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第一章(十六)最後の手段

 日下(くさか)の状態は日増しに酷くなって行った。  夕方になると酒を飲みに出かけ、朝方になると酔っ払って帰ってきては大声を出して暴れた。  家庭が平和なのは、日下のいない時だけだった。  (みゆき)が自宅に帰ると、もう夕方を過ぎているというのに、珍しく日下がリビングでテレビを見ていた。 「あっ」  幸は驚いて、思わず声を漏らしてしまった。  すると、その声を聞いて日下が振り返る。 「よく帰ってこれたな!」  日下は大きな足音を立てて幸に近付くと、髪を引っ張って風呂場に連れて行った。 「これならジジイにもバレないだろ!」  そして、洗面器に水を出すと、幸の顔を突っ込んだ。 「んっ、んっ、んっ!」  日下はもがく幸の顔をさらに深く沈める。 「死んじまえよ!」  幸は一瞬顔を出すが、またすぐ沈められる。  顔を上げては沈められ、また上げては沈められた。  幸は怖くて苦しくて、助けを求めようともがくが、声はただの泡になって消えた。 「死ね! 死ね!」  そうして、日下は何度も何度も幸の顔を洗面器に沈めた。  (めぐみ)が帰ると、玄関には二足の靴があった。  幸と日下だ。 「ただいま」  恵は挨拶をして中に入ったが、日下がいる事に嫌な予感を覚えた。  不安を抱きつつリビングに向かうと、風呂場の方から水音と日下の罵声が聞こえてきた。  恵が慌てて風呂場に行くと、日下が幸の顔を洗面器に押し付けているところだった。 「やめて! 幸が!」  叫びながら、やめさせようと日下の腕にすがりついた。  しかし、日下は乱暴に恵の手を振りほどいた。 「邪魔するな! こんな奴は死んだ方がいいんだ!」 「やめてって!」  恵は幸を抱きかかえるようにして、日下から引き離した。  幸は解放されると、口から水を吐きながら激しく咳き込んだ。 「大丈夫?」  恵は心配そうに幸の背中をさすった。  日下はそれを一瞥すると、興味をなくしたように風呂場から出て行った。  そして、着替えをすませたところで、リビングに恵のカバンが投げ捨てられているのに気付いた。  今日は飲み代もないし、久しぶりに恵と一緒に過ごそうと思っていたが、鬱憤を晴らす為に飲みに出る事にした。 「出かけてくる」  日下はカバンから財布を盗み出すと、足早に家を出た。  恵は幸を風呂場から連れ出し着替えさせると、ベッドに座らせた。 「何があったの?」  幸は聞かれても、うなだれたままで何も答えようとしない。 「お父さんと何かあったんじゃないの?」  恵も日下が幸に腹を立てている事は知っていたが、なぜそんなに怒っているのか全く分からなかった。  日下はどちらかというと気弱な性格で、今まで声を荒らげる事など一度もなかったのだ。  恵は何も話そうとしない幸に苛立ちを覚えた。 「ねえ、何があったか答えてよ」  幸だって、どんなに恵に聞いて貰いたかったかしれない。  しかし、優一(ゆういち)との約束があるので、どうしても話す事が出来なかった。 「何でもない」  幸はそれだけ言って俯く。  恵は、何も答えようとしない幸に、どうしたらいいか分からず泣き出した。 「ねえ、何かしたなら一緒に謝るから。だから、お父さんに謝ろう?」  そして、幸の肩を掴むと激しく揺さぶった。  恵は家の為にと精一杯頑張っていた。  しかし、パート代だけでは生活費もカツカツだというのに、恵がどんなに働いても日下が飲み代と言って持って行ってしまう。  おまけに、幸は学校にも行かず優一の店に入り浸り、家にいれば日下を怒らせてばかりいる。  恵はもういっぱいいっぱいだった。 「おじいさんに相談しようか?」 そう言って、恵は幸を抱きしめる。  恵は両親に逆らって日下と結婚した事で、実家とはほぼ絶縁状態になっており、頼れるのは優一のところしかなかったのだ。  恵は電話で、日下が仕事をせずに飲み歩いている事と、幸に暴力を振るう事を訴えた。  それを聞いた優一は、お金も工面(くめん)するし、幸も引き取って面倒をみると言ってくれた。 「お願い出来ますか?」 『僕はいいけど、恵ちゃんは大丈夫かい?』 「(おさむ)さんは幸に腹を立てているみたいなので、しばらく離れていれば収まるんじゃないかと思うんです。それより、店を辞めた理由って聞いてませんか?」 『いや、聞いてないよ。それより、幸を今から迎えに行って大丈夫かな?』 「はい。お願いします」  電話を切ると、しばらくして優一がやってきた。 「修がすまないね。恵ちゃんは怪我してないかい?」  恵は日下に乱暴に犯されはしているが、怪我という程の怪我はしてなかった。 「大丈夫です」 「そうか。ならいいんだけど」  優一は幸に視線を向ける。 「つらかったね」  声をかけられて、幸は泣きながら優一にしがみついた。  優一は幸の背を優しく撫でる。 「何かあったら言ってくるんだよ。お金の事は修には黙っていた方がいいだろう。あと、幸の事は僕の方から引き取ると言った事にしておこう」 「ありがとうございます」  恵は泣きながら、何度も礼を言った。

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