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第一章(二十五)優一との別れ

 (めぐみ)が風呂から上がると、自宅の電話が鳴った。 『おじいさんが動かなくなった!』  受話器を取ると、いきなり(みゆき)の大きな声が聞こえて来た。 「動かないって何があったの?」  恵も幸のただならぬ様子に驚いて聞き返す。 『倒れて動かなくなって……!』 「すぐ行くから待ってて」  恵は電話を切ると、着替えるために慌てて寝室に戻った。  寝室に戻り、恵は簡単に身支度を整えた。  恵は、なるべく静かにしたつもりだったのだが、その音に日下(くさか)が目を覚まし、ベッドから半身を起こした。 「どうした?」  日下は、夜中に出かける準備をする恵を(いぶか)しんで聞いて来る。 「それが、お義父(とう)さんが倒れたって」  それに、恵が答えると、日下は不快そうに顔をしかめた。 「放っとけばいい」 「でも、そういう訳にはいかないから!」  恵はそう言うと、日下が止める間もなく、走って出て行った。 「くそっ」  日下は慌てて着替えると、恵を追って店に向かった。  店に着いて、二人が慌てて二階に上がると、布団に倒れた裸の優一(ゆういち)と、それを心配そうに見守る、同じく裸の幸がいた。 「お義父さん?」  恵は駆け寄ろうとしたが、優一が裸なのを見て、近寄るのを躊躇(ちゅうちょ)し、日下に話しかける。 「(おさむ)さん、お義父さんの様子を見て。私は救急車を呼ぶから」  しかし、日下は恵に従わず、真っ直ぐ幸の元に向かうと、思い切り殴りつけた。 「この恥知らずが!」  日下はそう言うと、反動で倒れ込んだ幸に、追い打ちをかけるように足を上げた。  それを見て、恵が慌てて止めに入る。 「修さん、やめて!」 「これが落ち着いていられる状況か?」  日下は蹴り飛ばそうと上げた足を下ろすと、幸の腕を引っ張って立ち上がらせた。  しかし、それは決して怒りが収まったからではない。 「こいつらが裸で何をしていたと思う?」  そう言って、日下は幸の腕を取ったまま振り回す。 「何って……、お風呂に入っていたんじゃ……」  日下は、恵の言葉を笑い飛ばした。 「ジジイが幸を抱いてたんだよ!」  それに、恵が驚いた顔になる。 「幸は男の子だし、そんな事ある訳ないじゃない」 「俺はジジイと幸が抱き合うのを二回も見てるんだ!」 「でも、そんな筈ないよ」  日下は幸の体を確認しようとして、内腿にある痣が目に止まった。 「これを見ろよ!」  日下は幸の股を開いて、その印を恵に見せる。 「そんな」  恵は驚いて両手で口を押さえると、その場に座り込んだ。 「恥さらしが!」  そう言うと、日下は幸を投げ飛ばして、蹴りつけた。  恵はそれを止めようと、必死で日下に縋りつく。 「待って! それなら幸は被害者じゃない!」  しかし、日下は、今度は恵みの制止を聞かず、縋る腕を払いのけた。 「被害者? こいつも気持ちいいって、喜んで抱かれていたんだから同罪だ!」  そして、日下は幸を罵りながら蹴り続ける。 「やめて!」  恵の何度目かの制止で、日下はやっと蹴るのをやめたが、怒りは収まらず、幸を侮蔑の眼差しで見下ろして指差すと、恵に大きな声で尋ねる。 「お前はこんな恥知らずが自分の息子だと思えるのか!?」 「だって幸は悪くないでしょ! 悪いのはお義父さんじゃない。修さんだって、どうして知っていたら止めてくれなかったの?」 「毎日ジジイのところに通ってる時点で、おかしいと思うだろ!」 「だって……」  それでも、恵には幸は被害者としか思えなかったが、ひとつだけ引っかかる事があった。 「ねえ、幸とお義父さんの……。修さんが仕事に行かなくなったのは、その所為?」 「ああ。ジジイが幸の上で腰を振って、幸が喜んで喘いでいるのを見たからな!」  それならば、日下が店に行かなかなくなったのも、幸に暴力を振るうようになったのも、全部辻褄(つじつま)が合う。 「でも、幸は悪くないから!」  恵は庇いながらも、平穏な家庭を壊したものに怒りを覚えた。  幸は関係ないと頭では分かっていても、自分のして来た苦労を思うと、複雑な感情を抱かずにはいられない。  しかし、今すべき事は原因を追求する事ではない。 「早く、救急車」  恵は慌てて一一九番にかけた。  優一は全く動かず死んでいるようにも見えた。  しかし、恵にはもう悲しいという気持ちは湧いて来なかった。  しばらく、そうして待っていると、サイレンが鳴って救急車が到着した。  日下はこの件に関しては、全く動こうとしなかったので、恵が救急隊員の応対をした。  付き添いが要ると言われたので、恵が付き添う事になった。  しかし、その場に幸を置いて行けば、日下に暴力を振るわれるのは分かりきっている。  恵がどうしようかと考えていると、救急隊員が話しかけて来た。 「お子さんも心配しているようですし、一緒に連れて行って大丈夫ですよ」  救急隊員は、優一に縋りついて泣いている幸を見て、恵に提案してくれた。  そして、幸の方を見て話しかける。 「一緒に来るかい?」  救急隊員に言われて、幸は泣きながら頷いた。  この提案は、恵にも願ったりだった。 「ありがとうございます。お願いします」  恵は礼を言うと、幸を連れて救急車に乗り込んだ。 「おじいさん」  幸は心配で縋りつきたい気持ちを抑え、病院に着くまで邪魔にならないように隅でじっとしていた。  病院に着くと、優一の死亡が確認された。  死因は脳卒中という事だった。  幸は優一の遺体に寄り添うと、その手を取って声を上げて泣いた。 「おじいさん。おいてっちゃ嫌だよ」  二人がタクシーで帰ると、日下は店にはいなかった。  アパートにいるのかと戻ってみたが日下はおらず、代わりに、タンスの引き出しが開いていて、中にあった金がなくなっていた。 「もう嫌だ」  恵は床にしゃがみ込んで泣き出した。  そして、肩に手を乗せようとした幸の手を反射的に払ってしまう。 「お母さん?」  恵は、心配して覗き込む幸を押しやると、寝室に入り扉を閉めた。  一人取り残された幸は、自室のベッドに倒れ込んで、声を殺して泣いた。  その後、優一の葬儀は身内だけで行われた。  日下は、優一の財産を相続したが、あるものと言えば、僅かばかりの貯金とその店だけだ。  しかし、日下は大嫌いな優一の店を継ぐ気など全くなかったので、早々に店を畳んで売り飛ばしてしまった。  幸は大好きな祖父も大好きな鍵屋も一遍に失う事になった。  そして、幸の元に残されたのは、優一の商売道具一式だけだった。

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