融合は禁忌ですけど、許してくださいね」 「ま、待て!ベルフェゴールっ!」 慌てて止めるも、ベルは知らんぷりでルシファーを置き去りにする キィ、と嫌な音を立てながらドアが閉まると、再びそこは暗闇と静かな空間へと変わった ルシファーはわなわなと伸ばした手を、諦めて降ろす 今はまともに動ける状態じゃない サタンにボロ負けして散々痛めつけられたルシファーの四肢は、動かすのでさえやっとで、今はベルの加護の元、治療中だ ベルを罰するのも、この傷が治らなければままならない 力なく横たわるルシファーは額に手を当て、深いため息を吐いたのだった —————————————————— パラパラ…カリカリ… 「………」 「すごい集中力ですね」 「用がないなら失せろ。邪魔するな」 ネルガルはしっしっ、とグリフを手で払うが、グリフは構わずそこに居続けた リュミエルがいるのは、ネルガルの書斎 近日のこともあり、リュミエルを1人にすることを懸念したネルガルは、ついにリュミエルを仕事場まで連れてきてしまったのだ とくに部屋ですることなど勉強くらいしかなかったのでリュミエルは気にしていない ネルガルも仕事中は集中しているので、ちょっかいを出してこないからありがたい 書類に目を通すネルガルの横にちょこんと座り、本の読み書きを勉強する わからないところがあればすぐ隣に聞けるので、なんだかんだ助かってはいる 「邪魔だなんて、違うよね?リュミちゃん」 「………」 グリフが何か言っているが、リュミエルは特に反応せず本を読み進める グリフはその様子を見てがっかりしたのか、悲しそうに顔を歪めて項垂れた さらにその様子を見たネルガルは嘲笑と共に、グリフを小馬鹿にするように机に肘をついて見せた 「最近、私に冷たいです…」 「嫌われてるんだろ」 「そんなことないですよ。ねぇ、リュミちゃん…リュミちゃん?……おーい、リュミちゃあん……」 何度も名前を呼ぶが、反応しないリュミエルにグリフはしおしおと項垂れる 嫌いではない、ただ、構うと鬱陶しいのだ そんな思いからグリフには目を向けず、もう一枚本のページをめくる そろそろ魔界語は理解できたが、読み書きがまだ難しい それさえできれば、紙に文字を書くなどして意思疎通ができるようになる そうすれば、今の状態も少しはよくなるだろう リュミエルに構ってもらえないとわかったグリフはとぼとぼと書斎から出ようと、扉に手をかけようとした時、反対から誰かが扉を開けた ここの扉は全て内側に開く つまりたった今同じように開けようとしていたグリフ目掛けて開くのだ この後どうなるのか、誰でも容易に想像できるだろう ゴンッと痛々しい音が響いた後、グリフはよろめきながら額に手を当てた 「い"っ、ちょっと!ノックしてから開けろとあれほど言ったでしょう!」 「どいて、邪魔」 「はぁ!?」 扉の向こうから出てきたのは、ロスだった 相手がロスだとわかるとグリフはさらに声を荒げるが、ロスはそんなこの関係ないようにグリフをスルーして、ネルガルに向き直った 「ベル様が、呼んでる」 「ベルが?」 「ベルゼ城で会議…リュミエルも一緒に」 そう言うとロスはネルガルから視線をリュミエルに移す どこか不安気な表情に、リュミエルも顔を顰める それはネルガルも一緒のようで、リュミエルを連れて行く理由がいまいちわからないようだった 「なぜリュミちゃんも?私が面倒見ておきますよ」 「わからない、ベルが、連れてきてって」 どうやらその理由はロスも知らないようで、グリフと互いに首を傾げていた だがここにいても仕方がないと、ネルガルは立ち上がる 「行けばわかるだろ」 「でも、会議ってことは、他の悪魔もいますよ?…もちろんサタンも…」 グリフはちらりとリュミエルを見やる それもそうだ つい最近サタンには酷いことをされたのだから あれは許される行為では無い そんなことネルガルもグリフも、ベルだって知ってるはずだ それでもベルがサタンがいる場所に来いと言うのは、それほどの理由があるからだろう ネルガルが危惧しているのは、リュミエルの精神を気にしているのだ トラウマになってはいないか、ストレスになってしまわないか、そんなことを考えているのだ 前はそんなこと気にする素振りも見せなかったくせに、この頃リュミエルに過保護になっている気がする それはネルガルにとってリュミエルが、それほど重要な存在になったからだろう 顔色を伺う2人を一瞥して、リュミエルは立ち上がる ここで考えていても仕方がない もう今までのリュミエルとは違うのだ 2人にも、それを理解してくれるように示さなければ リュミエルは隣にいたネルガルの袖を掴んで一緒に連れて行く その行動にネルガルとグリフは目を見張った 嫌がったり、逃げたりするんじゃないかと考えていたが、むしろ決心したような表情を見て驚いたのだ だが、リュミエル本人がその気ならと、ネルガルも支度を始める 「行くか、リュミエル」 そう言ってネルガルがリュミエルの手を取れば、何か言いた気だったグリフも押し黙った 心配そうに見ているグリフには申し訳ないが、リュミエルもサタンにむしゃくしゃしているのだ やられっぱなしじゃいられない そう思いリュミエルは強く拳を握った   「ようこそ。私はベルゼブブ。