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第三章(二十七)看病
大きな仕事の後で、多田 も少し休みたかったのだが、立て続けに断れない依頼が来て、予定がかなり詰まってしまった。
忙しいとは言え、構成員の綿密な下調べの後、幸 も含めて打ち合わせが行われる。
仕事については幸は楽しんでいるようであったが、疲れは溜まって来ていたようだった。
その上、多田に毎日抱かれるのだから、体力は更に削られて行く。
そんな状態だったので、翌々日が仕事と言う段になって、幸は高熱で倒れてしまった。
当日に熱が下がる保証もない為、急遽 、代わりに日下 に仕事を依頼する事になった。
多田も不安がない訳ではなかったが、他にあてもなく、先延ばしに出来ない仕事の為、仕方がなく任せる事にしたのだった。
そんな訳で、幸にとって、多田に抱かれる事もなく仕事もないという、組織に入って以来、初めての完全な休みとなった。
そして、病気の幸を一人にはしておけないと、沢井 が仕事を休んで看病する事になった。
これは、幸も人見知りが治って来たとはいえ、親しくもない構成員に世話をされるのは嫌だろうと言う多田の計らいだ。
沢井に任せる事については、多田も心中 穏やかではないが、幸を事務所に来させる事が出来ないとなると、他にいい方法が思い浮かばなかったのだから仕方がない。
そういう訳で、沢井は前の晩から幸を看病している。
沢井は、誰かの看病などした事がなかったので困惑したが、分からないなりにも、保冷剤を替えたり、汗に濡れた体を拭いたりと甲斐甲斐しく世話をした。
それでも、幸の熱は下がらず、食事も殆 どとっていなかった事もあり、沢井は心配してゆっくり休む事が出来なかった。
看病疲れで、沢井がベッドに突っ伏して、うつらうつらとしていると、幸がうわ言を言うのが聞こえた。
「お母さん……」
そして、頬 に一筋の涙が流れる。
その様子を見て、沢井は幸が今まで泣き言らしい泣き言を言った事がない事に気付いた。
確かに幸も涙を流す事はあるが、多田に抱かれた時も苦しいだろうに、それを嘆く事はなかった。
まだ小さな幸は、どんなにか母親が恋しい事だろう。
それなのに、父親に虐待を受け、母親に置き去りにされても、誰かを恨む訳でも、悲観に暮れる訳でもない。
沢井からすれば、幸の境遇は不幸としか思えないのに、幸が素直に育っているのが不思議で仕方がなかった。
「日下幸か…皮肉な名前だな」
幸には、その名の通りの「太陽の下でのしあわせ」が訪れる事はないだろうと、沢井は思った。
沢井が体を拭いて着替えさせていると、幸がうっすらと目を開けた
「沢井さん?」
幸が沢井の方に手を伸ばす。
「起きたか?」
そう言って、沢井は幸の手を握った。
「仕事って今日でしたっけ? 今、何時ですか?」
「仕事は、他の人にやってもらう事になったから心配するな」
「良かった」
幸は安心したように笑みを浮かべた。
そして、まだ意識が朦朧 としているのに、そんな状態でも仕事の事を気にしている。
沢井は、幸が大人に食い物にされていると、全く気付いていない事を少し不憫 に思った。
「何か食べるかい? と言ってもレトルトのお粥 くらいしかないんだけど」
「お粥、好きです」
「じゃあ、ちょっと待っててくれ」
沢井はキッチンに立つと棚を漁 った。
「多分この辺に……」
ガサガサと探すと、棚の奥の方から梅粥が出て来た。
沢井は粥をレンジで調理して持って来ると、幸の上体を起こして食べさせる。
「いい子だな。たくさん食べて元気になるんだぞ」
沢井が幸に食べさせていると、インターホンが鳴った。
「誰だ?」
沢井が訝しみながら出ると、相手は一言名乗った。
「多田だ」
沢井は慌ててドアを開ける。
すると、多田が部下を一人連れて立っていた。
「どうしました?」
「見舞いだ」
多田はそう言うと、沢井の部屋に上がって真っ直ぐ幸の方に歩いて行く。
「多田さん」
幸は怒られるのではないかという思いと、申し訳ないという思いがあって、不安そうな顔で名を呼ぶ。
「体調はどうだ?」
しかし、多田は怒る事もなく、心配そうな顔で幸の額 に手を当てる。
「まだ熱が高そうだな」
そして、幸に軽く口付けた。
「あの、今日は仕事が出来なくてごめんなさい」
幸は申し訳なさそうに、目を俯 せる。
「気にするな」
多田は、体調が悪いのに、自分の事より仕事の事を心配する、幸の健気な態度を愛しく思った。
そして、もう一度口付ける。
「可愛いな」
多田は、幸を抱きたくなったが、なんとか気持ちを抑えて、ゆっくりと体を離した。
沢井は、多田が幸を抱きに来たと思っていたので、その態度が意外な気がして、思わず言葉が口をついて出る。
「ボス、今日はわざわざ見舞いの為だけに来たんですか?」
沢井が尋ねると、多田は眉を顰 めた。
「私が幸を抱きに来たとでも思ったのか?」
「いえ、そんな事は」
沢井は図星をさされて少し慌てた。
「日下を迎えに行く途中に寄っただけだ」
しかし、多田の言った名を聞いて、今度は幸の体がぴくりと動く。
「気にするな。一回使うだけだ。幸には近付かせない」
そう言うと、多田は幸の気持ちを察して、安心させるように抱きしめた。
「ありがとうございます」
幸はそう言いながら多田にしがみついた。
「用がなければ抱いたんだがな」
多田は幸を抱きしめると深く口付ける。
「口の中が熱いな」
そして、多田は口を離すと幸の頬を愛おしそうに撫 でた。
それから、沢井の方に向き直る。
「何かあったら私に連絡しろ。後は任せたぞ」
多田はそれだけ言うと、沢井の部屋を後にした。
沢井は多田が部屋を出るまで、その後ろ姿を見つめていた。
そもそも、多田が日下を迎えに行く必要などなく、部下の一人に命じて連れて来させればいいだけの話だ。
それなのに、多田が幸に会いに来る為だけに来たのだとしたら、本気で幸の事が気に入っていると言う事だろう。
「幸?」
沢井は食べかけの粥に目を落とした。
「まだ、お腹すいてるか?」
幸は困ったような顔をしてからこくりと頷 く。
「じゃあ温め直して来るよ」
そして、その場を去ろうとする沢井の背に、幸が問いかける。
「沢井さんは食べないんですか?」
言われて、沢井はまだ食事をしていない事に気付いた。
沢井は、幸の優しい気遣いに心が少し揺れたが、それを振り払うように頭を振った。
それから、沢井は幸を振り返る。
「じゃあ一緒に食べるか」
「はい」
微笑む幸につられて、沢井も知らず、笑みを浮かべていた。
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