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第二章(三)児童相談所
ある日、児童相談所の職員が、通報があったと部屋を訪ねて来た。
どうやら日下 の怒鳴り声や幸 の叫び声が、アパートの壁を抜けて、何件か先にも届いていたらしい。
虐待を疑われたが、日下は幸を隠して表には出さず、適当な事を言って職員を追い返した。
職員が帰ると、日下は顔を真っ赤にして幸を怒鳴りつけた。
「お前がうるさいから、役人が来たじゃないか!」
日下は幸を引きずり回すと、声を出せないように口にタオルを詰め込む。
そして、また職員が来ると面倒だと、痕 が見えないように服の上から蹴りつけた。
『助けて』
「うるさいんだよ!」
幸の声にならない声に、日下は苛立ちを覚えた。
「お前なんか産まれて来なきゃ良かったんだ!」
そして、日下は何度も幸を蹴りつけたあと、優一の遺影を投げつけると、そのまま家を出て行った。
恵 が家に帰ると、幸が遺影を抱えて泣いていた。
割れたガラスに傷ついて、幸の手から血が流れている事に気付き、恵は慌てて遺影を取り上げる。
「幸、何してるの?」
恵は、血を止めるように、幸に何枚かティッシュを渡してから、割れたガラス片を集め始めた。
「お父さんが……」
幸は傷口を押さえながら、涙で潤んだ目で恵を見た。
「またお父さんを怒らせるような事をしたの?」
恵に聞かれて、幸は首を横に振った。
「人が来たら、お父さんが怒って……」
人と言われても、恵には全く心当たりがなかった。
親戚とは縁遠くなっていたし、もう学校の教師も随分と来ていない。
「誰が来たの?」
「知らない人」
幸の答えは要領を得なくて、恵は聞くのを諦めた。
それに、恵はもう夜の仕事に行く時間だったので、これ以上幸に関わっている暇もなかったのだ。
「これ、お弁当。じゃあ、お母さんはもう出かけるから」
恵は額縁を遺影ごと袋に入れると、テーブルに弁当を置いて、慌てて出かけて行った。
幸は恵の背中を見送ってから、袋に入れられた遺影を取り出した。
そして、大きく割れた破片だけを集めると、床にジグソーパズルのように並べていった。
パズルが出来上がって、幸が弁当を食べ終えた時、玄関のドアが開いて日下が帰って来た。
日下は帰るなり、幸が組み立てたパズルを蹴り飛ばした。
「何やってるんだ! そんなにジジイが忘れられないのか!?」
「ごめんなさい」
日下は、泣き叫ぶ幸の口にタオルを押し込むと、思い切り脇腹を蹴り飛ばした。
「そんなに好きならジジイの所に行っちまえよ!」
『ごめんなさい』
微かにくぐもった声が漏れただけで、日下はいっそう腹を立てて暴力を振るった。
それでも、幸はただ日下の暴力が終わるのを待つしかなかった。
『お父さん、ごめんなさい』
幸は遠くなる意識の向こうで、しあわせだった頃に思いを馳 せた。
幸にとって、昔の日下はとても優しくて大好きな存在だった。
月に一度の休みには、決まって家族三人で出かけた。
時々、遊園地やショッピングモールに出かける事もあったが、行く場所は近所の公園の事が多かった。
ボールを投げて遊んだり肩車をして貰ったり、何でもない日常だったが、幸にとってはしあわせな時間だった。
幸が意識を取り戻して、周りをぼんやりと見回すと、日下が床に倒れてイビキをかいていた。
幸は床から起き上がると、日下が寝ているのを確認してから、風邪をひかないようにと体にタオルケットをかけた。
それから、ガラスをかき集めて自室に持ち帰り、床の上に広げた。
幸はもう一度パズルを組み立てながら、どんなに拭っても、あとからあとからこぼれ落ちる涙を堪える事が出来なかった。
そして、ひとつ、またひとつと遺影に染みを作って行った。
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