ルゼと呼んでくれ…と言っても、君は話せないのか」 豪華で広い城につき、無駄にデカい門をくぐる 広い庭の長い道のりの後、扉を開けるとそこにそいつはいた 名乗ったのは、背の高い紳士的な男だった 顔には髭を生やしており、かなりダンディな出立だ 男はネルガルを丁寧に出迎えると、今度はリュミエルに向き直った 彼の名はベルゼブブと言うらしい 有名な大悪魔の1人で、暴食を司る悪魔 その事実にリュミエルはゴクリと喉を鳴らし、警戒気味にネルガルの背に隠れた だがベルゼブブは悪名高い名称とは異なり、案外丁寧な挨拶をしてくる 洗礼された所作で男らしく、でも細長い指が、リュミエルに差し出される だがリュミエルはベルゼブブを信用できない その手を握ろうか断ろうか迷っていたが、遮るようにネルガルが、差し出された手をはたいた 「気安く触んじゃねぇ」 「おっと、ずいぶんと大事にしているようで…でも確かに、噂に聞いた通り可愛らしい」 「気色悪りぃな。さっさと行くぞ」 「つれないな、まだ怒っているのか?まさかお前が負けるなんて思わなかったから、つい出来心だったのさ」 「そんなんじゃねぇよ」 ネルガルはリュミエルの手を引いて、ベルゼブブの横を通り過ぎる ベルゼブブは2人を後から追いかけるが、依然ネルガルは聞く耳を持たなかった ネルガルがサタンと争った時、サタン側の援護として、ベルゼブブの配下も参加していたそう そのこともありネルガル同様、リュミエルもあまり関わりたくないと考えていたため、ネルガルにぴったりくっついて隣を歩いた 「おい、さっさと案内しろ」 「ん?ああ、ウチに来るのは久しぶりだったね?これは失礼」 それまでネルガルが先頭で歩いていたが、途中でピタリと立ち止まると、嫌々ベルゼブブに振り返る ベルゼブブはハッとした顔をすると、優雅な足取りでネルガルの前に出た 「さあどうぞ。君たちが最後だよ」 しばらく歩くと一際大きい扉の前で立ち止まる ベルゼブブの配下がササッと扉に手をかけた時、リュミエルはゴクリと喉を鳴らした ここに、全ての上級悪魔が揃っている ルシファーやベルにはもう慣れたとは言え、やはり何でもない天使のリュミエルが面と向かって会うには、恐ろしいことだった そして、この扉の奥には、あの憎きサタンもいるはずだ リュミエルは緊張と怒りでネルガルの手を強く握る そんなリュミエルの手を、ネルガルも強く握り返すのだ 「ようやく来たな、遅刻魔が」 「待ちくたびれたよ」 「モタモタするな、愚弟め」 扉が開かれると、奥から様々な声が聞こえるその中で、忘れもしない奴の声が聞こえたのだ リュミエルは他には目もくれず、その声のした方向にバッと顔を向ける いた 燃えるように赤い髪に立派な3本の角。大きな翼にネルガルにそっくりな、切れ長で鋭い目 間違いなかった リュミエルは彼を見つけた途端、ネルガルと繋いでいた手を勢いよく振り放す 突然のことにネルガルはわけのわからない顔をしていて、どうした?と言った心配の声を漏らしていた だがリュミエルはネルガルを無視して歩み出す 迷いなく真っ直ぐ進む先は、あの悪魔、サタンがいた 呆気にとられたネルガルはその姿をぼーっと見ていたが、リュミエルがやろうとしていることを理解するや否や、慌てて後を追いかけるが、その時にはもうリュミエルはサタンの目前に迫っていた 堂々と、何も悪びれる事なく、豪華な椅子に座るサタン 彼もリュミエルが何をするのかわからないようで、鋭い目つきのまま固まっていた サタンのすぐ傍までたどり着いたリュミエルは、大きく手を振りかぶる その時になってようやくサタンの目が大きく見開かれたが、すでに遅かった パァンッと乾いた後が、広い会議室に響き渡る そこにいる誰もが息を呑み、凝視する そう、リュミエルは、あの上級悪魔であるサタンに、平手打ちを喰らわしたのだ 「あらま」 「こりゃたまげたな」 「すっげぇ…」 しばしの沈黙の後、チラホラと困惑の声が聞こえるがリュミエルの知ったことではない 目を見開き固まるサタンに、今度は反対の手を振りかざしたところでネルガルが止めに入る 「おい!落ち着けリュミエル!」 「…っ!このクソ鳥めっ、よくも俺に…!!」 サタンの頬は、無傷だった リュミエルの力だけでは、サタンに傷を負わせるほどの勢いはない それでも衆目の前で、足元にも及ばぬほど弱い天使にビンタされるなど、プライド的にくるものがあるのだろう 逆上したサタンは、片手に火の玉を握ると、リュミエルに向かって振りかざすが、寸でのところでネルガルがリュミエルを引き寄せ、炎が体に当たることはなかった だがリュミエルの体は、圧倒的な魔力量に怯え、信じられないくらい手足が震えた それでもリュミエルは絶対にサタンから目を逸さなかった グググッとリュミエルの両の翼が大きく開かれる 震えても尚、獲物に噛みつく勢いで睨みつけるその姿は、まるで天使とは言えない姿だった 「はぁい、そこまで」 一触即発、と言ったところで軽やかな声が響く その声の主はアスモデウスだった 皆の視線が一斉にアスモデウスに移る 次に、隣にいたベルが穏やかに言った 「もう、余興は充分でしょ」 ベルの言葉に息を呑む それは、燻る手をかざしていたサタンも同様だった 優しく、怒っている声音ではない それでも、彼の無言の圧が全体に充満した サタン共に、リュミエルも開いた翼をゆっくり畳む その様子を見て、ネルガルホッと息をついたのだった

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